第13話:境界線の裏と向こう③

 リタを乗せた自動車が移動を始めてから丸一日が経過した。車両は主要な街道から逸れてゆき、疎開民が目指す東の街には立ち寄らずに南下している。とっぷり宵闇に呑まれつつある田舎道はガス灯なんかひとつもなくて、遠くにはぐれ難民の頼りない灯りが見えるだけ。雨季の温かい季節とはいえ、飢えと寒さに耐えきれない者も出てくるだろう。

 考えてもどうにもならないことだ。それより今晩の宿。出発前、もしやホテルにでも泊まれるんじゃないかと期待していたリタは愚かだった。自動車が停まったのは、農道脇のしょぼくれた帝国軍の野営地だった。

 イングリットが降車すると、事前連絡を受けていたらしき下士官が敬礼した。

「ようこそ、グリム大尉」

 ようこそ、の部分がリタに聞き取れたのは王国語と発音が似ていたからだ。イングリットは下士官に何やら耳打ちして、人払いの身振りをした。

「はっ」

 野営地の下士官はかしこまって下がっていった。運転手と護衛兵はうんざりしたように伸びをしたり、同僚との雑談に興じだした。彼らの今日の仕事は終わりなのだろう。野営地からのっそり出てきた整備兵が、自動車の点検を始めた。

 リタは乾パンとスープ、チーズに干し肉ひと欠片を受け取り、小さなテントに案内された。当然の面構えでイングリットも同席。

「え? あんたと一緒に寝るの?」

「そうだよ。明日は厳しい旅程になるから、しっかり食べておきなさい」

 イングリットはリタから一切目線を外さず、パンをかじった。

 まぁリタは捕虜だし、見張りに男が付くよりは同性の方がはるかにマシだし。捕虜としては素晴らしく優遇されているのだ。文句を付けるほどお嬢様気質を引きずってはいない。

「......休むってもね。この先あたしが無事でいられるとは思えないんだわ。呑気に敵の飯なんか食えると思う?」

 とか言いつつ、リタの腹がくぅと鳴った。

「……食わないとは言ってないからね」

「そうか」

 リタにとって食事は黙ってするものだ。急げば急ぐほどいい。軍隊生活を始めるずっと前からそうだった。飯を食っている時は、人間にとって最大の隙だ。家でだって、誰かと会食を楽しむなんてありえなかった。幼い頃、同じ食卓に着いた母の卑屈な視線を覚えている。炎で洒落にならない悪さばかりする悪童を心底嫌いながら、たまに「お外は楽しかった?」なんて恐る恐る訊いたりして。

 楽しかったよ。不良ぶった貴族の坊やを痛めつけて巻き上げた金で食った飯の方が、美味かったよ。お前に伝えた好きな料理なんて、全部嘘だった。奴が今でも母親面して、帰還したらあなたの好きな手料理を振舞ってアゲル、なんて手紙を寄越しやがるのがリタはずっと不愉快だった。


 帰れるのか。ジャバルタリクに。本島に。帰ったら、どうなるんだ。

 戦わなくていい時間が想像よりずっと暇なことに、リタは今更気が付いた。そのせいで、余計なことを考えていた。

「帝国軍の食事は口に合わないか」

 イングリットの鋭い目つきがリタの口元に集中している。リタは口の中のパンをたっぷり40秒かけて飲み下してから答えた。

「美味いよ。このまま帝国人になってもいいかなって考えてた」

「それは助かる。帝国軍に協力するなら、必ず良い立場ポストを約束しよう」

「……ほんっと、あんた冗談通じないんだね」

「王国語のスラングはそれなりに知っているつもりだ。ただ、私の周囲には君のように愉快な人間がいないから、冗談を交わすのに慣れていないんだ」

「ふぅん……?」

 リタは食事の手を止めた。イングリットが自身の周囲について話すのは初めてだ。やっぱり世間話の体で、情報収集しておこう。重要なことを語ってくれなくても、何だかんだこっちで推察できることはある。

「あんたの上司……魔女狩り部隊の指揮官って、どんな奴?」

「不愉快な人間だ」

 イングリットは即答した。リタはちょっと眉を上げた。釣れた、とまでは思わないが、嫌いな奴の話なら大概__特に女同士では__盛り上がれる。こいつと世間話など御免こうむるが、彼女がこちらに(何故か知らないが)友好的である限りは、実のある話を聞けそうだ。

「へぇ、嫌いな上司ねぇ。愚痴でもなんでも話してみなよ。あたし捕虜だから告げ口なんてできないよ?」

 イングリットは少し沈黙し、それから慎重に言葉を選んだ。

「戦争を楽しんでいる」

「人殺し大好き同士、同類じゃないの?」

「私は、私のような人種が存在するべきではないと思っている。ところが奴は、そんな人殺ししか能のないクズを集めて『諸君は人生を謳歌すべきだ』と嘯く」

「善悪でいったら悪だけど、理解ある上司に聞こえるね」

「だから始末が悪いんだ。戦争の中で、私たちは肯定された。あらゆるものを踏みにじり、喰い潰してきた。人が当たり前に享受すべき幸せを、壊してきたんだ」

 イングリットはずっと鉄面皮のままなのに、彼女の言葉は妙に熱っぽい。語っていくうち、最初からぬるかったスープが冷めていく。

「皆、選んで殺した。止まる機会はいくらでもあった。祝福された虐殺に酔いしれて、止まらなかったクズ共が私たちだ」

 酒でも飲んでなきゃ吐き出せそうにないことを、イングリットは素面で言ってのけた。言葉の節々に染み込んだ自己嫌悪が、彼女のアイデンティティとして完全に定着しているようだ。

