第7話 3年ぶりの殺人事件に大はしゃぎ?

 お燈まつりから2日後の月曜日。

 朝大輝が検察庁に出勤すると、庁内がいつになく騒然としている。階段をあがり、2階の執務室に大輝が入ると、

「おはようございます」スーツ姿の前田香織の元気のいい挨拶。

「おはようございます。一昨日は、どうもありがとうございました。お蔭さまで、貴重な体験をさせていただきました」挨拶を返した大輝は、お燈まつりに案内してもらったお礼をいう。

「いえ、とんでもありません。それより、鈴木検事、昨日浮島の森で撲殺死体が発見されたことは、ご存知ですよね。なんでも3年ぶりの殺人事件、捜査本部が設置されるようで、警察が大騒ぎらしいですよ」


「事件については、昨日連絡が入りました。ほんとに3年ぶりなんですか、殺人事件が?」自分の席についた大輝が、信じられないという表情で尋ねる。

「そうなんですよ。それで、うちの兄貴も大はしゃぎで、困ってます」

「うちの兄貴?」

「まだ話してませんでしたっけ。実は、私の兄が真宮警察の刑事課にいるんですよ」

「5歳からのぼり子をやってるというお兄さんですか?」

「ええ、その兄です。頭は空っぽなんですけど、体力だけは人一倍あるのが、とり柄の男ですけど……」

「でも、3年ぶりとは驚きですね。それだけ平和な街なんですね、真宮しんぐうは」

 大都会では、日常茶飯事のように起こっている殺人が、ここ真宮では、3年ぶりというのが、大輝には信じられない。それだけのんびりした平和な街であることが、改めて認識させられる。


 香織との雑談もそこそこに、大輝は、溜まっている仕事にとりかかる。

 大輝に与えられた検察官の仕事は、大きく捜査と公判に分けられる。

 地検本庁レベルの検察庁では、刑事部や公判部といった部が設置され、分業が行われるが、真宮支部のような小さな支部では、そのような分業制はなく、必要に応じていずれもこなさなければならない。


 捜査とは、犯罪が行われたと思われるとき、公訴こうそを提起するために犯罪にかかわる被疑者や証拠を発見し、収集し、保全する手続きをいう。

 任意に被疑者や参考人を取り調べたり、提出された証拠物を領置りょうちするほか、強制力を行使して被疑者を逮捕・勾留したり、証拠物を捜索し、差し押さえることもできる。

 多くの事件では、警察官などの司法警察職員が、第一次捜査機関として捜査にあたる。しかし、それに任せきりにせず検察官は、司法警察職員の捜査を指揮・指導したり、自ら被疑者や参考人を取り調べるなど、証拠の収集を積極的に行う職責を負っている。送致された事件の真相を究明し、適正な処理をしなければならないからだ。


 捜査が開始されると、被疑者や参考人を取り調べ、証拠を収集し、保全することによって、犯罪の嫌疑の有無や内容が、逐次ちくじ明らかになってくる。

 犯罪事実と被疑者が特定され、検察官が、起訴・不起訴の判断ができる程度に心証が固まった段階に達すると、捜査は終結する。

 被疑事件について必要な捜査が終わると、検察官は、公訴を提起すべきか否かを判断し、起訴または不起訴の処分をしなければならない。


 被疑者が逮捕された場合を時系列で説明すると、例えば、ある犯罪が発生し、警察官によって被疑者が逮捕されたとする。

 警察官は、48時間以内に被疑者を検察官に送致するかどうかを決めなければならない。軽微な犯罪で被疑者が十分反省しているような事情がある場合、『微罪びざい処分』として警察官の判断で釈放されることもある。

 警察官から送検され、被疑者の身柄を受けとった検察官は、24時間以内に被疑者を引き続き身柄を拘束するか、釈放するかを決めなければならない。身柄を拘束する場合、検察官は、裁判所に対して勾留を請求することになる。これが認められれば、10日間身柄を拘束できる。さらに必要な場合、勾留の延長を請求でき、さらに10日間拘束できる。

 勾留期間が満了するまでに、検察官は、公訴を提起すべきかどうかを判断し、起訴または不起訴の処分を行うのである。


 起訴するか否かの決定権(『公訴権こうそけん』という)は、検察官だけに付与された権限。検察官の公訴の提起がない限り、裁判所は、事件の審議を行わないという『不告不理ふこくふりの原則』により、国家刑罰権を発動するか否かは、検察官の適切な判断に委ねられている。

 検察官は、捜査権限を行使して真相を解明し、起訴すべき事案を的確に起訴しなければならないという、極めて重要な職責を負っている。そして、国家社会の治安維持を実現するため公訴権の行使にあたっては、常に厳正公平げんせいこうへい不偏不党ふへんふとうを旨とし、被疑者といえども、人権の尊重に努めなければならないことはいうまでもない。


 起訴された場合、裁判が開始され、公判審理が行われる。

 審理の対象が一定の重大な犯罪である場合、裁判員裁判が行われる。例えば、殺人罪、強盗致死傷罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪、危険運転致死傷罪など、国民の関心の高い重大な犯罪の場合である。ただし、地方裁判所で行われる刑事事件だけが裁判員裁判の対象になり、刑事裁判の控訴審や上告審、民事裁判、少年審判などは、対象になっていない。


 公判における検察官の役割は、公判前整理手続き、冒頭陳述、証拠調べ、論告。適正かつ迅速な審理が行われ、事件の真相を解明するために、検察官の積極的な公判活動が要求される。

