第5話 授業中の悲劇

 退屈な日常。今日も普段と代わり映えの無い光景が広がり、授業という拷問に耐えるだけの時間を過ごす羽目になる。あんな分かり切った話をただ座って聞くだけの行為に、一体何の意味があるのだろうか。

 これまで何度考えたか分からない疑問を抱きながら、遠坂天麗は朝の身支度を行っていた。毎朝目が覚めると目に入る自分の部屋の風景も、もう飽きた。かといって、模様替えする気にはなれない。そうではなく、ある朝目を覚ますと突然部屋の中が様変わりしているような、そんな劇的な変化を天麗は求めているのだ。

「今日も、部屋の中は同じだったな」

 そう呟き、姿見の前でリボンを結ぶ。この何の機能性もない癖に無駄に紺色と赤色の二色用意されている飾りにも、もう辟易としていた。中には今日の気分に合わせてそれを選び、楽しんでいる生徒もいるようだが、天麗にはそんな楽しみは不要だった。選ぶのが面倒なので、ずっと赤色のリボンを付けている。勿論、長期休みに入るまで一度も洗濯することはない。

 それだけ鬱陶しいと思っているリボンだが、つけないという選択肢はなかった。何故ならリボンをつけていないという理由だけで、教師という面倒な大人に絡まれてしまうからだ。なんだか自分を押し殺しているような気がして嫌になることもあったが、それよりも、大人と関わらなくて済むことの方が天麗にとっては大事だった。

 天麗が居間に下りると、スーツ姿で慌ただしく朝食の用意をする母親の姿が目に入った。天麗の存在に気付くことなく、ただ与えられた作業をこなすかの如く、食卓の上に料理の乗ったお皿を並べていく。

「おはよう。お母さん、もういいよ」

「あ、天麗、いつの間に。そう? それじゃあ、もう行くね」

 そう言って、母親は玄関を出た。母親の背中を見送ると、天麗は朝食を口に運ぶ。相変わらず薄味で、素材をそのまま食べているんじゃないかと思えてくる。

 しかし天麗がなにより嫌なのは、味のしない朝食ではなく、朝食を食べるために座ると視界の端に映る父親の遺影だ。天麗が生まれた時には父親は死んでいたので、天麗は写真以外で父親のことを見たことがない。だから遺影を見ても、悲しみや懐かしさなどは一切感じられなかった。天麗が感じるのは、もっと別の感情である。

「なんでお母さんは、お父さんがいないのに私なんて生んだんだろう」

 父親がいないと分かっていながら、人生において何かと苦労をかけると分かっておきながら、なぜ母親は自分を生んだのか。それは、父親が生きた証をこの世に残したいという自己満足でしかなかったのではないか。大人というのは、なんと身勝手な生き物だろうか。大人は自分の利益のためなら、他人の人生を踏みにじれる。大人とは、どこまでも自己中心的で、道徳心や倫理観という人間を人間足らしめるものを捨て去った存在なのだ。

 そう思っている天麗にとって、潜入捜査中の的場はかっこうの復讐相手だった。自分の正体を隠さなければいけない的場は、こちらが適当についた噓に巻き込んでも、容易に跳ね除けることができない。だから適当な理由をつけて振り回し、居なくなるその日まで困らせ続けてやろうという算段だ。今日はどうやって困らせようか。それを考えると、退屈な学校へ向かう足取りも軽くなった。

 そうして天麗が軽い足取りのまま教室に入ると、時間割の前で呆然と立ち尽くす的場の姿があった。顔面蒼白とはこの時のために使うのだと思えるほどに顔色の悪い的場からは、哀愁などという言葉では足りない何かが漂ってくる。嫌な予感がした。

「まさか、事件でもあったの」

 そう声をかけると、的場はゆっくりとこちらを向いて答えた。

「……いや、まだだ。今日、これから起こるんだ」

「どういうこと? 分かっているなら、今のうちに防げばいいじゃない。私も協力するから」

「駄目だ、防げない」

「なに諦めてるのよ。あなたが諦めたら、誰が犯人を――」

「時間割を変えることなんて、できない」

 的場が目に涙を溜めてそう訴えてきたが、天麗には意味が分からなかった。意味は分からなかったが、とりあえず警戒はしておいた。普段人通りの少ない場所にもわざと立ち寄り、不穏な行動をしている人間がいないか確認した。

 しかし時間が進んで六限目の時間がやってくると、それらの行動が無駄だったとようやく理解した。六限目は世界史、綾子が実習のために担当している授業だ。的場は、この気まずい時間を事件と表現したのだ。自分の立場を考えずに発言して無駄な危機感を煽ってきた的場に対して、天麗は苛立ちを覚えた。

「それでは、日直は号令をかけてください」

 綾子がそう言うと、的場が所々声を裏返しながら、号令をかけた。天麗は隣の席で、笑いを堪えるのに必死だった。なるほど、これほどまでに緊張するのなら、確かに事件と表現したくなる気持ちも分かる。