 皆、とは。魔女狩り部隊のことを言っているのだろうに、リタにはどうにも他人事ではないように聞こえた。

 イカれた女という認識は変わらないが、リタはイングリットへの印象を改めた。同じ国に生まれていたら、仲良く肩を並べて地獄に突き進んでいたことだろう。ただし平和な時代でお友達になれるとは到底思わない。


 不味い空気の中、お互い気にもせず黙々と食事を終えた頃。イングリットが口を開いた。

「先ほど、帝国軍に協力するなら必ず良い立場を約束しよう、と言ったが」

「一言一句違わずそう言ったね。それが?」

「祖国への裏切りを求めるのにそれだけでは足りないだろう。戦争が終わったら、君に普通の暮らしをさせてあげよう」

 リタはせせら笑った。

「戦争に加担した魔女が、今更平和に暮らせるわけないでしょ」

 連合王国で、魔女は救国の戦乙女になった。この戦争がどんなかたちで終わるにせよ、次に何かしら戦いが起こったら間違いなく魔女は動員される。それを、リタたちは証明してしまった。魔女はもう、ちょっと身近なおとぎ話ではいられない。結構なことじゃないか。リタは、諦めているし期待してもいる。皮肉なことに、自分が軍事力として必要とされている限り、一番居心地のいい地獄に浸かっていられる。

「できるとも。帝国が勝てば、魔女の力は必要なくなる」

皇帝陛下こーてーへーかが世界を平定すれば戦争がなくなるから?」

「魔女が生まれなくなるからだ」

 リタはしばらく考え込む。下手な冗談を返したくなくなった。

 それって。「連合王国人を根絶やしにする」ってことかしら。なんせ連合王国本島にしか魔女は生まれない。もし魔女が今後一切この世に生を受けないようにするには、帝国がそのような狂気の民族浄化に手を染める必要がある。

 しかし、魔女が王国本島に生まれる原理は分かっていない。少なくとも、リタには。帝国軍は、王国軍の大本営が隠している……もしくは大本営すら知らない魔女の真理を知っているのだろうか。


 さて、あたしはこの世界の謎を求める探究者たりうるか?

 リタはガラティエへの道のりに、岐路が見えた気がした。

 戦いさえあれば、リタはそれでいい。けれどそうじゃない仲間たちがいる。

 戦争の汚さを知らないまま前線に出されたおチビのシャーロット。フツーに優しくて良い子なのに、無理して犠牲を背負い続けるアメリア。ケイリーは……別に平和な時代でもワーカホリックだろうな。マグダレナ・ソロモンスは……よく知らんけど魔法を使わなきゃ死なずに済んで喜ぶんじゃなかろうか。

 魔女の力が不要になるなら、彼女たちはこれ以上地獄に首を突っ込まずに済む。今後戦争が起こったとしても、誰かに任せておけばいい。もう当事者にならなくても、いい。


 リタが考え込んでいると、イングリットはやや口調を和らげた。

「……今すぐ仔細は言えないし、私の言葉を素直に信じるのも無理だろう。ただ私は、君のような少女は真っ当な暮らしをする権利があると思っているよ」

「真っ当な暮らしって、何?」

「甲斐性のある男と結婚して、円満な家庭を築き、穏やかな余生を過ごすことだ」

 人殺しが天職とのたまう女の人生観にしては、えらく牧歌的だった。戦争が始まる前の女たちは、大抵こんな感じで人生アガリな価値観だったらしい。けれどリタが物心ついた頃には戦争は始まっていて、女は従軍する男に代わって家庭を守る者、なんて風潮ができていった。

 イングリットのそれは、遠い遠い他人事の理想だ。平坦な口調の節々に、皮肉がにじみ出る。

「あんたさぁ、絶対そんなこと思ってないでしょ」

「思っていたさ」

「過去形かい。婚約者でも居た?」

「いたよ」

 リタは軽い口調で聞いたが、イングリットがふいに見せた表情にギョッとした。

 女の顔、とでも言えばいいのか。

 戦争に生きる怪物の顔に、当たり前のように『女』のロマンスが同居している。そのグロテスクさに、リタは寒気さえ覚えた。

「俳優業で稼げるから、一生ひもじい思いはさせないと、熱烈なプロポーズを受けた。そうだな……ちょっと気の多いのが欠点だが根は紳士で、良い男だったよ。私も夢中になった。彼となら、生涯をともにするのも悪くなかったな」

