第16話 まさに『空青し、山青し、海青し』
お燈まつりから8日後の日曜日。
朝大輝は、真宮シティホテルに美鈴を迎えにいく。すでにチェックアウトをすませた美鈴は、ロビーでコーヒーを飲みながら大輝がくるのを待っていた。リュックサックをフロントで預かってもらい、ふたりは、真宮観光に出かける。
まず大輝が美鈴を案内したのは、1週間前お燈まつりが行われたばかりの神倉神社。
ホテルからの
「そんな祭りがあるんだったら、1週間前にくればよかったのに……」といって、美鈴は悔しがる。「なんで、知らせてくれなかったのよ!」といわんばかりに。
入口の
息をきらしながらもどうにか登りきった大輝であるが、美鈴は、平気な顔をしている。
神社のご神体である『ゴトビキ岩』が、
社殿前からは、真宮の街が一望でき、熊野川や熊野灘まで見渡すことができる。
しばらく神倉山から景色を眺めていた美鈴が、おもむろにつぶやく。
「まさに『空青し、山青し、海青し』だね」
「なに、それ?」
「あんた、
「佐藤春夫って、『田園の
「知ってるじゃない。そうよ、その佐藤春夫よ。真宮が生んだ偉大な作家、というより詩人ね。『
『空青し、山青し、海青し、日はかがやかに、南国の五月晴れこそ、ゆたかなれ』
という一節があるの。熊野速玉大社の境内に詩碑があるはずよ。
今は、五月じゃないので、山の青さは物足りないけど。この青い空と山と海の街、真宮を詩にしたことがよくわかったわ」
「母さん、よく知ってるね」
「あたり前でしょう。大学で国文学を専攻してたのよ。それに入社当初は、文芸部にいたんだから」
「じゃあ、中上健次という作家、知ってる?」
「『岬』で芥川賞をとった人でしょう。あっ、そういえば、中上健次も真宮の出身だったね」
「読んだことあるの?」
「当然でしょう。出版社に勤めてるんだから、芥川賞や直木賞の受賞作は、すべて読んでるよ。といっても、中上健次が受賞したのは、あんたが生まれるずっと前よ」
次に大輝が案内したのは、熊野速玉大社。
熊野別当は、荒海をものともしない熊野水軍の統率者でもあり、平治の乱では平家方に、屋島・壇ノ浦の源平の決戦では源氏方につくなど、ときの権力を左右する力をもっていたという。
大輝は、ケントとの散歩で鳥居の前までくることがあるが、恐れ多くて犬を連れて中に入ったことはない。
ナギは、『
さらに参道を進み、朱塗りの神門を潜ると、
ふたり揃ってお参りをすませたあと、大輝は、境内を散策して『望郷五月歌』の詩碑を見つけ、美鈴に教えてあげようとすると、美鈴は、参道を引き返していく。
「もういいの? せっかく詩碑を見つけたのに……」美鈴の後ろ姿に大輝が呼びかける。
「実は、こっちのほうが興味あるのよ」といって、美鈴が向かったのは、駐車場に隣接する佐藤春夫記念館。
佐藤春夫記念館は、春夫が72歳で亡くなるまで過ごした東京都文京区にあった旧宅を故郷の真宮に移築したもの。建物本体だけでなく、アーチ型の門や塀、石畳のアプローチ、庭に植えられていたマロニエに至るまで、春夫が暮らしていた当時の
美鈴は、入口でふたり分の入場料を支払うと、ふり返りもせず中に入っていく。大輝も慌ててあとに続く。
旧宅内は、タイムトリップしたようなレトロな雰囲気が漂い、遠き大正、昭和の昔を感じさせる空気が流れている。至るところに自筆原稿や春夫が使っていた生活用品などが数多く展示されている。
美鈴は、そのひとつひとつを興味深く眺め始める。文学に縁がない大輝は、興味が湧くこともなく、とりあえず順路に沿って見てまわるが、もとは普通の民家なので、ひととおり見るのにそれほど時間はかからない。入口で手もち
「お待たせ」といって、ようやく美鈴が出てきた。
「ずいぶん熱心だね」
「前から一度、ここにきたかったのよ。今回真宮にきた隠れた目的よ」
「そうなの?」驚いた大輝は、その理由を尋ねようとしたが、美鈴はなにもいわず、歩き始めたので、大輝も歩調をあわせる。
ふたり並んで歩きながら美鈴が、その目的を話し始める。
「あんた、
「うん、『
「そうよ。『細雪』、『
あたし、大学時代、谷崎の作品に
その谷崎と佐藤春夫との間に、『細君譲渡事件』という逸話があるの。あんたは、知らないと思うけど」
「さっ、さいくん、じょうと?」
「簡単にいってしまえば、奥さんを譲り渡した事件よ」
「……」
「谷崎には、
それよりも、千代の妹、せい子にちょっかいを出したのよ。せい子は、千代と違って自由
悩み苦しんでた千代は、谷崎と交遊があった佐藤春夫に相談し、悩みを打ち明けるの。千代に同情した春夫は、親身に話を聞いてるうちに、いつしか恋愛感情を抱くようになって、千代を愛し始めるの。
