第2話 『山は火の滝、下り龍』お燈まつり

 熊野川で水死体が発見された日の夕方。

 溜まった家事をこなしたあと、ケントとともに眠ってしまった大輝は、スマートフォンの振動に気づき、目を覚ます。

 電話に出てみると、検察事務官の前田まえだ香織かおり

 数日前、この日の夜、地元真宮しんぐうで行われる『おとうまつり』を案内してくれるという申し出を大輝は承諾していた。


「前田です。お仕度、できてます?」

「ええ。大丈夫です。どこにいけばいいのですか?」

 香織が指定したのは、裁判所前の交差点。アパートからは徒歩5分。大輝がダウンジャケットを着こんで通りに出て、裁判所に向かって歩いていると、異様な雰囲気が漂っている。

 白装束しろしょうぞくに身を包み、太い荒縄を腰に巻きつけ、白足袋しろたびの上に草鞋わらじいた男たちが、いずこからともなく湧き出るように現れる。手に五角形の松明たいまつをもち、白装束がいきうたび、松明をぶつけあい、「ガシャ、ガシャ」と、大きな音を立てる。

「頼むぜ!」松明をぶつけあうのと同時に、男たちは勇ましく言葉をかけあう。


「検事、こっちです」大輝を見つけた香織が手をふっている。

 普段のスーツ姿でなく、ジーンズにダウンジャケットを羽織った香織が、交差点の角に立っていた。

「ちょっと、異様な雰囲気ですね」

「そうでしょう。このお祭りは、昔から続く熊野の山伏のお祭りなんですよ」

「山伏……、ですか。だから白装束なんだ」

 関東で祭りといえば、「ピーヒャラ、ピーヒャラ」と、笛や太鼓の音が騒がしく聞こえ始めるのが、祭りの合図のようなもの。そう思っていた大輝は、ここではまったくしないので、ほんとうに祭りが行われるのか、密かに心配していた。


「あの山が神倉山かみくらやま。これからお祭りが行われる神倉神社があるところです」香織が小高い山を指さす。

「山の頂上付近に鳥居のようなものが見えるでしょう。あれが神倉神社。その後ろにある大きな岩が『ゴトビキ岩』といって、神社のご神体です。

 ここからは、木におおわれて見えませんが、下の入口から神社まで長い急な石段があるんですよ。お祭りでは、神社に集まった男の人たちが、松明をともして一斉に駆け降りるんです。

 それじゃあ、近くまでいってみましょう!」


 並んで歩くと、身長170センチの大輝と比べても遜色ない香織。中学、高校では、陸上の短距離選手として活躍したスポーツウーマン。女性にしては筋肉質で、痩身そうしんの大輝よりも大柄に見える。

 ふたりが神倉神社の入口に到着すると、朱色の欄干らんかんが鮮やかな太鼓橋たいこばし前に、白装束の男たち、家族と思われる女たち、見物する観光客が集まっている。

「ここが神倉神社の太鼓橋。お祭りが始まると、これより先は女人禁制にょにんきんせい。女の人は、入ることができません」

「女人禁制なんですか?」

「そうです。お燈まつりは、男のお祭りなんですよ。でも、山に入るのは男だけですが、女の人は男の人を見送り、出迎える役目がありますので、皆で参加している気もちになりますよ」