「そ、その男はどうなったの? まさか殺したとかじゃないっしょ?」

「人殺しは趣味じゃない、仕事だ。私から別れを切り出して、それきり後は知らない」

 過去形でさえなければ、甘い惚気話で済んだだろう。普通ならうっとりと目を細め、頬を染めながら語るところだ。けれどイングリットは淡々と、記録を読み上げるようだった。

 リタはさっき食べたパンの味を忘れてしまった。積年の戦火を浴び続けた女の恋物語は、ドロリと煮凝って据えた匂いがする。

 しかもどっかで聞いたような話なのが……最悪だ。

「あー……その、ごちそうさま。腹いっぱいだわいろんな意味で」

 気分が悪くなり、リタはテントで雑魚寝の姿勢になった。明日は厳しい旅程とか言ってたが、どうせ不愉快な道中になるんだろうな、などと思いつつ眠りにつく。イングリットはライフルを外の兵士に預け、わざわざリタの傍らで横になった。顔が近い。なぜわざわざこっちを向くんだ。

「ちょっと、無警戒なんじゃないの?」

「周囲を敵兵に囲まれて不安だろうから、添い寝してあげようと思っただけ」

「あんたも敵兵なんですけど……てか、隙を突いてあんたを人質に取るかもとか考えないわけ?」

「考えている。その場合でも君を傷付けずに制圧できる想定だが、場合によっては殺害するかもしれない」

 自分をいつでも殺す準備が出来てる奴に添い寝されて、ぐーすか眠れる奴が一体どこに居るんだよ!

 リタの叫びは残念ながら声に出ることはなかった。もちろん、その晩リタの寝付きは酷いものだった。


 翌朝、リタたちを乗せた自動車は静かに宿営地を出発した。白海北岸のガラティエに向かうべく、南へひた進む。

 田舎道に点在する民家には、人の気配があった。時おりイングリットは補給のため、交換用の戦時国債を手に彼らを訪ねたが、結果は芳しくないようだった。卵1個と紙っぺら、どちらが重いか、人はよく理解している。

 平然と席に戻ったイングリット。リタは帝国製の不味いレーションを齧りつつ、減らず口を叩く。

「厳しい旅程って、貧しい民から徴発しなきゃ補給が厳しいってことなの?」

「順調に進めば、水とレーションはガラティエまでつ。私が危惧しているのは、自動車の故障や敵襲などで日程に遅れが生じた場合だ」

「敵襲……?」

 リタは首を傾げた。

 自動車の方はまだ分かる。こんな帝国支配域のド真ん中で敵襲とは。まさかリタを救出するためだけに、連合王国軍が部隊を送り込んでくれるとでも言いたいのか。

「ガラティエが旧公国領というのは知っているかな」

「公国? あー。座学で習った程度にはね」

 リタの世代が学校教育を受けた頃には、公国の名は地図から消えかかっていた。大戦初期には連合王国と同盟を組んでいたものの、戦線後退と同時に公都を占拠され、事実上の無条件降伏を受け入れた。いまや公国府は皇帝の傀儡だ。

 現場の王国兵たちに言わせてもらえば、味方だった期間が短すぎて同盟国と思ったことがないらしい。もちろんリタも。

「その旧公国派のレジスタンスが、ガラティエ周辺で帝国軍を襲撃して回っている」

「そんなこと、捕虜のあたしに教えちゃっていいの?」

 連合王国軍の情報部が知っているかはともかく、下々の兵隊には降りてきていない帝国軍の内部事情だ。割譲地を統治し切れていないなんて、捕虜に聞かせていいものだろうか。

「もちろん。危機感覚の共有は大事だ。私たちは今からレジスタンスの活動地域を突っ切ってガラティエに行く。連中は帝国軍を狙った無差別テロを行っているから、この車両が狙われる可能性もある」

「マジかぁ……」

 リタが頭を抱えるのをよそに、イングリットは慣れた手つきで愛銃に給弾クリップを押し込んだ。

「私の指示に従ってくれれば、無事にガラティエの収容所まで送り届ける。レジスタンスに助けて貰えるとは思わない方がいい」

「へいへい、弁えてますよそんくらい」

 旧公国レジスタンスの規模や最終目標などをリタは知らない。あちらも連合王国軍の魔女が捕虜になっているなど掴んではいないはずだ。仮に上手くやって脱走し、彼らと合流できたところで、ジャバルタリクに帰還する目処が立たなくては無意味だ。公国解放のために共闘しろと言われても困る。

 だいいち、イングリットから逃げ切れる気がしない。既に3発の鉛弾を、それも狙撃手にとって最悪の条件で喰らった身だ。彼女が異常なほどの腕利きであることは体感している。そもそもまだまともに動ける身体ではないし、今のところ確実に医療設備が整っている勢力に身を寄せておくべきだ。

 まずは自分の命を守ること。ここは大人しくイングリットに従っておこう。まだ彼女に聞くべき話も山ほどあるし。


 しばらく農道を走っていると、帝国兵を乗せた別の護衛車両が合流した。あらかじめ手配していたらしいが、偶然道中を共にしたかのように自然な縦列で走り出した。じゃあこいつらに食糧を多めに持たせとけよと思ったら、彼らもレジスタンスに捕捉されているのを危惧しているらしい。旧公国領の民衆は、帝国兵を歓迎していない。たかが巡視隊が不似合いな物資を持っているのが見えたら、潜伏しているレジスタンスに報告される恐れがあるのだとか。

