第5話 ケントとの運命的な出会い?

 大輝が真宮しんぐうに赴任して迎えた最初の土曜日。

 午前中に溜まった家事をこなした大輝は、近所の散策に出かける。買い物をするスーパーやクリーニング店、食事ができる飲食店など、これから生活する上で必要な店を調査するために。

 帰り道、路地を歩いていると、大輝は、犬の鳴き声に呼びとめられる。

 立ちどまりふり返っても、どこにも犬の姿が見えない。不思議に思った大輝が、きびすを返して歩き始めようとすると、再び「ワン、ワン」と、家の中から鳴き声がする。


 普通の民家の1階を改装した動物病院。玄関に新しい自動ドアの入口をしつらえ、道路に面した部屋は全面ガラス張り。腰の高さ辺りに幅50センチほどの緑の帯が描かれ、白抜き文字で『にこにこ動物病院』の表示。その文字の下、透明のガラスから中の様子が伺うことができる。フェンス型の白いケージの中から子犬が顔をのぞかせている。

 大輝が近づくと、子犬は、ケージに前足をかけ、後ろ足二本で立ち上がり、「ワン、ワン」と吠えながら、ときどきジャンプし、まるで早くここから出してくれと、叫んでいるようだ。耳と頭の中央が茶色で残りはすべて白い子犬は、ケージに前足をかけたまま潤んだ目で大輝を見つめ、甘えるように吠えている。

 胸がドキッとした。大輝は、なにか運命のようなものを感じた。


 しばらく子犬と見詰めあったまま呆然ぼうぜんとしていた大輝が、入口の脇に貼り紙があることに気づく。上段に赤字で『飼い主求む』のタイトル。中央に子犬の写真。下段に『ミックス、雄、1歳』と連絡先が記載。詳しく読もうと近づくと、自動ドアが反応して開いてしまった。

 驚いた大輝は、どうしようか迷ったが、このまま突っ立っているわけにもいかず、とりあえず中に入る。そうすると、子犬は、迎えにきてくれたと思ったのか、勢いよく吠えながら、ケージに前足をかけたまま、何度もジャンプを繰り返す。


 動物病院の中は、手前が待合エリア、奥が診察エリア、長さ2メートルほどのカウンターで仕切られている。待合エリアは、3畳ほどのスペースに木製のふたりがけの椅子がふたつL字型に配置。診察エリアは、中央に診察台、左側にパソコンが置かれた事務机、右側の壁面に薬品などが収納されたキャビネット、正面奥に箱型のケージが縦横2個ずつ計4個配置されている。右上のケージには猫が入っているが、残りは空。


「すいません」大輝が声をかけるが、誰もいないのか、反応がない。

「すいません。どなたか、いらっしゃいませんか?」もう一度大輝が呼びかけると、「はーい」という声が奥からする。診察エリアの左側にあるドアが開き、50代と思しき女性が姿を見せる。

「こんにちは。……」とりあえず挨拶したものの、なにをどのように話せばいいのか、思い浮かばない大輝は、言葉に詰まってしまう。

「いらっしゃい!」といってその女性は、大輝の傍までやってくる。

「ごめんなぁ。今、近くに往診に出てるんよ。もうちょっとしたら、戻ってくるはずやから。待っててくれはる?」

「はっ、はい……」


「もしかしたら、この子のことで?」といいながら、女性は、ケージの中で飛び跳ねていた子犬を抱きかかえると、それまで勢いよく吠えながらジャンプしていた子犬は、大人しく女性に抱かれる。

「ええ、表に貼り紙があったものですから……」

「そうなの? この子、もろてくれはるんですか?」

「はい、できれば、そうしたいと……」

「それは、それは……、どうもおおきに。

 犬って、抱かれたりするの嫌がる子多いのに、この子、抱いてやると、いつまでも大人しく抱かれてるんですよ。どうです、抱いてみます?」

 子犬をさし出され、戸惑いながらも、両腕で抱きかかえてやると、子犬は大人しく大輝の胸に収まる。人恋しいのか、はじめて抱いてやった大輝でも、大人しくしている。しばらくすると、安心したのか、子犬がうとうと眠り始めたのには、大輝も驚く。


 そのとき、表でキッーという自転車のブレーキ音がした。

 しばらくすると白衣の上に黒のベンチコートを羽織った青年が、黒の分厚い鞄を肩にかけて入ってくる。中肉中背でやや太りぎみ。丸顔で幼く見えるが、大輝と同年代だろう。白衣を着ていることから、この動物病院の獣医と思われる。

「お帰り」と女性が声をかけると、青年は、「ただいま」と返事。

 すると、大輝に抱かれて眠っていたはずの子犬が、いきなり飛び降り、「ワン、ワン」と、青年の足元に駆け寄り、二本立ちになって獣医の脚にすがり、歓迎の意を表す。中腰になって、「ただいま、ケント。お利口りこうにしてたか?」といって、子犬の頭をでてやる。


圭太けいた、この人、表の貼り紙見はって、あんたの帰り待ってたんよ」といって、女性が大輝を紹介してくれた。この女性と圭太と呼ばれた獣医は、親子のようだ。目鼻立ちや口元がよく似ている。