「あんな小さな子どもも……」

 小学1年生くらいの子どもが白装束に身を包み、父親の手に引かれながら太鼓橋を渡っていく。

「真宮に生まれ育った男だったら、誰でも一度はのぼり子になりますよ。うちの兄貴は、5歳からやってます」

「ノボリコって?」

「あの白装束の男の人たちのことです。上る子ども、と書きます」香織が解説する。

 しばらくたたずんでいたが、辺りがだんだん薄暗くなり始めたので、香織が大輝に声をかける。

「まだお祭りが始まるまで時間がありますので、夕食でも食べにいきませんか?」


 ふたりは、検察庁の近くにある喫茶店『キャロット』まで引き返す。

「いらっしゃい!」自動ドアが開くと、奥から女性の声。店内は、観光客と地元の人たちでほぼ満席状態。入口で立ち往生おうじょうしていると、マスターの奥さんが近づき、

「ごめんなぁ。カウンターしかあいてへんけど……」

「かめへんよ。カウンターで」

 香織は、勝手知ったるわが家のごとく、入って右側の奥にしつらえたカウンター席に向かう。大輝も慌ててあとに続く。


 しばらくすると、奥さんは、お冷のグラスをさし出しながら、興味深々きょうみしんしんの顔つきで、香織に話しかける。

「香織ちゃん、デートなんやね」

「ちゃいますよ。そんなんと。東京からきはった検事さんに、お燈まつり案内しちゃってるだけやで」照れくさそうな表情をするが、きっぱり否定する。

「鈴木検事、なんになさいます?」

 香織は、まるで職場に戻ったような業務用の言葉を発する。


 大輝はハンバーグセット、香織がパスタセットを注文すると、大輝が尋ねる。

「前田さんも、普段は、関西弁を喋るんですね」

「えっ……」一瞬質問の意味を理解しかねた香織が、戸惑いの表情を見せる。

「ええ、あたしは、生まれも育ちも真宮ですから。ただ大学が東京で、友だちに関西人がひとりもいませんでしたから、自然と標準語を話すようになっただけです」

 標準語で話しかけられれば、標準語で答え、地元の言葉で語りかけられれば、地元の言葉で返事する。なんと器用な人なんだろう。ちょっとしたバイリンガル。


 和歌山に赴任して1年足らず。大輝は、関西弁が同じ日本語とは思えないほど、理解するのに苦労した。

 大学時代、九州出身の友だちは何人かいたが、関西出身はひとりもいなかった。関西弁は、テレビで聞く以外は馴染なじみがなく、実際に面と向かって話されると、とても戸惑ってしまう。特に早口でまくし立てられると、半分も理解できないことも。

 検察庁内では、関西弁が主流なので、標準語を話す香織が大輝の担当で、安堵あんどしたものだ。

 カウンター席にふたり並んで座り、香織がパスタを食べながら、お燈まつりについてなにも知らない大輝に解説してくれた。


 お燈まつりは、毎年2月6日の夜に行われる神倉神社の例祭。1400年の伝統がある。

 神倉神社は、古代より山伏(修験者)の修業の場。火を産み、操り、浄化する山伏が、旧暦の正月に、新年を迎えて新しい火を更新するため、火で身を清め、その年の平安を祈願したのが起源とされる。

 今でも、ご神火じんかの洗礼を受けて火に感謝し、1年の家内安全を祈願する目的で行われている。


 白装束に荒縄を締め、ご神火を移した松明をもって神倉神社の玉垣たまがき内に集結した上り子たちが、法螺貝ほらがいの開門の合図とともに、急峻な538段の石段をわれ先にと一気に駆け降りる。火の海と化した神倉山から2千数百の松明が駆け降りる壮観な眺めは、まるで龍がくだり降りる姿だと、

『お燈まつりは男のまつり、山は火の滝、下り龍』

と、新宮節に唄われ、和歌山県の無形民俗文化財にも指定されている。


「上り子は、誰でもなれるのですか?」という大輝の素朴な質問に対して、

「原則、男であればね。ただし――」香織が解説を続ける。

 お燈まつりに参加する上り子は、1週間前から精進潔斎しょうじんけっさいに入らなければならない。この期間中は、肉を断ち、白いご飯や豆腐、かまぼこといった白い食べ物のみを口に入れ、斎戒沐浴さいかいもくよくをして身を清めるのだという。