 合流した車両はイングリットと軽くハンドサインを交わして、少し距離を開けて先行し始めた。地雷や待ち伏せがないか偵察するためだ。

「なんか戦場みたいなんすけど」

 話を聞く限り、帝国軍はこの地をまるで実効支配できていない。

「そうだね。所詮レジスタンスと侮られているが、ガラティエ方面の元公国軍を主軸に構成されている。練度が高く、土地勘もあり、裏で民衆に支援されている。侮れる相手ではないよ」

「ふぅん」

 リタは空気がひりつくのを感じた。殺気を感じる、と言うには語弊がある。敵の威圧感に対し、こちらが勝手に警戒心を高めているのだ。今さっき聞いた情報だけでも、そのレジスタンスとやらは公国が降伏してからずっと戦い続けてきたはずだ。指導者は相当な戦上手だろう。


 それからまた半日ほど田舎道を走った。いかに優れたサスペンションを積んだ高級車といえど、いい加減リタの尻も悲鳴を上げようとしていた。

 すっかり陽が傾いた頃、小さな村の入口に差し掛かった時、前の車両が停止した。ハンドサインでイングリットに降車するよう招いている。

「何?」

 リタが訊くと、イングリットは答える代わりにライフルのボルトアクションを一瞬で済ませた。助手席の護衛兵も短機関銃にマガジンを叩き込んだ。

 それ今すぐ撃ち合いになりそうってことじゃん……。リタは車両が防弾仕様であることを祈りつつ、降車したイングリットを注視する。

 前方車両の運転手が指したのは、村の門に吊るされた男の死体と、それを棒で突っつき遊んでいる若い帝国兵たち。リタに帝国語は分からないが、どうも死体はレジスタンスかその嫌疑者で、死体をいたぶっているのは村に駐留している帝国軍の兵士たちらしい。

 イングリットはライフルを、なぜか死体の方に向けたまま村の門に近寄った。険しい口調で若い兵士たちを叱責している。遺体を辱めるな、とでも言っているのだろうか。にしては警戒の仕方がおかしい。

 イングリットが兵士たちに檄を飛ばす。指揮官を呼べとの命令だったらしい。彼らは訳も分からず、ヘラヘラした態度を切り替えぬまま、のろのろと移動し始めた。


 リタの遠目に、死体がびくりと動いたように見えた。風のせいではなく、明らかに彼の腕が、痙攣するように跳ね上がった。

「え?」

 リタの戸惑う声を掻き消し、イングリットが死体に向けて発砲。異様な動きを見せた死体の右腕関節を破壊する。半ば腐っていた腕は宙にちぎれ飛んで、若い駐留兵の足元に落ちて盛大な悲鳴を上げさせた。

 異常な現象は続く。イングリットは間断なくコッキングし、次弾を死体に叩き込もうとした。しかし片腕を失った死体は、完全に生きているかのごとく己の首に左手を伸ばし、彼を吊っていた縄を引き千切った。腐った脚が、腐敗液で湿った地面に水音を立てて着地する。

 イングリットの次弾が死体の脚部を正確に穿つ。死体は右足の関節を砕かれ、派手に崩れ落ちた。が、グズグズの体液を引きながら兵士たちの方へ這い寄ろうとしている。

「ゾンビ!?」

 パルプ雑誌の安いホラー小説でしか見ないような存在が、リタの目の前にいた。

「魔法……レジスタンスに、魔女がいるってこと? マジで!?」

「Was für eine laute Hexe!」

 短機関銃を窓の外に向けつつ、護衛兵が叫ぶ。

「え? ごめんなんて?」

 今度は首だけこっちを向いて、彼は自分の口を指してから怒鳴った。

「Halten Sie die Klappe!」

「ああうるさいってことね! ごめんね帝国語分かんなくてさぁ!」

 怒鳴り合っているとイングリットが後部座席に駆け戻ってきた。

「村から退避する。君は頭を下げていなさい」

 それから彼女は前の車両にハンドサインを送った。するとその車両は天板を外し、車載機銃を露わにした。機関銃手が放った弾丸が執拗にゾンビを挽肉にしていく。

 こちらの車両の護衛兵が、イングリットに鋭く叫んだ。彼の短機関銃が狙いを定めるのは村の脇にある畑。耕したにしては不自然に土が高い。塹壕代わりの盛り土だ。よく気づいたな、とリタは素直に感心した。魔女狩り部隊の練度はかなり高そうだ。

「伏せていなさい」

 イングリットは警告する前にリタの頭を座席の床に抑え付けていた。護衛兵が頭越しに短機関銃を掃射する。熱い薬莢がリタの赤毛を跳ねて「熱っつ!」車内に散らばる。畑の方から、散発的な銃撃が呼応する。車体のどこかに鉛弾が命中したが、幸い運転手は問題なく発進させてくれた。

