第16話 まさに『空青し、山青し、海青し』

 お燈まつりから8日後の日曜日。

 朝大輝は、真宮シティホテルに美鈴を迎えにいく。すでにチェックアウトをすませた美鈴は、ロビーでコーヒーを飲みながら大輝がくるのを待っていた。リュックサックをフロントで預かってもらい、ふたりは、真宮観光に出かける。

 まず大輝が美鈴を案内したのは、1週間前お燈まつりが行われたばかりの神倉神社。

 ホテルからの道程みちのりで、感動したお燈まつりの様子を美鈴に説明してやる。

「そんな祭りがあるんだったら、1週間前にくればよかったのに……」といって、美鈴は悔しがる。「なんで、知らせてくれなかったのよ!」といわんばかりに。


 入口の太鼓橋たいこばしを渡り、山頂までの長い急な石段を登る。想像した以上に傾斜のある急な石段。遠き昔につくられた石段は、段差が一定でなく、登りづらいのはこの上ない。よくこんな石段を駆け降りたものだと、感心するどころか、想像するだけで怖くなる。

 息をきらしながらもどうにか登りきった大輝であるが、美鈴は、平気な顔をしている。

 神社のご神体である『ゴトビキ岩』が、途轍とてつもなく大きいのに驚く。その岩には、長さ30メートルもある注連縄しめなわが巻かれており、いったいどうやって巻いたのかも想像がつかない。

 社殿前からは、真宮の街が一望でき、熊野川や熊野灘まで見渡すことができる。


 しばらく神倉山から景色を眺めていた美鈴が、おもむろにつぶやく。

「まさに『空青し、山青し、海青し』だね」

「なに、それ?」

「あんた、佐藤さとう春夫はるおも知らないの?」

「佐藤春夫って、『田園の憂鬱ゆううつ』を書いた人じゃない? 確か、真宮に記念館があるけど……」

「知ってるじゃない。そうよ、その佐藤春夫よ。真宮が生んだ偉大な作家、というより詩人ね。『望郷ぼうきょう五月歌ごがつか』という詩があって、その中に

『空青し、山青し、海青し、日はかがやかに、南国の五月晴れこそ、ゆたかなれ』

という一節があるの。熊野速玉大社の境内に詩碑があるはずよ。

 今は、五月じゃないので、山の青さは物足りないけど。この青い空と山と海の街、真宮を詩にしたことがよくわかったわ」


「母さん、よく知ってるね」

「あたり前でしょう。大学で国文学を専攻してたのよ。それに入社当初は、文芸部にいたんだから」

「じゃあ、中上健次という作家、知ってる?」

「『岬』で芥川賞をとった人でしょう。あっ、そういえば、中上健次も真宮の出身だったね」

「読んだことあるの?」

「当然でしょう。出版社に勤めてるんだから、芥川賞や直木賞の受賞作は、すべて読んでるよ。といっても、中上健次が受賞したのは、あんたが生まれるずっと前よ」


 次に大輝が案内したのは、熊野速玉大社。

 熊野速玉大神くまのはやたまのおおかみ熊野夫須美大神くまのふすみのおおかみを主祭神とする熊野速玉大社は、熊野三山の一社として全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮。三山の社務を統括する熊野別当の本拠が、この地におかれたこともあって、熊野速玉大社は、三山の中でも特別の地位を占めている。

 熊野別当は、荒海をものともしない熊野水軍の統率者でもあり、平治の乱では平家方に、屋島・壇ノ浦の源平の決戦では源氏方につくなど、ときの権力を左右する力をもっていたという。

 大輝は、ケントとの散歩で鳥居の前までくることがあるが、恐れ多くて犬を連れて中に入ったことはない。


 下馬橋げばばしを渡り、鮮やかな朱色の鳥居をくぐり、参道を進むと、目の前にご神木の『ナギの大樹』が高くそびえている。国の天然記念物で、平清盛たいらのきよもり嫡男ちゃくなん重盛しげもりの手植えと伝えられ、樹齢1000年を越えている。

