第5話 少女は覚悟を決める

 的場はまだ、この朝の風景に慣れていなかった。自分だけの視点で見れば、目の前にはスーツ姿の綾子が朝食を頬張っているだけである。だが綾子の視点から見れば、そこには三十二歳の兄が制服姿で朝食を食べる姿が映っているはずだ。これを異様な光景と言わず、なんと言うのだろうか。的場は、まだ答えを出せていなかった。

 そんな微妙な空気が流れる空間ということもあって、その食卓に誰かの話声が聞こえることがほとんどなかった。最初は母親が気を遣って二人の間を取り持とうとしてくれたが、今はそんな気配すらない。もう諦められたようだ。

「お兄ちゃん」

 そんな静かな食卓に、綾子の声がした。潜入捜査を開始してからというもの、綾子のほうから的場に話してきたことなど一度も無かった。それが、遂に今日話しかけられた。的場は逸る気持ちを抑え、渾身の渋い声と顔で応対した。

「どうしたんだい、綾子」

「……あの脅迫状を送った人と波風くんを殺した犯人は、同一人物だと思う?」

「え、どうしたんだ、急に」

「いや、別に。身近で事件なんて起こったことないから、ちょっと気になっただけ。ほら、やっぱりこういう時にはプロの意見を参考にしないとね」

 綾子の言う理屈はよく分からなかったが、的場にとってそんなことはどうでもよかった。そんなことよりも、綾子が自分を頼りにしており、プロとまで呼んだことの方が何よりも重要だった。これは、失ってきた信頼を取り戻すチャンスだ。

 そう思った的場は、一度目を閉じてから力を込めて開き、凛とした顔つきを作った。発言内容の前に、まずは見た目から入ろうと考えたからだ。そして、これまでの人生の中で最も仕上がりのいい声で自信満々に自分の見解を話した。

「脅迫状の差出人と殺人犯は、間違いなく同一人物だろう。何故なら、脅迫状の差出人は、事件の前から事件が起こることを知っていたからだ。でないと、あの脅迫状は書けない。そして事件が起こる前に事件が起こることを知っているのは、それを実行する犯人だけだ」

「そうか、そうだよね」

 キラキラと輝いた目で称賛を浴びせられることを期待していた的場は、綾子のあまりにあっさりとした対応に拍子抜けした。その後綾子は朝食をかきこみ、そそくさと家を出た。早くしないと遅刻するよ、と的場の耳元で囁いてから。


 三限目の授業中、的場は天麗と共に会議室へ向かっていた。莉子から、捜査の進捗を報告するようにと呼びだされたからだ。授業中の呼びだしなのは、生徒に話を立ち聞きされる心配を極力無くすためだろう。

 会議室に入ると、そこには窓際に立つ波佐間と莉子の姿があった。

「ご足労頂いて申し訳ありませんが、特に新しい情報は掴んでいません」

 会議室の扉を閉めて開口一番、的場はそう言った。今の波佐間の立ち位置を見ると、五年前の綾子の件を掘り起こされた時のことを思い出してしまう。だから無意識の内に、防御反応として、この場から迅速に離れようとしてしまったのだ。

 的場の言葉を聞いた波佐間は、窓の方を向いたまま微動だにしなかった。天麗を巻き込めば罪悪感から何か話すかもしれない、波佐間はそう期待していたのかもしれない。だが、的場は何も話さなかった。むしろ天麗がいれば、波佐間や莉子が下手に手出しできないと高を括っていた。

 その後しばらくの沈黙があった後、莉子は手荷物から一通の茶封筒を取り出した。

「ではこちらから、波風の司法解剖結果をお伝えします。死因は窒息死。ただほとんど水を飲んでいないことから、おそらくは死後、プールに遺棄されたものと考えられるという事でした」

「分かった。ありがとう」

 莉子の報告を聞き終え、的場はすぐに踵を返し、眼前にそびえる扉に手をかけた。

 その時、横にいた天麗が遠慮がちに声を上げた。

「あの、私から報告していいですか」

 珍しく、視線を下に向けていて、自信が無さそうな様子に見えた。それを察してか、緊張感を演出するために窓の外を向いていた波佐間が、満面の笑みで振り返り、天麗に優しく語りかけた。

