青い空と山と海

ますだかずき

第1話 熊野川に架かる鉄橋の橋げたに水死体が!

「ケント、いこう!」

 大輝だいきが玄関のドアを開けてやると、嬉しそうに尻尾をふりながらケントが駆け出す。赤いリードに大輝が引っぱられる。

「ちょっと、待ってよ!」

 大輝は、慌てて玄関のドアをロック。外気温は、氷点下近くまで下がっているのだろうか、普段よりも寒く感じる。く息の白さも鮮やかだ。

 大輝は、防寒用のダウンジャケットを着こみ、ニットの帽子にマフラー、手には毛糸の手袋。ケントも厚めのドッグウエアを身につけ、防寒対策は万全。

 幼い頃習った童謡では、雪が降ると、

 ♪犬はよろこび、庭かけまわり、

 ♪猫はこたつで丸くなる。

うたわれ、犬は寒さに強いものだと思いこんでいたが、これには例外があった。

 ケントは、寒さにとても弱く、あまり寒いと、体が震えて一歩も動かなくなる。冬場の散歩には、防寒対策が必須。


 アパートを出た路地の左側にある電信柱が、最初のオシッコポイント。

 ケントは、まず鼻先を近づけ、臭いを確認すると、後ろ脚の片方を大きく上げ、オシッコを引っかける。

 すぐに大輝は、たすきがけしたバッグから500ミリリットルのペットボトルをとり出し、中に入れた水をかける。これは、オシッコの臭いを抑えるため、最近よく行われている飼い主のマナー。


 犬には、マーキングという習性がある。自分の縄ばりを主張する場所に尿をかけて臭いを残し、他の犬に自分の存在をアピールする。他の犬の臭いがあったら、その上に尿をかけて自分の臭いを残す。

 犬は、人間のように一度ですべての尿を出しきらない。いろんなところに少しずつ小出しにして、自分の存在をアピールするのだ。

 ケントも、ほっておくと電信柱ごとに各駅停車のごとく立ちどまり、臭いをごうとする。これでは、散歩が一向にはかどらないので、大輝は、オシッコの場所を決めて立ちどまるようにしている。


 路地の突きあたりを右に曲がると、角のお弁当屋さんは、すでに商売を始めている。店員らしき中年女性が、エプロン姿で店前を掃除中。

「おはようございます」いつも見かける人なので、大輝が先に声をかける。

「おはようさん。今朝けさは、ほんま、よう冷えるわね」女性が笑顔を返す。


 しばらく路地を進むと、向こうから白い柴犬を連れた女性が現れる。ケントがその柴犬を目視した瞬間、「ウウー」とうなり始める。大輝は、すぐにケントを右側に寄せ、リードを短くして道路の右端に寄る。相手も心得たもので、同じように飼い犬の動きを封じて左端に寄り、すれ違うのにできる限り距離をあける。すれ違う間際、柴犬は、「ワン、ワン、ワン」と勢いよく吠え出すのに対抗して、ケントも負けじと応戦する。

「おはようございます」大輝が挨拶する。

「いつも、すんませんね」相手は、挨拶より先にお詫びのひと言。

「いえいえ、こちらこそ」


 市役所の裏を通り、浮島の森に辿りつくと、ケントはソワソワと落ちつかない素ぶりを見せたかと思うと、腰を下ろして気ばり始める。

(あっ、ウンチだ)と予感した大輝は、肩にかけたバッグから犬用のウンチ処理袋をとり出す。外側がトイレットペーパーで作られた袋。内側にビニール袋がセットされていて、内側に手を入れ、ウンチをつかんでひっくり返すと、ウンチが見事にビニール袋に収まる。

 家に帰って、トイレットペーパーの袋をトイレに流し、ビニール袋をゴミに出せばOK。至って便利な代物しろもの。市販されていて、ネットでも購入できる。


 真宮しんぐう城跡を通り抜け、熊野川くまのがわの堤防に出るいつものコースを歩く。いつもと違っていたのは、赤色灯を灯したままのパトカーが2台、堤防に向かう道路に停められていた。

(おや、なにかあったのかな?)いぶかしく思った大輝が、堤防を駆けあがると、堤防に造られた遊歩道に中年の夫婦と、パジャマに大きめのダウンコートを羽織り、今まさに寝床から抜け出してきたと思われる老人が立って、川のほうを眺めている。

「どうかしたんですか?」大輝が背後から声をかけると、驚いたように3人は同時にふり返り、老人が答えてくれた。

「ドザエモンがあがったようだなぁ……」

「ドザエモン?」一瞬大輝は、言葉の意味がわからなかったが、すぐに『土佐衛門』のことをいっているのだと理解。水死体があがったのだ。

「あそこの鉄橋の橋げたにひっかかっておったんを、警察が引きあげたようだなぁ」

 老人が指さす先には、熊野川に架かるJR紀勢本線の鉄橋が見える。


 熊野川は、奈良県天川てんかわ村、大峰おおみね山脈の山上ヶ岳さんじょうがたけあたりを源流とする一級河川。天川村と五条ごじょう市では『天ノ川てんのかわ』、十津川とつかわ村では『十津川』と呼ばれる。

 熊野川町で大台ヶ原おおだいがはらを源流とする北山川きたやまがわとあわさり、和歌山県と三重県の県境を流れ、真宮で熊野灘くまのなだに注ぐ。奈良県内では急峻なところを流れる熊野川も、ここに至っては川幅が広く、流れも緩やかだ。


 すでに水死体は、川岸まで運ばれ、河原に敷かれたブルーシートを数人の警察官がとり囲んでいる。その中のひとり、スーツの上に和歌山県警のロゴが入った防寒ジャンパーを着こんだ警察官が、歩いてこちらに近づいてくる。大輝の知る人だ。確か、真宮警察署刑事課長の八田はったあきら警部補。