 ナギは、『なぎ(風がやんで波がなくなり、海面が穏やかになった状態)』に通じることから、海上安全や良縁結びの信仰が厚い。昔は、嫁いでいく娘の鏡の裏などにこの葉を忍ばせ、無事に添い遂げられるように祈ったと伝えられている。

 さらに参道を進み、朱塗りの神門を潜ると、壮麗そうれいな朱塗りの熊野造りの社殿が目に飛びこんでくる。その鮮やかさに目をみはる。


 ふたり揃ってお参りをすませたあと、大輝は、境内を散策して『望郷五月歌』の詩碑を見つけ、美鈴に教えてあげようとすると、美鈴は、参道を引き返していく。

「もういいの? せっかく詩碑を見つけたのに……」美鈴の後ろ姿に大輝が呼びかける。

「実は、こっちのほうが興味あるのよ」といって、美鈴が向かったのは、駐車場に隣接する佐藤春夫記念館。


 佐藤春夫記念館は、春夫が72歳で亡くなるまで過ごした東京都文京区にあった旧宅を故郷の真宮に移築したもの。建物本体だけでなく、アーチ型の門や塀、石畳のアプローチ、庭に植えられていたマロニエに至るまで、春夫が暮らしていた当時の瀟洒しょうしゃな旧宅全体を忠実に復元している。

 美鈴は、入口でふたり分の入場料を支払うと、ふり返りもせず中に入っていく。大輝も慌ててあとに続く。


 旧宅内は、タイムトリップしたようなレトロな雰囲気が漂い、遠き大正、昭和の昔を感じさせる空気が流れている。至るところに自筆原稿や春夫が使っていた生活用品などが数多く展示されている。

 美鈴は、そのひとつひとつを興味深く眺め始める。文学に縁がない大輝は、興味が湧くこともなく、とりあえず順路に沿って見てまわるが、もとは普通の民家なので、ひととおり見るのにそれほど時間はかからない。入口で手もち無沙汰ぶさたで美鈴を待つこと、30分。

「お待たせ」といって、ようやく美鈴が出てきた。

「ずいぶん熱心だね」

「前から一度、ここにきたかったのよ。今回真宮にきた隠れた目的よ」

「そうなの?」驚いた大輝は、その理由を尋ねようとしたが、美鈴はなにもいわず、歩き始めたので、大輝も歩調をあわせる。


 ふたり並んで歩きながら美鈴が、その目的を話し始める。

「あんた、谷崎たにざき潤一郎じゅんいちろうっていう作家、知ってるでしょう?」

「うん、『細雪ささめゆき』を書いた人じゃなかったかなぁ」

「そうよ。『細雪』、『春琴抄しゅんきんしょう』、『痴人ちじんあい』など、多くの名作を残してる文豪よ。とれなかったけど、ノーベル文学賞の候補にもなったことがあるの。

 あたし、大学時代、谷崎の作品にかれて、卒論のテーマに選んだくらいよ。

 その谷崎と佐藤春夫との間に、『細君譲渡事件』という逸話があるの。あんたは、知らないと思うけど」

「さっ、さいくん、じょうと?」


「簡単にいってしまえば、奥さんを譲り渡した事件よ」

「……」

「谷崎には、千代ちよという良妻賢母りょうさいけんぼのできた奥さんがいたんだけど、できすぎて気に入らなかったのか、わかんないけど、谷崎は、千代のことが嫌いで、夫婦仲は冷えきってたの。

 それよりも、千代の妹、せい子にちょっかいを出したのよ。せい子は、千代と違って自由奔放ほんぽうな性格で、いってみれば、今ふうの気ままな娘だったのかもね。せい子に惹かれた谷崎は、『痴人の愛』のヒロインのモデルにしたともいわれてるの。

 悩み苦しんでた千代は、谷崎と交遊があった佐藤春夫に相談し、悩みを打ち明けるの。千代に同情した春夫は、親身に話を聞いてるうちに、いつしか恋愛感情を抱くようになって、千代を愛し始めるの。