「包囲されている。護衛車両に救援の無線を打電させた」

 イングリットの声にはわずかな焦りがあったが、ある程度予想していたのかいつもの調子だった。自動車は前を走る護衛車両に続き、村を突っ切ろうとする。一方、奇襲を受けた駐留兵たちは完全なパニックに陥り、どこぞでサボっているだろう指揮官を探して村のあちこちへ四散した。

 リタは頭をイングリットの方に向け、懲りずに口を開いた。

「ちょい説明してくれる? 分からん殺しされんのは御免なんだけど」

「君が言った通り、レジスタンスの魔女が操るゾンビだよ」

 どんだけ耳がいいんだか。

「村人たちがレジスタンスを匿うことくらい、帝国兵なら誰だって疑う。どんな部隊も隠れ家や補給を必要とするから。だが奴らは違う」

 畑の盛り土の縁から、薄汚い影が素早く立ち上がった。それも、幾つも。眩い夕陽を背に、1、2、5……10人以上見えたのでリタは数えるのを止めた。

「奴らは死人を蘇らせて兵隊にする。だから帝国軍にはレジスタンスを殺害した場合、もしくは所属不明の遺体を発見した場合、速やかに焼却するよう通達されているのだが……今回は連絡不行き届きのようだね」

 ライフルを持っていたのは数名(と数えるのかリタは知らないが)。彼らは自動車を狙い、大昔の戦列歩兵よろしく行進射撃を行う。

 一方、大半のゾンビたちは徒手空拳でこちらへ向けて駆け出した。操り人形のように首をガクガクと揺らし、手足を千切れんばかりに振りながら、それらのスピードは常人をはるかに超えていた。

 逃げ惑う帝国兵のひとりが、ゾンビに掴み掛かられる。地面に組み伏せられた彼は、異常な膂力によって一切の抵抗を許されずくびを握り潰された。

「飲まず食わず、撃たれても死なず、猛獣並みの膂力で白兵戦を仕掛ける神出鬼没の部隊だ。通常の兵站を無視した奇襲に翻弄され、帝国軍は奴らに対応し切れずにいる」

 民家に避難しようとした駐留兵が、固く閉ざされたドアを銃床でノックしている。彼が無駄な努力をしている間に、にじり寄ったゾンビが拳を振るう。駐留兵は側頭部をひしゃげさせ、民家の壁に激突して動かなくなった。

 おっとり刀で駆け付けた駐留部隊の指揮官が、下半身丸出しの恰好で道の真ん中に飛び出し__護衛車両に跳ね飛ばされた。部下を遊ばせて上官が何をやっていたのか、語るに落ちる。

「今のは事故だよ」

 護衛車両の方からものすごい悪態が聞こえた。イングリットの釈明にリタは同情した。


 野放図に駐留部隊を狩っていたゾンビたちの動きが変わった。明白にリタたちに狙いを定めたのだ。幾つかの個体が家々の屋根を駆け上り、自動車に先回りしようとする。魔女狩り部隊の護衛兵たちは民家への被害も気にせず機関銃をバラ撒き、牽制する。しかしゾンビたちの機動力に翻弄され、あるいは多少の被弾をものともしない耐久力に圧され、有効打を与えられずにいる。

 一方イングリットは必中と呼べるほどの精度で襲い来る敵を撃ち落としていったが、ライフルの射撃速度には限度がある。過熱した銃身から湯気が見えるようだった。彼女は落とし切れないとみるや、銃剣を装着した。

 一体のゾンビが、リタの乗る車両に飛び移る。天板がへこむほどの衝撃の後、助手席の護衛兵が引きずり落とされた。彼の持っていた短機関銃がガク引きされ明後日の方向に弾を散らす。

「Hör nicht auf」

 イングリットが告げると、運転手は冷静にスピードを上げる。ゾンビが次の標的である運転手へと腕を伸ばす。イングリットの銃剣がそれを予知していたように突き出され、腐った肉を切り飛ばす。だがゾンビは止まらない。空になった助手席へ乗り込み、なおも片腕で運転手を襲うべくもがく。


 頭上を閃く銃剣との攻防に巻き込まれないことを祈りつつ、リタはゾンビたちの戦闘知能に驚きを隠せない。さっきから、狙いが的確過ぎるのだ。まるで、ひとりの司令官が戦場を俯瞰して指揮している……あるいは、すべてのゾンビをひとりで操作しているようだ。なら、ゾンビは自分を狙わないのではないか。軍服を着ていないし、明らかに傷病者だ。

 けれど自分ひとり生き延びたとして、レジスタンスに接触できる保証はないし、彼らに着いたからといって安全が保障されるわけでもない。仮にイングリットたちが全滅したとして、他の帝国軍部隊に拘束された際にどんな待遇が待っているか、まぁ想像は付く。

 今のリタにできることと言ったら、車両の底で縮こまっていることくらいだ。仕事道具を失った魔女は単なる非力な少女で、リタはそれがもどかしかった。正答が無い問題なんか、ぜんぶ焼き払ってしまいたいのに。


