第10話 熊野川で発見された水死体の身元が判明!

 お燈まつりから3日後の火曜日午後。

 担当する公判が開かれるため和歌山地裁真宮支部に出向かなければならない大輝は、いったん自宅アパートに戻り、簡単な昼食をったあと、真宮支部に歩いて向かう。手に風呂敷で包んだ書類をもって。

 地裁支部は、地検支部より徒歩5分の距離。大輝のアパートからも、徒歩数分の圏内。この日は、傷害の事案と窃盗の事案、ふたつの公判が予定されている。


 傷害事案は、昨年末、真宮の繁華街のスナックで、些細なことで客同士が口論になり、28歳の男が、酒に酔った勢いで相手に殴りかかり、顎骨を骨折させるなど、全治2ヵ月の重傷を負わせた事件。

 先月起訴され、この日、第1回の公判が開かれる。公判は、担当検察官の大輝が冒頭陳述を行い、起訴状を朗読しただけで終了。


 窃盗事案は、前科5犯の窃盗常習犯が、串本町の民家に空き巣に入り、物色中に帰宅した家人にとり押えられた事件。

 すでに公判が2回開かれており、3回目を迎えるこの日は、被告人側から申請された証人の証拠調べが行われたが、予定された時間を大幅に超過し、終了したのは4時すぎ。


 裁判所から地検支部に戻り、今日の仕事の大半を終わらせ、ひと息吐いている大輝に電話が入る。真宮警察の八田刑事課長からだ。

「検事さん、やっと熊野川のほとけさんの身元、わかったんで、とり急ぎ報告しておきます――」

 熊野川で発見された水死体は、森田もりたたもつ、47歳。愛知県小牧市在住で飲食店を経営。2月5日の午後から行方がわからなくなり、7日に家族から警察に捜索願が出されていた。8日になって、全国の行方不明者リストに引っかかり、ようやく身元が判明。


「遺体確認しにきはった嫁はんの話では、被害者ガイシャは、どこへいくともいうてへんかったようで、真宮って聞いて、ビックリしたようなんです。ここは、なんのえん所縁ゆかりもないとこみたいです。

 それと、被害者は出かけるとき、いつも車使つこてたようで、自宅に車あったんで、そんなに遠くに行ってへんと思てたようです」

「そうすると、被害者は、電車を使った可能性がありますね」

「そうなんです。その辺のとこは、これから聞きこみにあたらせるつもりです」


「それともうひとつ……」八田は報告を続ける。

「被害者が出かけるとき、いつも小さなサイドバッグ、もってたようなんです。財布とか、携帯とか入れとくやつです。家に置いてへんから、必ずもってるはずやと、嫁はんがいうてます。

 落ちた場所の捜索とあわせて、このサイドバッグ見つけるよう捜査員にあたらせてます」

「わかりました。ところで、浮島の森の事件との関連性は、出ましたか?」大輝が一番気になっている質問をする。

「いえ、それは、まだなんともいえまへん。これまでの森田の経歴調べて、横山との接点ないか、これから調べるつもりです」

「そうですか。では、よろしくお願いします」といって大輝は、受話器を置く。



 この日の夕方、早めに仕事をきりあげた大輝は、散歩前にケントを連れて、にこにこ動物病院を訪れる。朝ケントが食べたものを戻してしまったからだ。すぐにでも連れていきたかったが、仕事を休むわけにもいかず、夕方になってしまった。

 来客もなく、暇をもてあそんでいた圭太にケントの様子を話すと、机に向かったままいくつか大輝に質問する。


 1.戻した回数――1回か、複数回か?

 2.戻した時期――食後何分後か?

 3.戻したもの――食べたもの以外に、血液や異物などが混入していたか?

 4.戻したあとの様子――具合が悪そうに見えたか? 食欲がなくなったか?

 5.戻した以外のほかの症状――下痢を伴っていなかったか?