 公判前整理手続きでは、裁判官の主宰のもと、検察官、弁護人双方が、予め公判で主張する内容と、その証明に用いる証拠を開示し、事件の争点を明らかにする。

 公判で取り調べる証拠を決定した上で、取り調べの順序や公判期日をとり決め、3者の合意のもとに審理計画を策定する。


 第1回の公判期日で、検察官は冒頭陳述を行う。

 冒頭陳述では、事件の全容を明らかにして審理対象を明確にし、犯罪の立証方針の大綱を示す。これにより、被告人側に対して防御の範囲を事前に知らせるのである。

 証拠調べ手続きでは、検察官は、冒頭陳述でとりあげた事項、すなわち罪となる事実、被告人が犯したという事実、情状に関する事実など、すべての事実を立証しなければならない。


 証拠調べが終わると、検察官は、論告を行う。

 論告とは、事実と法律の適用について意見を陳述するもので、検察官の最終的な意見陳述であるとともに、公益の代表者として事件に対して公益的な見地から評価を下すものである。

 公訴事実の認定、情状、求刑(科すべき具体的刑罰に関する意見)などについて、説得力のある陳述を行わなければならないのは、いうまでもない。


 なお、『検事』とは、検察官の5つの役職名、『検事総長』、『次長検事』、『検事長』、『検事』、『副検事』のひとつ。

『検事総長』、『次長検事』、『検事長』は、最高検察庁、高等検察庁の長(または補佐)で、検察庁の職員を指揮する立場にある。最高検察庁は1庁、高等検察庁は全国に8庁しかないので、大半の検察官は、『検事』または『副検事』といえる。大輝も、検事という役職名の検察官である。


 現在、大輝が担当している事案は、捜査事案が5件、公判事案が3件。

 翌日の午後に予定される公判の準備をしていると、机上の内線電話が鳴る。

「はい、鈴木です」

井上いのうえです。しま検事がお呼びです。お部屋まできていただけますか?」

「今すぐ、ですか?」

「ええ、お急ぎのようです」

「わかりました。これから伺います」大輝は、準備を中断して席を立つ。


(困ったものだ。こちらの事情を委細いさいかまわず、すぐに呼びつける。自ら電話をかけてくるのであれば、まだ許せるが、いつも事務官を使って、一方的に呼びつける上席検事の島仁志ひとしには、ほんとにんだりする)

 これもケントの一件が、いまだを引いているように思われる。赴任して間もないのに、公務員宿舎から転居したのが気に入らないのだ。最終的に検事正の許可をとって決着したはずなのに。自分で検事正の許可がないと承諾できないといいながら、いったとおりにすると、頭越しに処理したと文句をいう。大輝には、どうしても理解できないし、したくもない。真宮支部の中で、この上席検事が一番苦手だった。


 大輝が同じフロアにある島の執務室のドアをノックすると、

「はい、どうぞ」女性の声がするので、中に入ると、島は、執務机に向かって書類を読んでいる。

「ちょっと、待ってくれたまえ!」顔を上げることもなく島が命令する。

 L字型に配置された事務官用の机には、事務官の井上早苗さなえが、われ関せずといった表情で、パソコンに向かってキーボードを叩いている。

「すぐこい!」といっておきながら、待たすのが島の常套じょうとう手段。まるで権威をふりかざさないと気がすまない小役人こやくにん。そして、常に上から目線で、人を見下す態度をとる。「座れ」ともいわないので、大輝は、その場で立って待つしかない。


 しばらくすると、おもむろに顔をあげた島がきり出す。

「浮島の森で発生した殺人事件の捜査本部が置かれたことは、知ってるだろう。

 あの事件、君に担当してもらうことになったから、そのつもりでいてほしい」

「えっー、僕がですか……?」3年ぶりの殺人事件の担当が、最年少の自分にまわってくるとは、思ってもいなかった大輝が聞き直す。

「そうだ。君に任せることになった。君は、殺人を担当したことがあるだろう」

「はい。これまで3件担当しましたが……」

「じゃあ、問題ない。先ほど、真宮警察の署長から電話があって、事件の概要を説明したいので、打ち合わせさせてほしいと、申し出があったんだ。

 署長には、午後にでも担当者を行かせると、いっておいたから、よろしく頼む」

「はっ、はい、わかりました」

「要件は、それだけだ」憮然ぶぜんとした表情でいった島は、なにごともなかったように再び書類に目を戻す。


 どことなくしっくりしない大輝が島の執務室を出ると、通りかかった先輩検事の秋本あきもと修平しゅうへいが、ニヤついた表情で大輝に近づいてくる。

 秋本は、大輝と同じ東京出身。1年半前真宮支部に赴任。面倒見がよく、赴任したばかりの大輝によくアドバイスしてくれる。大輝より5歳年上、入庁も4年先輩。

「もしかすると、君に、例の浮島の森事件のおはちがまわったんじゃない?」

「よくおわかりですね。今、島検事からその話があったばかりですよ」

「そうだと思ったよ。島さんは、最初俺に担当させようとしたんだよ。どれだけ事案抱えてるのか知ってるのにね。休職した戸田とださんの担当案件だって、全部俺に押しつけたんだから。それなのに、今度の殺人までやらそうとするんだよ。頭にきて、きっぱり断ったさ。そんな時間ありませんっていって」

「そうなんですか……」大輝が驚いた表情で相槌(あいづち)を打つ。


「島さんも自分でやればいいのに、やんないんだよなぁ。面倒なことは全部人任せさ。ほんとに困った人だよ、あの人は」秋本が常日頃の不満を大輝にぶちまける。

「うまくやれるか、自信ありませんが、がんばってみます」

「君なら大丈夫だよ。島さんより適任かもしれないね。まぁ、なんか困ったことあったら、遠慮なしに聞いてくれればいいよ」

「ありがとうございます」秋本にはげまされた大輝は、素直にお礼をいう。

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