 取り付いたゾンビをイングリットが突き落とした頃には、前を行く護衛車両に大量のゾンビが取り付いていた。くびり殺された機関銃手の脚だけが車両に引っ掛かり、路面を血塗れの頭が叩き続けている。イングリットはそうそうに味方を諦めた。これ以上の援護はできそうにない。そのうちに護衛車両はフラフラと道を外れ、村の厩舎に激突して沈黙した。追加で飛び付いてきたゾンビを銃剣で突き刺し、慣性のまま車外へと投げ飛ばす。

 もう一体。今度は前から運転席に飛び込んできた。

「きゃぁ!」

 悲鳴を上げたのはリタだ。運転手は激突の衝撃で死んだか意識を失ったか、ともあれハンドルを手放してしまった。ようやくリロードを終えたイングリットが飛び込んだゾンビに銃弾を浴びせ、頭を完全に破砕する。

「リタ、ハンドルを頼む」

「ああもうっクソ!」

 なんで帝国軍なんぞを助けようとしてるんだか。リタは本音ではイマイチ納得がいかないまま、イングリットの指示に従って身を乗り出した。ハンドルを掴む。民家に衝突しそうになったところをギリギリで回避。

「ペダルを踏むと加速する」

「そんくらい知ってるから!」

 リタは運転手を確認した。首が直角に曲がっているから、さっきので絶命したんだろうな。遠慮なくゾンビごと蹴り落として運転席に着き、ガッツリとペダルを踏み込む。エンジンが壊れそうなくらい高く唸る。いや、長旅で酷使したせいでもう壊れかけているようだ。爆音の割にスピードが出ない。

 いつの間に回り込まれたのやら、ライフルを持ったゾンビの一団が前方で待ち構えていた。規律正しい一斉射撃が自動車のフロントを叩く。

「うおわっ、ちょっマジで無理だって!」

「君はやればできる子だよ、そのままねなさい」

 ふたりして首を低くする。叩き割られたフロントガラスをライフル弾が素通りする。バンパーにも相当数を被弾し、壊れちゃいけないものが壊れた音が何度も聞こえた。おそらくエンジンが完全にイカレてしまったが、ギリギリで人を轢き殺せそうな速度には達している。

「あんたは私の母親か__おああああーっ!」

 リタは珍妙な叫びを上げながら目をつぶった。肉の塊とぶつかる衝撃が、ボロボロの車体を強く揺さぶる。タイヤが跳ねる。次いで肉やら骨やらを潰す音。車体が傾いた。右の前輪が外れたらしい。車の軌道が大きく曲がり、リタとイングリットは遠心力でもみくちゃにされた。

「無理無理無理無理」

 リタは神に祈る代わりにこう唱える。魔女に神は居ないからだ。なお返事がないところ、イングリットも流石に無理なようだった。盛大にスピンを繰り返した後、車は村の真ん中で完全に停止した。


 身体のあちこちに鈍痛が走ったが、リタは奇跡的に軽傷で済んだ。エスターライヒで喰らった銃創の手術痕の方が痛いくらいだ。後部座席から素早く転げ出たイングリットが、リタに手を差し伸べる。

「……リタ、生存しているかな?」

「み……見ての通り」

 イングリットの助けを借りて、高級車の残骸から這い出る。周囲はゾンビに囲まれていた。あと5……10……数えなければよかった。ため息を吐いたリタに、イングリットは淡々と告げる。

「リタ、気付いているかもしれないが君はレジスタンスの標的にはならない。明らかに帝国軍人ではないからだ」

「そうね。そりゃ好都合……と言えたらよかったんだけど」

 彼女はリロードをしなかった。もう残弾が少ないのだろう。銃剣も度重なる格闘で刃こぼれしている。魔女戦隊の護衛も、村の駐留部隊も全滅した。村人はそもそもレジスタンスの味方だ。

 ゾンビの包囲網が、じりじりと狭まる。

「君には選択肢がある。ここで私の死を見届けてから、レジスタンスに保護されるか」

 イングリットは懐に手を突っ込んだ。取り出されたのは、手のひらに収まるくらいの携帯式カンテラ。蝋と芯は既に差し込まれている。

「炎の魔女としてレジスタンスと戦い、引き続き帝国軍の虜囚となるか」

 押し付けられたそれを、リタは受け取ってしまった。ついでにマッチも。炎の魔女の仕事道具はカンテラだ。これがあれば、リタは魔法を使える。魔法を使えば、ゾンビを焼き払うことができる。

「もちろん、それを使って私を焼き殺し、諸手を上げてレジスタンスに迎合してもいい」

「それジョーク?」

「本気だが。単に、カンテラを手にした君にはその自由がある」

 イングリットは眼前の敵を平然と見渡している。彼女は自分とリタの命を勘定に掛けたうえで、至極合理的な選択をした。そして、当然リタもそうするべきだと言外に訴えている。ただしこの選択肢に正答はない。天秤を傾けるのは己の手だ。