 圭太の矢継やつぎ早の質問に対して、朝、食後すぐ、1回だけ、食べたものを戻す。き出したものは、食べたドッグフードだけ。ほかにはなにも混入していない。戻したあとも元気で、おやつをほしがり、下痢もしていないことなど、大輝は圭太に説明する。

「そんなら、大丈夫や。心配いらんわ」

 素っなく答えた圭太は、立ちあがって大輝が抱きかかえているケントの頭をでながら解説する。


「犬はよう吐くんや。腹減って、ガツガツ食べたりすると、すぐ吐き出したりするんや。吐き出したものをまた食べたりする犬もおるわな。慌てて食べたんで、消化されんまま戻しただけなんや。この場合、なんも心配せんでもええ。

 それと、食べる前に、白い泡みたいなもんや黄色い液体を吐くこともあるんや。

 白い泡は胃液、黄色いのは胆汁たんじゅうや。こっちは、腹がすきすぎて、胃が空っぽになったんで、胃液と胆汁が逆流してきたんや。飯食わす間隔、あきすぎると、よう起こることやから覚えておきや」

「はっ、はい」朝ケントが戻したことで気が気でなかった大輝は、圭太の簡潔明瞭かんけつめいりょうな説明に納得する。


「ただ何度も吐いたり、吐いたもんに血や異物が混ざっとったら、要注意やで。

 それと、下痢してたり、元気なかったりすると、なんか病気にかかっとる可能性があるからなぁ。そんときは、すぐ連れてくるんやで。そうでないなら、あんまし心配せんでもええ」

「はい、わかりました。どうもありがとうございました」

 安心した大輝がケントを抱きかかえて帰ろうとしたとき、入口の自動ドアが開く。


「こんばんは」といって、若い女性がチワワを抱きかかえて入ってくる。

 見覚えのある女性だった。何度か散歩の途中で出会ったことがあり、会うたびにケントが相手を気に入り、り寄るので、二度目に会ったとき、互いに自己紹介をした。

 確か、まだ1歳の雌のチワワ。名前は『ハナ』。自己紹介したといっても、犬同士の話であって、大輝は、その女性の名前も、どこに住んでいるのかも知らない。

 年齢は20歳前後。小柄で華奢きゃしゃな体つきで、明るい栗色のウエーブした長い髪が似合っている。小顔の割に目が大きくパッチリしているのが、印象的な可愛らしい女性。


あやちゃんやないか。どないしたんや?」柔和にゅうわな表情で圭太が尋ねると同時に、ケントが「ワン、ワン」と勢いよく吠える。

 ケントの鳴き声に驚き、一瞬たじろいだ女性は、すぐに圭太の質問に答える。

「今、散歩してたら、ハナが下痢したんよ。心配なんで、看てもらおうと思て……」

「下痢ってか……」といいながら圭太は、女性の腕からハナをとりあげ、床に座らせて様子を伺う。ハナが屈んだ圭太の胸に前足をかけて顔を舐めようとすると、「ハナ、ちょっと大人しくしときや」といって、ハナの触診を始める。


「そのウンチ、今、持っとるか? 持っとったら、見せてくれるか?」圭太が見あげていう。

「ええ、まだ持ってる」女性は、手にもっていた小さな布製のバッグから丸めたウンチ処理袋をとり出して圭太に渡す。

 圭太は、ビニール袋の中の丸まったトイレットペーパーの袋を取り出し、中身を観察した上で、さらに鼻を近づけて臭いをぐ。そのあと、ウンチをもったまま診察エリアの奥のドアを開け、中に入っていく。


 大輝に抱かれていたケントが、下ろしてくれとばかりに暴れ出したので、床に下ろしてやると、ハナに近づき、鼻をクンクンさせる。ハナも同じようにクンクンさせ、まるでケントの求愛にハナが応えているようだ。

 そのとき、はじめて大輝がいることに気づいた女性は、大輝に顔を向ける。

 目があった大輝は、なにかいわないとまずいと思い、口から出た言葉は、「こんばんは」という間の抜けた挨拶だった。

 挨拶された女性も「こんばんは」と挨拶を返す。

 そのとき、奥からトイレの水を流す音とともに圭太が戻ってくる。


「なんや、あんたら知りあいか?」

「いえ、知りあいというほどのものでは……。散歩で何度かお目にかかったことがあるだけです。ケントがハナちゃんのことが気に入ったみたいで、会うと必ず近寄っていくんですよ」大輝がいいわけするように答える。