「はじめまして、鈴木と申します」大輝が挨拶すると、大輝を一瞥した獣医がおもむろに尋ねる。

「あんた、見かけん顔やけど、どこに住んどるんや?」

「この先の公務員宿舎です」

「公務員?」

「はい、検察庁に勤めてます」

「検察庁って、もしかして、検事さんか?」

「そうです。1週間前、赴任したばかりですが……」

「そいでなんや、この子を飼いたいんっていうんかいなぁ」

「そうです。できれば、お譲りいただけないかと……」


 一瞬眉をひそめた獣医は、「ちょっと、そこで待っててくれるか」といって、診察エリアに入り、鞄を机の上に置き、ベンチコートを脱ぎ、コートハンガーにかける。子犬があとをついてきたので、「あかんで、ケント。ハウス!」

 獣医のひと声で、ケントは、すごすごと引き返してきたので、大輝がケージの中に入れてやる。


 獣医は、しばらく机上の書類に目を通していたが、それが終わると、待合エリアにきて、待合用の椅子に腰をかける。

「まあ、座りなはれ」といって、隣の椅子を大輝に勧める。

「この子、10日ほど前、暮れの押し迫った大晦日おおみそかやったと思う。近所の世話好きのばあちゃんが拾ってきたんや。本来なら、保健所に通報するんやけど、雨が降っててずぶ濡れで、衰弱しててか、ちっとも動かんかったらしくて、慌ててここへ連れてきたんや。

 まあ、たいしたことのうて、2、3日で元気になったんやけどなぁ。

 この子、見かけはパピオンに見えるけど、純潔種と違ごて、おそらくチワワか、ポメラニアンとのミックスやと思う。生後1年か、1年半。性別は雄。元の飼い主は、誰かまったくわからず仕舞じまいや。唯一してた首輪に『KENT』と書いてあったんで、名前は『ケント』というだけや」


 ケントがこの動物病院にきた経緯を説明した獣医は、真剣な眼差しを大輝に向け、話を続ける。

「そいで、あんた。本気でこの子、飼いたいんかいなぁ?」

「はい、そのつもりですが……」

「公務員宿舎じゃ、ペット、飼えへんのと違うか?」

「ええ、そうですが……。もしお許しをいただけるのであれば、ペットの飼えるアパートに引っ越すつもりです」

「引っ越すってかぁ。まあ、それはわかったわ。あんた、犬飼った経験は?」

「小さい頃、飼った経験があります」

「小さいって、いつや?」

「小学生の頃です。祖母が飼ってました」

「婆ちゃんかいなぁ。それやったら、ほとんどないのと同じやなぁ」


「あのなぁ、なんでこんなこというかっていうたら、最近、無責任な飼い主が多いからや。

 ケントの飼い主もそうや。おそらく引っ越しかなんかで連れていくことできんので、置いていかれたんや。ほんま可哀想なことやで。

 ケントも、それがトラウマになって、夜ひとりでいるのを怖がるんや。この子が人に馴れ馴れしいのも、もう二度と捨てられとうないからやと思うわ」

 獣医は、しばらく大輝の反応を伺っていたが、大輝は、なにもいえず黙っている。


「あんた、犬の平均寿命、いくつか知っとるか?」

「いえ、詳しくは、知りませんが、10年くらいですか……」

「そんなに短くないんや。犬種にもよるけど、小型犬だと約15年。これが平均で、長く生きる犬やと、20年近く生きるんや。あんた、これから15年、この子を責任もって面倒看ると約束できるか?」

「……」


「できへんやろ。15年いうたら長いでぇ。

 それに、猫と違ごて犬は、餌をやるだけではのうて、散歩させなあかん。毎日やで。運動させてやらんと、病気になってしまうんや。

 それにこの子、用便を家の中ではせいへんようしつけられとる。そやから、雨が降ろうが、雪が降ろうが、台風がこようが、朝夕外に出してやらんといかんのや。面倒なことやでぇ。

 そんで、あんた、独身やろ?」

「そうですが……」

「そんならなおさらやなぁ。ひとりで面倒を看るんは大変や。出張にもいけへんで。若いんやから、無理することないやろ。

 悪いことはいわん、やめときなはれ!」

「……」


 圭太にいわれたことはもっともなことで、なにひとつ反論できない大輝は、諦めてすごすご帰るほかなかった。

 家に帰った大輝は、もう一度よく考えることにした。ほぼ衝動的に犬を飼おうと思ったのは、確かだったが、なぜ今になって、犬を飼おうと思ったのか、自分でもよくわからない。ケントをひと目見た瞬間、運命的な出会いを感じたとしかいいようがないのだ。この子は、僕と一緒に暮らす運命だと。


 昔、祖母が飼っていた犬は、『サブロウ』という名の雑種の雄で、外の犬小屋で飼っていた。散歩も餌をやるのも、祖母の役目で、祖母が亡くなって半年もしないうちに、祖母のあとを追うように死んでしまった。大輝が学校から帰って鳴き声がしないので、犬小屋をのぞいてみると、死んでいたのだ。確か12歳くらいだったと覚えている。

 そのとき、大輝は自分を責めた。自分がもう少し世話をしてあげれば、サブロウは死ななかったのではないかと、後悔したのだ。母は、祖母と同じぐらい高齢だったので、天寿てんじゅまっとうしたのだといって、なぐさめてくれたが……。

 真宮に赴任して寂しく感じていたのも、ケントと暮らしたいという大輝の願望を掻き立てていたようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る