 リタはカンテラを軽く弄んでみた。ちゃちな造りだ。マッチは仕事道具に必須じゃないので放り捨てる。痣で青くなった鉄面皮の横顔を、嘲ってやる。

「あんたさぁ……生きるの下手過ぎでしょ」

「その通りだね。上手に生きる人間は、戦争なんぞに関わらずに済む」

 同類だ。同族嫌悪だ。この女はやっぱり色々狂っていると思うけど、それを認めると自分にもブーメランが返ってくるから言ってやらない。代わりに、魔女のささやきを返す。

「この魔法、発動中は動けないんだ。カバーしてよ」

 カンテラに青い炎が灯る。仕事道具がショボいから少々頼りない明かりだが、それはたしかに帝国軍の怖れた炎の魔女の輝きだった。

 イングリットの目線がリタを流し見る。青く反射した眼光に、かすかな喜びが窺えて、リタは気分を良くした。

 破滅をもたらす短い呪文を、うたうように唱える。

「砕けろ」

 輝きを増す蒼炎に、趨勢の変化をみたゾンビたちが一斉に輪形を狭める。リタを、攻撃対象として認識したのだ。

 が、遅い。カンテラからほとばしった一条の光が、ゾンビの一体を瞬時に消し炭へと還す。蘇った死体への、真の葬送だ。

「あたしの正面から焼いてくからね! 背中任せた!」

「分かった」

 端的な応答は、リタにとって嫌味なくらい頼もしい。

 リタの爆槍を防げるモノは、従軍してこのかた戦場には存在しなかった。ゾンビを操るレジスタンスの魔女も、これに対処する手立ては持ち合わせていないようだった。ゾンビたちは輪形を解き、側背からの急襲に切り替えた。

 だが攻め手を得たふたりの魔女の連携は、膂力に長けた怪物たちの猛攻を完璧にしのいでゆく。敵の爪牙が迫るたび、イングリットの銃剣が完璧なタイミングで切り払う。ゾンビたちが互いを囮に波状攻撃をしようにも、彼女はすべての攻撃を見切ったように撃ち落とす。

 背中を預け、ターンを踊るように攻守を入れ替え、リタは眼前の敵を焼き尽くす。このゾンビたち、ジャバルタリクで戦ったナハツェーラー部隊ほどの機動力ではない。背中を預けられる味方が居れば楽な戦いだ。

 そういや、あの時はサンダーソンが守ってくれた。人間性こそ似ても似つかないが、あの男とイングリットには妙な接点がある。などと、余計な考えを巡らせる余裕すら、今のリタにはあった。


 10体ほどのゾンビを焼いた時、敵の動きが変わった。民家や村の施設を背に戦うようになったのだ。リタの魔法が一瞬、止まる。イングリットは察したようだが、黙って隙をカバーした。

 リタは、民間人に被害を出さないように戦っていた。爆槍の攻撃範囲は狭いとはいえ、流石に至近距離で発動させれば民家の壁くらいは容易く消し飛ぶ。もちろん、中で息をひそめている家主も一緒に。


 レジスタンスは民衆を盾にする卑劣な集団__とは思わない。こうして村ごとグルになって帝国軍を襲っている以上、奴らは戦争の当事者だ。どっちが攻めただの誰の土地だのは関係ない。彼らは戦争に加担しているのだ。

 リタは今、「試されている」と感じた。

 ゾンビたちの目を通して、レジスタンスの魔女とやらに己を見定められている。思考、行動、それらを規定する、リタにとっての境界線の在処ありかを。

「舐めんな」

 リタは吐き捨てた。

 おそらくレジスタンスの魔女は、リタに手心を加えている。今現在のリタにとって、帝国軍に着くメリットは明白に存在するからだ。というより、レジスタンス側に信用がない。今回の衝突はある意味「仕方なかった」で済ませられる。彼らに次の機会があれば、改めてメリットを提示したうえでリタを味方に引き入れようとするかもしれない。

 ただ、無力な民間人を殺傷すれば、リタは確実に敵と見做される……そんな気がした。今後の身の振り方を考えろ。リタがレジスタンスにとって敵になるか、交渉の余地ある虜囚になるか、今その瀬戸際に立たされている。そこまで考えられるかを、レジスタンスの魔女は見ている。

 すべてリタの深読みかもしれない。だが考えるべきだ。戦争がどうして起こり、なぜ続くのか考え続けなければ、魔女は戦場の駒で終わってしまう。


 考える間にも、イングリットの残弾は底を尽き、銃剣は折れようとしている。

 天秤に掛けろ。境界線を定めろ。この村の家々で固くドアを閉ざしている民間人は、エスターライヒで虐殺したザコ民兵たちと何が違う? 選んだのなら、加担したのなら、殉じるべきだ。どれだけ弱くたって、戦争の当事者になったのなら。

 選べ。撃つべきだ。

 選ばないと。撃てなくなるぞ。


「リタ、もういい」

 イングリットの肩が、軽くリタの背に触れた。

「でも」

「増援が来た」

 ゾンビたちが一斉に空を見上げる。リタも、釣られて首を向けた。航空機のエンジン音が、ガラティエの方角から聞こえた。沈みかけた夕陽を背に翼を翻す輸送機。そこから黒い影が分離するようにぽたりぽたりと投下され、小さなそれらが一斉に三角翼を開いた。