 ふたりの恋愛感情に気づいた谷崎は、千代と別れてせい子と結婚するチャンスだと思って、春夫に千代をくれてやると約束したの。しかし、肝心のせい子がその気にならないので、千代を手放すのが惜しくなった谷崎は、春夫との約束を反故ほごにしたのよ」


「酷いヤツだね、谷崎って」

「そうよ。書いた文学作品は、高い評価を受けてるけど、人間的には谷崎は、女たらしの最低な男。

 この一方的な約束破りで、谷崎との交遊を絶った春夫は、神経症にかかって郷里の真宮に引きこもってしまうの。そのときの春夫の心情をうたったのが、有名な『秋刀魚さんまの歌』。JR勝浦駅前に詩碑があったわ」

「それで、どうなったの?」

「時が流れて9年後、改めて谷崎が春夫に約束を果たすといったのよ。谷崎が千代と離婚し、春夫と千代が結婚するという約束を。

 今さらながらと思うけど、千代のことを忘れられない春夫は、もちろん同意したの。そして、3人の連名で挨拶状を知人たちに送ったのよ。これを『細君譲渡事件』として新聞が報道したものだから、当時としては、かなりセンセーショナルな事件になったわけ。その現物が、さっきの記念館に展示されてるのよ」


「でも、なんでそんなにあとになって、谷崎は、約束を果たしたの?」

「それには、裏があるのよ。春夫と絶交した谷崎は、一時は千代とやり直そうとしたらしいけど、生粋きっすいの女たらしが、そう簡単に改心するわけないよね。

 時間が経つとともに、女たらしの虫がうごめき始めたの。当時文芸春秋の記者だった女にれちゃって、家を飛び出して同棲し始めたのよ。

 今度こそ千代と別れて、その女と結婚しようと思った谷崎は、昔の約束を思い出し、身勝手に千代を春夫に押しつけただけなのよ。でも、この結婚も長くは続かなかったの」


「どうして?」

「また別の女に入れあげたから。根津ねづ松子まつこっていう、今度は人妻に。このときの谷崎は、恥も外聞もなく、あの手この手で松子の気を引こうと、躍起やっきになったの。ラブレターはもちろん、あらゆる手を使って、おがみ倒すように松子に迫ったという話よ」

「ほんとにどうしようもない男だね、谷崎って」

「あんたも、気をつけたほうがいいよ。谷崎を反面教師だと思って。

 でも、春夫のほうは、千代と結婚し、谷崎と千代の娘である鮎子あゆこまで引きとって、仲のよい円満な家庭を築いたといわれてるの。春夫は、ほんとに千代のことが好きで、愛してたのね。そこまで愛された千代も、幸せだったと思うわ」


 細君譲渡事件を話しながら歩いていると、いつの間にか真宮城址まで辿りついていた。

 真宮城は、別名『丹鶴たんかく城』と呼ばれ、市街地の北、熊野川を背にした高台にある。熊野川河口の先に太平洋を眺められることから、『沖見おきみ城』とも呼ばれている。

 かつて当地を治めていた熊野別当が別荘を建てたこの場所に、初代紀州藩主、徳川頼宣よりのぶ付家老つけがろうである水野氏が居城を築いたようだ。今は、昔の栄華を偲ぶ城の石垣だけが残されているだけだが、公園として整備され、市民に開放されている。