「彩ちゃん、前に近所の婆ちゃんが拾てきた犬、預かってたやろ。それがケントや。この兄ちゃんが引きとってくれたんや」

「そうなんや。あのときの……。道理でどこかで見たことある子やと思てたんや」


「鈴木大輝といいます。検察庁に勤めてます。といっても、年明けに赴任したばかりですが……」

「検察庁って? 検事さんなんですか?」

「はい、検事をしてます」

矢代やしろ彩佳あやかです。近くの美容室で美容師してます。家がこの動物病院の隣なんですよ。うちもハナを飼い始めて半年くらいで、まだ新米しんまいの飼い主なんやけど……」

「そうなんですか。僕も新米の飼い主です。今朝ケントが食べたものを戻してしまったので、気になってここに連れてきたんです」


 家が動物病院の隣だといった彩佳の話を確認しようと、大輝は圭太に尋ねる。

「そうすると、おふたりは、幼馴染みなんですね」

「まあ、そんなもんや。厳密にいうと、俺は那智勝浦の出身で、ここはお袋の実家なんで、幼馴染みとはいえへんけど。子どもの頃からちょくちょく遊びにきてたし、高校はこっちの高校やったんで、この辺のことはよう知っとるし、彩ちゃんとも子ども頃からの付き合いや。この動物病院は、2年前開業したばかりやけどな……。

 それより、彩ちゃん。なんか変なもん、ハナに食わさんかったか?」圭太は、彩佳に顔を向けて尋ねる。


「いえ、特にはなんも……。ただ出かけにうちが食べてたヨーグルトほしがったんで、少しあげただけやけど……」

「それやな。乳製品で腹壊す犬、多いからな」

「えっ、ほんまですか。でも、ハナは牛乳飲んでも、なんともないんですよ」

「それは人間の話や。牛乳が大丈夫やいうても、ヨーグルトやチーズで腹壊すんが犬なんや。犬にとっては、人間の食うもんは、毒にも薬にもなるんや」

「そうなんだ……」

「でも、心配いらんやろ。元気そうやから。今度ウンチしたとき、まだ下痢してたら、連れてきたらええ」じゃれあうケントとハナの頭を撫でながら圭太が優しくアドバイスする。


「あのう、ちょっといいですか。犬は、下痢をよくするんですか?」犬の病気が気になる大輝が圭太に尋ねる。

「吐くのに比べると、下痢するんは、あんましないわなぁ。犬用の食べもんやってる限り、腹こわすことはないんや。ただ環境が変わったりすると、ストレスで下痢することがようあるわなぁ。例えば、ペットホテルに預けたり、トリミングで毛を刈ったときや。この場合、ストレスの原因とってやると、下痢は治まるはずや。


 気いつけんといかんのは、ウイルスや寄生虫の感染による下痢や。下痢が続いてたら、この可能性が高いと思たほうがええ。ウイルスや寄生虫に感染したら、早めに手あてしてやらんと、命にかかわることもあるんで、気いつけや。

 吐くのんも、下痢すんのも、1回ならあんまし心配することないわなぁ。けど2回、3回続くようやと、なんかの病気に罹っとると思て、間違いないわなぁ。それと、吐いて下痢してたら、まず病気やと思たほうがええやろ」

「わかりました。これから気をつけます」


「ほんでも、圭太さんは、犬のことよう知っとるね」感心して彩佳が褒める。

「あたり前や、俺は獣医やで」照れくさそうに横にした人さし指で鼻の下を擦りながら圭太が答える。

 圭太が犬の病気を詳しく知っているのは、専門家である以上、当然のことであるが、圭太には、知識以上に動物に対する深い愛情が感じられる。それと、犬がとりもつ縁であるが、大輝は、彩佳に好感を抱き、ほのかな恋心が芽生え始めていた。

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