「どうぞ、遠坂さん。何か仰りたいことがあるなら、何でも言ってください」

「では、遠慮なく」

 そこで天麗は顔を上げ、波佐間の方を真っ直ぐに見て、その後の言葉を紡いだ。

「波風さんの殺人事件には、私と同じクラスの北風小夏が関わっていると思います」

 思わぬ発言に、波佐間や莉子、的場は大きな驚きの声を上げた。特に的場は、小夏のことを知っているだけに、ことさら驚いた。

「お、おいおい天麗、自分が何を言ってるか分かってるのか。お前は今、親友が殺人犯だって、そう言ったんだぞ」

「うん、分かってる。私は、親友の小夏が殺人犯だって言っている」

 的場の目を見据えて、天麗がそう言い放った。その目には、強い決意が滲んでいるように見えた。吸い込まれそうなその目に見惚れてしまった的場は、一呼吸置いた後、落ち着いて会話を続けた。

「根拠はあるのか」

「私、的場さんに被害者の名前を聞く前に言い当てたでしょ。あれ、なんでだと思う?」

 的場は、波風をプールで発見した後に水泳部の顧問に話を聞き、その後廊下で天麗に会った時のことを思い出した。あの時天麗は、授業に姿を見せなかったからと言って、最初に小夏が被害者ではないかと疑った。その後小夏が現れ、無事を確認した後に、今度は波風が被害者だと言い当てていた。

 改めて思い返してみても、その理由は全く分からない。

「いや、分からない。何故なんだ」

「あの時、小夏がわざわざ私たちの間を通っていったでしょ。その時、小夏の体から匂ったの。波風が使っていた、あの香水の匂いが」

「待て、まさかそれだけで小夏さんが犯人だなんていうつもりじゃないだろうな」

「勿論。でも、根拠は同じ。私は昨日、小夏と一緒にカウンセリングルームに入ったの。カウンセリングルームは防音対策がバッチリだから、部屋の気密性が高くて、臭いが残りやすい。入ってすぐに分かった。波風の香水の匂いが、部屋の中に漂っていた」

「でも、それは現場がそこだという可能性を示すだけじゃないか」

「小夏はスクールカウンセラーの来る水曜日以外は、登校すると真っ先に職員室に行ってカウンセリングルームの鍵を受け取る。そして下校の時に返すまで、ずっと持ってる。つまり、波風をカウンセリングルームに招き入れることができるのは、小夏だけなの」

 学校の授業中、カウンセリングルームを開けることができるのは小夏だけ。この推理には、実は穴があることを的場は知っていた。そう、マスターキーの存在を知っているからだ。マスターキーは学校のすべての教室を開けることができる。開けられないのは、プールに備え付けられている倉庫や更衣室、体育教官室等の鍵が後から作られた、限られた数室だけだ。勿論、カウンセリングルームもマスターキーで開けることができる。

 だがそのマスターキーは、校長室に保管されている。もし犯人がマスターキーを使ったのなら、何らかの方法で校長を出し抜かなければならない。でなければ、校長に話を聞けばたちどころに犯人が逮捕されることになる。

 それにそんな状況なら、既に校長から話があって然るべきだろう。殺人事件が起きたその日に、滅多に使われることがないマスターキーを借りた人間がいる、と。

 的場がそんなことを考えていると、天麗が更に話を続けた。

「それに小夏は……波風に襲われたことを否定しなかった。あの子の性格から考えて、それが嘘なら、はっきりと嘘だと言って笑い飛ばしてると思う。だから多分、襲われたのは本当の話なんだと思う」

「じゃあ、小夏が殺す以外の目的で波風をカウンセリングルームに招入れることはない。天麗は、そう言いたいんだな」

 的場が念を押して尋ねると、天麗はゆっくりと頷いた。その速度から、天麗も小夏が今回の事件に無関係であると信じたい気持ちで一杯なのだということが、痛いほど伝わってきた。

「仮に小夏さんが殺害に関与していたとしても、そこには謎が残る」

「どうやって波風をプールに運んだのか、だね」

「ああ。事故の起こりやすいプールの鍵を、水泳部にも所属していない小夏さんが取りに来ても貸してくれる可能性は低いだろう。だとすれば、共犯者がいると考えるのが自然。セキュリティ会社の記録と三人の顧問証言から考えて、あの日プールに入った人間は稲森と田上の二人だ」

「つまり、その内のどちらかが共犯者ということね」

「あるいは、両方かもしれない」

 この会議室の話し合いで、最重要参考人とその共犯者の可能性がある二人が捜査線上に浮上した。善は急げということで、二人は早速三限目に授業を持っていなかった稲森の下へ向かった。

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