「検事さんや、おまへんか。こない朝はよう、どないしたんです?」

 八田は立ちどまり、大輝に声をかける。大輝の周りに野次馬やじうまがいるのを意識したのか、八田は立ちどまったままなので、大輝がケントとともに歩み寄る。


「おはようございます。散歩の途中で通りがかったものですから……」

「散歩ですか。そらまた朝から健康的やおまへんか」

「ええ、まぁ……。ところで、水死体があがったんですね」

「そうなんですわ。朝早う、あそこの鉄橋の橋げたに人が引っかかっとるという通報あったんで、今、引きあげたとこなんです」

「事件性は、あるのですか?」

「いや、まだなんともいえまへんなぁ。鑑識の話では、死因は、溺死で間違いないやろというてますが、目立った外傷、見あたらんので、事故や自殺の可能性もあると思いますわ」

「そうですか」

「どうです。せっかくやから、ほとけさんの顔、おがんでいかれますか?」

「いえ、けっこうです。捜査は、お任せしますので……」

 大輝は、八田の申し出を丁重ていちょうに断る。


 司法研修時代、はじめて惨殺死体を見せられた大輝は、食道が逆流し、胃の中のものをすべて吐き出してしまった。以来、職務上死体の写真を見ることには慣れてきたが、相変わらずなまの死体は苦手だった。

 早朝から思わぬアクシデントに遭遇そうぐうしてしまったが、八田と別れたあとは、いつもの散歩コースに戻り、ケントとの散歩を続行する。熊野川の堤防の遊歩道を河口に向かい、河口からは、王子ヶ浜おうじがはまを海岸沿いに歩く。冷えこんでいるが、風がなく、熊野灘は穏やかだ。黒潮が流れる真っ青な熊野灘は、見た目にも暖かく感じる。



 1時間あまり散歩して、大輝とケントは、アパートに戻る。

 帰宅するとすぐに、ケントの朝食。

 犬は1日、朝夕の2食。人間よりも1食少ない。おなかがすいているのか、ケントは、ドッグフードの袋をキャビネットからとり出すだけで、「ワン、ワン」と早く寄こせとばかりに勢いよく吠える。

 大輝がえさ用の皿に入れてやると、一心不乱いっしんふらんに食べ始める。まるで掃除機の吸いこみ口のように飲みこみ、あっという間に平らげてしまった。


「ケント、もう少しゆっくりんで食べないと、体に悪いよ!」

 呆れながら大輝は、冷蔵庫から犬用の歯磨きガムをとり出し、ケントに与える。

 犬も人間同様、食べたままほっておくと、歯石しせきが溜まり、歯周病ししゅうびょうにかかるおそれがある。犬も長生きするためには、歯の健康が欠かせない。しかし、簡単に歯ブラシで磨かしてはくれない。

 そこで、歯磨きをしなくても、犬が噛むことで歯の表面の汚れをとってくれる歯磨きガムを与えるのが効果的。ケントは、スティック状のガムを起用に両前足で押さえ、まるでラグビーの五郎丸選手のようなポーズをして、立てたガムを食いちぎっては、もぐもぐと噛みくだいている。


 ケントが朝食を食べ終わるのを待って、大輝は、パンと牛乳、簡単な野菜サラダで朝食をすませる。このあとは、ひとり暮らしで溜まった家事をこなさなければならない。

 まずは洗濯。

 スーツやワイシャツなどは、クリーニングに出せばすむが、パンツやシャツなどの下着や靴下を、クリーニングに出すわけにはいかない。

 毎日は無理でも、最低3日に一度は洗濯しなければと思っているが、ついついあとまわしになり、いつも休日にまとめてすることになる。

 溜まった洗濯物を全自動洗濯機に入れて稼働させる。


 洗濯機が働いてくれている間に掃除。

 今日は天気がいいので、先に布団をベランダに干す。大輝の部屋は1階だが、南向きで前が駐車場のため陽あたりが良好。

 奥の寝室から手前のリビング兼ダイニングまで掃除機をかける。ケントの白い毛が散乱しているので、注意深くとり除いたあと、フローリングの床にモップをかけて完了。

 掃除が終わると、洗濯物を干す。天気が悪いと、洗濯機についた乾燥機能で乾かしてしまうが、今日は気持ちのいい晴天。洗濯物は、天日てんぴに干したほうが着心地がいい。


 やるべき家事がひと段落つくと、すでに正午すぎ。

 冷蔵庫から買い置きした冷凍食品をとり出し、フライパンでいためる。本日の大輝の昼食は、五目炒飯と卵スープ。もちろんスープもインスタント。お湯を注ぐだけで、けっこう美味しく飲める優れもの。

 食後のコーヒーを味わったあと、近所のスーパーで買い出し。朝食用の食パン、牛乳、ハムや野菜、昼食用の冷凍食品やインスタントラーメン、コーヒーなど、1週間分の食料を買いこんでくる。


 平日の勤務日でも、大輝は、お昼の休憩時間にアパートに帰り、昼食をるようにしている。ケントがアパートでひとりぼっちで留守番しているのが、可哀想だからだ。特に用がない限り帰るように心がけている。

 その代わり夕食は、時間がないときは外食ですます。仕事で遅くなることが多く、そのときは、ケントの散歩を優先させるので、食事の支度まで手がまわらないのだ。

 買い物から戻り、布団と洗濯物をとり入れる。ベッドメイキングをして、洗濯物を畳んでロッカーに仕舞い、ひと息つくと、1日の家事労働で疲れ果てたのか、いつの間にか、ケントとともに眠ってしまっていた。

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