 整備された遊歩道を登り下りしながら城址を一周していると、美鈴が、与謝野よさの鉄幹てっかんの歌碑を見つける。

『高く立ち 秋の熊野の 海を見て 誰そ涙すや 城の夕べに』

 明治39年、鉄幹が大石おおいし誠之助せいのすけ北原きたはら白秋はくしゅうらとともに熊野地方を漫遊まんゆうしたときんだ歌。

 美鈴も素晴らしい眺望に満足そうだった。


 昼食は、美鈴が和歌山ラーメンを食べたいといい出す。昨年のゴールデンウィークにきたとき、食べたラーメンの味が忘れられず、もう一度食べたいと。

 真宮のラーメン事情など、知るよしもない大輝は、地元通の事務官、前田香織に電話をかけて情報を仕入れていた。

 香織イチ押しの店は、郊外にあり、時間も車もないため諦めざるを得ないが、香織のベスト3にランクインする店が駅近くにあり、そこにいくことにする。

 和歌山では、『ラーメン』といわず、『中華そば』という。味つけは、豚骨の醤油味で、どちらかといえばこってりした味。一度食べるとみつきになる人も少なくない強烈さがある。鶏ガラ系のあっさりした東京ラーメンに慣れている関東の人には、衝撃的なラーメンといえる。


 和歌山のラーメン屋には、メニュー表というものがない。味つけは、豚骨の醤油味の1種類。関東でよく見かける1軒の店で、醤油、味噌、塩、塩バターなど数種類の味つけのラーメンを出す店など、まったく見かけない。客が選択できるのは、麺の量(並盛り、大盛り、特大盛り)とチャーシューの量(店によっては、チャーシューが多く入ったものを『特中華』と呼ぶところもある)のみ。それゆえ、テーブルにメニュー表が置いてあることはまれで、店の壁に、例えば、並盛り600円、大盛り700円、特大盛り800円という料金表が貼ってあるだけ。


 それと、もうひとつの特徴は、はや寿司や巻き寿司、ゆで卵などのサイドメニューが、テーブルの上に予め置いてある。客は、ほしければ勝手に食べ、会計のとき、自己申告して料金を支払えばいいだけ。

 早寿司は、酢締すじめしたさばの押し寿司で、ひと口サイズの大きさ。さっぱりした口あたりは、こってりした和歌山ラーメンとは相性抜群で、ラーメンを食べたあとの口直しに欠かせない一品。

 店に入るなり、目聡めざとく早寿司を見つけた美鈴は、「これも美味しいのよね」といって、口直しではなく、ラーメンが出てくる前にひとつ平らげてしまった。


「ねえ、満足した?」ラーメン屋を出て、駅に向かう道すがら大輝が尋ねる。

「ええ、十分満足したわ。昨夜の中トロカツとめばりすし、今日のラーメンと早寿司は最高。ここまできた甲斐があったというものよ」美鈴は満足そうに答える。

 バスを待っている間、大輝は、気になっていることを美鈴に話しておく。

「ねえ、母さん、お見合いのことだけど……」

「断りたいんでしょう?」

「そう、なんでわかるの?」

「あたり前でしょう、母親なんだから。あんたのことだから、きっと断るだろうと思ってたから。真知子さんの手前、あたしもアリバイづくりでここまでやってきたようなものなの。

 だから心配しなくていいのよ。1週間したら、写真を送り返してくれればいいよ。

 あたしからやんわり断るつもりだから」

「そうしてくれると助かるよ。ありがとう、母さん!」


 美鈴は、これから本宮大社に向かう予定。本宮大社に参拝したあと、川湯温泉に1泊するのだという。

 川湯温泉は、熊野川支流の大塔川だいとうがわ沿いにある。川原を掘れば、たちどころに温泉が湧き出ることで有名。全国でも珍しい温泉。

 例年冬になると、河原で湧き出た温泉をせき止めてつくった露天風呂『仙人せんにん風呂』が解放され、野趣やしゅあふれる冬の風物詩として親しまれているようだ。美鈴は、その風呂に入るため冬だというのに水着をわざわざ調達してきたようだ。

 翌日は、日本一長い路線バスに乗って、奈良県の五条まで出て、JR和歌山線に乗り換えて高野山に向かう。高野山真言宗の総本山、金剛峯寺に参拝したあと、和歌山市を経由して関西空港にいき、夜の飛行機便で東京に戻るらしい。

 それにしてもパワフルな母親だと、改めて感心する大輝だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る