ふたりの恋愛感情に気づいた谷崎は、千代と別れてせい子と結婚するチャンスだと思って、春夫に千代をくれてやると約束したの。しかし、肝心のせい子がその気にならないので、千代を手放すのが惜しくなった谷崎は、春夫との約束を
「酷いヤツだね、谷崎って」
「そうよ。書いた文学作品は、高い評価を受けてるけど、人間的には谷崎は、女たらしの最低な男。
この一方的な約束破りで、谷崎との交遊を絶った春夫は、神経症に
「それで、どうなったの?」
「時が流れて9年後、改めて谷崎が春夫に約束を果たすといったのよ。谷崎が千代と離婚し、春夫と千代が結婚するという約束を。
今さらながらと思うけど、千代のことを忘れられない春夫は、もちろん同意したの。そして、3人の連名で挨拶状を知人たちに送ったのよ。これを『細君譲渡事件』として新聞が報道したものだから、当時としては、かなりセンセーショナルな事件になったわけ。その現物が、さっきの記念館に展示されてるのよ」
「でも、なんでそんなにあとになって、谷崎は、約束を果たしたの?」
「それには、裏があるのよ。春夫と絶交した谷崎は、一時は千代とやり直そうとしたらしいけど、
時間が経つとともに、女たらしの虫が
今度こそ千代と別れて、その女と結婚しようと思った谷崎は、昔の約束を思い出し、身勝手に千代を春夫に押しつけただけなのよ。でも、この結婚も長くは続かなかったの」
「どうして?」
「また別の女に入れあげたから。
「ほんとにどうしようもない男だね、谷崎って」
「あんたも、気をつけたほうがいいよ。谷崎を反面教師だと思って。
でも、春夫のほうは、千代と結婚し、谷崎と千代の娘である
細君譲渡事件を話しながら歩いていると、いつの間にか真宮城址まで辿りついていた。
真宮城は、別名『
かつて当地を治めていた熊野別当が別荘を建てたこの場所に、初代紀州藩主、徳川
整備された遊歩道を登り下りしながら城址を一周していると、美鈴が、
『高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに』
明治39年、鉄幹が
美鈴も素晴らしい眺望に満足そうだった。
昼食は、美鈴が和歌山ラーメンを食べたいといい出す。昨年のゴールデンウィークにきたとき、食べたラーメンの味が忘れられず、もう一度食べたいと。
真宮のラーメン事情など、知る
香織イチ押しの店は、郊外にあり、時間も車もないため諦めざるを得ないが、香織のベスト3にランクインする店が駅近くにあり、そこにいくことにする。
和歌山では、『ラーメン』といわず、『中華そば』という。味つけは、豚骨の醤油味で、どちらかといえばこってりした味。一度食べると
和歌山のラーメン屋には、メニュー表というものがない。味つけは、豚骨の醤油味の1種類。関東でよく見かける1軒の店で、醤油、味噌、塩、塩バターなど数種類の味つけのラーメンを出す店など、まったく見かけない。客が選択できるのは、麺の量(並盛り、大盛り、特大盛り)とチャーシューの量(店によっては、チャーシューが多く入ったものを『特中華』と呼ぶところもある)のみ。それゆえ、テーブルにメニュー表が置いてあることは
それと、もうひとつの特徴は、
早寿司は、
店に入るなり、
「ねえ、満足した?」ラーメン屋を出て、駅に向かう道すがら大輝が尋ねる。
「ええ、十分満足したわ。昨夜の中トロカツとめばりすし、今日のラーメンと早寿司は最高。ここまできた甲斐があったというものよ」美鈴は満足そうに答える。
バスを待っている間、大輝は、気になっていることを美鈴に話しておく。
「ねえ、母さん、お見合いのことだけど……」
「断りたいんでしょう?」
「そう、なんでわかるの?」
「あたり前でしょう、母親なんだから。あんたのことだから、きっと断るだろうと思ってたから。真知子さんの手前、あたしもアリバイづくりでここまでやってきたようなものなの。
だから心配しなくていいのよ。1週間したら、写真を送り返してくれればいいよ。
あたしからやんわり断るつもりだから」
「そうしてくれると助かるよ。ありがとう、母さん!」
美鈴は、これから本宮大社に向かう予定。本宮大社に参拝したあと、川湯温泉に1泊するのだという。
川湯温泉は、熊野川支流の
例年冬になると、河原で湧き出た温泉をせき止めてつくった露天風呂『
翌日は、日本一長い路線バスに乗って、奈良県の五条まで出て、JR和歌山線に乗り換えて高野山に向かう。高野山真言宗の総本山、金剛峯寺に参拝したあと、和歌山市を経由して関西空港にいき、夜の飛行機便で東京に戻るらしい。
それにしてもパワフルな母親だと、改めて感心する大輝だった。
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