 そして、お燈まつり当日、白装束に身を包み、荒縄を腰に巻き、松明をもった上り子は、神倉神社に向かう前、熊野速玉大社くまのはやたまたいしゃ阿須賀あすが神社、妙心寺みょうしんじを巡拝して祭りの無事を祈る。上り子がいき交うときは、必ず松明をぶつけあって「頼むぜ!」と言葉をかけあうのが習わし。

 上り子の中には、この酷寒こっかんの中、巡拝する前、王子ヶ浜で熊野灘に入水して身を清める強者つわものもいるという。


「でもね。あまり堅いことをいうと参加者が少なくなるし、こんな寂れた街、観光でもない限り人はこないから、今では、男だったら誰でも、観光客でも、外国人でも、参加できるようにしてるんですよ。ただし、白装束に荒縄を締めるスタイルだけは必須で、この格好でなければ、山には入れてくれません……。


 あっ、そうだ。原田はらだ芳雄よしおさんという俳優をご存じでしょう?」

 誰、それ? とキョトンとした顔をした大輝が黙っていると、

「もう亡くなった方ですが、ご存じないですか?」

「顔を見れば、たぶんわかると思いますが……」

「じゃあ、中上なかがみ健次けんじという作家をご存じないですか?」

「ナカガミ、ケンジ、ですか……」

「『岬』という小説で芥川賞を受賞された方です」

「いゃ、知りませんが……。ごめんなさい」

「いえ、かまいません。法律の専門書しか読まない検事に、文学のことを尋ねた私がいけないんです」


 ムッとした表情で、香織が話を続ける。

「中上健次さんもすでに亡くなられてますが、ここ真宮の出身でした。生前、中上さんと交遊のあった原田さんは、病気になられた中上さんの代わりにお燈まつりに参加されたのをきっかけに、毎年、真宮にいらっしゃって、お燈まつりに参加されてたそうです」

「毎年、ですか?」

「ええ。なんでも、お燈まつりに魅せられて、2月6日神倉山に登らないと、1年が始まらないとまでいってたそうです」

 スマートフォンの時計で時刻を確認した香織は、大輝を促す。

「そろそろ、開門の時間です。いってみましょうか?」


 再び神倉神社に戻ると、太鼓橋付近は、上り子を待つ家族と見物客とで立錐りっすいの余地がないほど埋め尽くされている。近づくことができず、少し離れたところから神倉山を見上げると、頂上付近は、松明の炎で山火事のように燃え盛っている。興奮した上り子が松明を突きあげているのか、炎が踊っているように見える。


 しばらくすると、法螺貝の合図で鳥居の山門が開かれたのか、突然「ウオー」という雄叫おたけびが湧き起る。それと同時に山頂の炎が動き始める。炎が左右にぶれながら下に向かって降りてくる。一番の上り子が降りきったとき、太鼓橋付近で大歓声があがる。山を見上げると、炎が太鼓橋から頂上までつながり、大輝には、とぐろを巻いた火の大蛇が、山頂から降りてくるように見えた。

「凄いでしょう!」香織が、言葉が出ないほどお燈まつりの壮大さに感動している大輝に話しかける。

「ええ、凄いです!」と大輝。

「『山は火の滝、下り龍』とは、うまい表現だと思いませんか?」

「そうですね。でも僕には、龍よりも蛇に見えますけど……」


「どうです? 来年は、鈴木検事も参加されたらどうです?」改めて大輝のほうを向いた香織が尋ねる。

「僕がですか? そうですね……。やってみたいという気もちはありますね。でも、ピンチヒッターできてる僕が、来年もここにいるかどうか、わかりませんよ」

「そのときは、仕事を休んできてくださいよ!」

「検事正が許してくれればね……」大輝が笑顔で答える。

「真宮の男たちは、この神々こうごうしいお祭りに参加することで、1年間に背負いこんだ苦難や厄災などをすべて削ぎ落としてリセットし、新たな気もちで新しい年を生きていこうとしてるんです」

「僕にも、その気もちはよくわかります。こんなお祭りが長く引き継がれていること自体、ほんとにうらやましく思いますよ」

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