 村に一直線に飛来するそれらの姿には、見覚えがあった。真っ黒なコウモリのようで、地を這うように低く低く滑空する兵士。

「ナハツェーラー部隊!?」

「知っているのか」

 知ってるも何も、ジャバルタリクで殺し合った仲である。降下中の黒翼は5つ程度。だがその戦闘能力はリタが身を以て知っている。ここにいるゾンビ全員より、ナハツェーラー5人の方が強い。

 レジスタンスはまだ彼らと対面したことがないようで、ゾンビたちを素早く迎撃の構えに移行させた。リタの爆槍を警戒しつつ、家々の屋根に展開し始める。

 イングリットもちょうど残弾が尽きたところだったため、リタは彼女と共に村の中心部から退避する。もうふたりに出来ることはなさそうだ。

「よくもまぁ、都合よくあの部隊が助けてくれたわね。応援なんか絶対間に合わないと思ってた」

「彼らは試験的にガラティエに配備されている即応部隊だ。要請を受けたらすぐに緊急発進できる。帝国軍は国内の治安出動を空挺部隊で補っている」

 超エリートである空挺部隊を反乱分子狩りに使うとは、なんとも贅沢な話だ。しかしこういった使い方をする余裕があり、またする必要があるのが帝国なのだろう。

「な……なるほど、勉強になるわぁ」

 イングリットが部隊の出所を正直に答えてくれたあたり、帝国軍では今更隠し立てすることでもないらしい。リタは新たな知見に改めて感心を示した。


 一方、遠目に映るゾンビとナハツェーラーの怪人バトルは、圧倒的にナハツェーラーの優位に進んでいた。ジャバルタリクでの戦闘時とは武装を変更しており、拳銃の先端に銃剣を装着した奇妙な武器を2丁用いている。しかも拳銃はフルオート射撃が可能なようで、彼らは斬撃と弾幕を織り交ぜた白兵戦を器用にこなしてみせた。

 兵の質で圧されていると察したレジスタンスはゾンビを撤退させようとしたが、機動力でもナハツェーラーが上だ。背に弾幕を撃ち込み、脚を刈り、頸を刎ね、死してなお動く怪人たちを次々と仕留めていく。夕暮れの影に紛れて地を駆けるその姿はまさに、夜を這う者ナハツェーラーだった。


 そして、趨勢は決した。長い腕とガスマスクの怪人たちがイングリットに軽く手を振る。周辺の安全を確保したのだという。

 連合王国軍には無い武装と発想の数々に、リタは翻弄されっぱなしだった。この知見はジャバルタリクに持ち帰るべきだ。

「はぁぁぁ……」

 しかし深く長く、嘆息する。

 リタはとりあえずこの状況を帝国軍が制したことにほっとしていた。この不気味な怪人共が来てくれなければ、リタは最低な決断を実行していただろうから。

「さて、リタ。ガラティエへの移動を続けよう」

 イングリットが何事もなかったかのように言った。

「え?」

「ここに滞在するわけにはいかない」

 いつもの真顔。こいつ本気だ。リタは引き攣り笑いで訊いてみた。

「え……ちょっと休憩とかしない?」

「逆に聞くが、君はレジスタンスと協力関係にある村で休みたいか?」

「それは、嫌だけどさぁ」

「ここからはナハツェーラーたちが護衛を務めてくれる。集合したら出発しよう」

 ナハツェーラーたちは甲斐甲斐しく駐留部隊の物資を集めて回っていた。駐留兵の遺体を火葬している者やドッグタグを回収している者もいて、思ったより彼らにも人間味があることが伺えた。友達になりたいとは露ほども思えないが。

 しかし自動車は2両とも壊れてしまった。リタはちょっと上目遣いでイングリットに訊いてみる。

「徒歩で行くの? 馬の調達とか、してみない?」

「逆に聞くが、君はレジスタンスと協力関係にある村で馬を7匹も調達できると思うか?」

「それは、そうだけどさぁ」

「12キロ先に小さな街があるから、そこで休む。大きな街道があるし、ナハツェーラーたちも私も夜目が利くから、夜間行軍の危険はそれほどでもないだろう」

 さらっと12キロ。エリート軍人や改造人間にとっては「それほどでもない」のだろうが、リタは運動音痴の少女だ。もっと鍛えておくべきだったな、などと今更後悔してももう遅い。この晩、リタはレジスタンスの動向なんかよりも、あと何キロ歩けば休めるのか考えるので頭が一杯だった。ちなみにナハツェーラーのひとりがおんぶを提案した際は、丁重にお断りした。


 真夜中に街の宿営地へと辿り着いた時には、リタの顔と身体はゾンビさながらだった。ここから先は帝国軍が治安を維持しているからうんぬん、とイングリットは言っていたが、最後まで聞く前にリタは寝落ちしてしまった。

 ガラティエへの旅は、やはり碌でもないものになった。

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