「それじゃあ、今日は第二次世界大戦時のイギリスの動きに関して勉強していきます。ところで、誰かイギリスの正式名称を言える人はいますか」

 授業が始まってすぐ、綾子がそう言い始めた。数人の生徒が手を挙げるが、綾子は誰も指名しようとしない。教卓に両手をつき、ただ一点をじっと見ている。

「……天麗」

「あら、そっちから話しかけてくるなんて珍しい」

「綾子が、真っ直ぐこっちを見ているような気がするんだが、気のせいだよな」

「気のせいじゃないね。明らかにあなたの方向いてるし、どう考えても答えろっていう圧力をかけてきてるよね。まあ、あなたも一応地理の先生なんでしょ。サクッと答えたら?」

「……」

「まさか、分からないなんてことないよね」

「そのまさかだ。だから頼む、ヒントをくれ。あと少しで思い出せそうなんだ」

 そうして二人がこそこそ話していると、綾子が突然大きな声で二人の私語を注意した。

「そこ、なに話してるの。どうやら、答えたくて仕方ないみたいね。じゃあ、市場さん。答えてください。イギリスの正式名称はなんですか」

「えっと、その、あの」

 的場は両手を揉みながら、視線をあちらこちらへと向けている。どうやら、本当に答えが分からないらしい。天麗は小さく溜息をつき、ノートの端を千切って作った小さなメモ用紙を、的場に見えるように机の端に置いた。万が一綾子に見つかってもいいように、最低限のヒントを書いて。


『ぐ○○および○○連合王国』


 それを見た的場は、しばらく頭を掻きむしりながら考え、やがて目を大きく見開いて答えた。

「群馬県及び栃木茨城連合王国」

「はい、北関東三県を勝手に独立させないでください。ふざけるなら、今すぐ教室から出て行って」

「すいませんでした」

「じゃあ、遠坂さん。答えて」

「はい。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国です」

「はい、その通りです。市場國人さん、分かりましたか。よく覚えておいてください」

 教室は笑いに包まれ、天麗もそれに紛れて大いに笑い声をあげた。無駄に危機感を煽って時間を浪費させた罰が下ったのだと思うと、その後の授業は楽しくて仕方なく、天麗は普段と違って一睡もすることはなかった。

 対照的に、隣の赤っ恥男は、授業が終わるまで机に伏せて動かなかった。


 そして放課後。暗いままの的場を連れて、天麗は陸上部の練習へとやってきた。的場を引きずるのに手こずったため、十分ほど遅れての参加だ。どうやら、また内周を走っているらしい。今日はいつもの場所に、天津川と小夏の姿がない。

 どうしたものかと思っていると、強烈な臭いが天麗の鼻を突いた。これは昨日嗅いだ覚えのある、波風の香水の匂いだ。そう思っていると、背後から臭いの発生源の声が聞こえてきた。

「おい市場。お前、部活に入ったばかりなのに遅刻なんてなめてんのか。それに、体調管理カードはどうした」

 部長だからか、はたまた逆恨みか。とにかくすごい剣幕で、波風は的場ににじり寄った。天麗には、一瞥もくれることはなかった。

「まあまあ、そんなに怒らなくてもいいじゃないか。まだこの学校に慣れないことだってあるだろうから、気楽に見守ってやろうよ。それに、カードもまだ市場くんには渡してないよ」

「そうだよ。市場くんに学年一のモテ男の称号を奪われたからって、八つ当たりしないの」

 波風への対応に天麗が困っていると、校舎から姿を現した陸上部顧問である天津川栄作とマネージャーの北風小夏が助け舟を出してくれた。顧問相手だと分が悪いと感じたのか、波風は早々に立ち去り、練習に戻った。

「ありがとう小夏、助かったよ」

「いいのいいの。天麗は私の親友なんだから、その彼氏である市場くんも私の大切な人。助けてあげないとね」

 そう言って、小夏は満面の笑みを見せた。

 天麗にとって、小夏はほとんどのことを本音で話せる貴重な相手だった。秘密が全く無いわけではないが、この学校で一番信頼できる人間は誰かと問われたら、小夏だと答えるだろうと思うほどの仲だった。

「天津川先生も、ありがとうございました」

「ああ、生徒を守るのは当然の役目だからね」

「ところで、さっき波風が言っていた体調管理カードって何ですか」

「ああ、この部活の伝統だよ。部員は毎朝体重や体温なんかを測って、記録を残しておくんだ。常にベストを維持できてるか調べるためにね。波風なんて、その日の体脂肪率まで熱心に図っているよ。あいつ、ああ見えてもストイックだからね」

 天津川が波風を認めるような発言したその瞬間、的場が突如頭をはね上げ、唸り声を上げた後に大きな声でこんな独り言を言った。

「あ、思い出した。ユナイテッド・ステーツオブ・アメリカだ」

「アメリカって言ってんじゃねえか」

 突然意味不明なことを口走った的場に対し、天麗は思わず強烈なツッコミを入れてしまった。そのせいで的場は再び落ち込み、結局部活動が終わるまで動くことができなかった。

 下校の時間を告げるチャイムが鳴ると、天津川が部員を集合させて解散の合図を出した。皆、思い思いに帰り支度や友達との歓談を楽しんでいる。天津川はそれをしばらく笑顔で見守った後、早く帰るんだぞと言い残して校舎の中に姿を消した。

 天麗は的場と共に帰ろうかと思いその姿を探したが、既に帰った後なのか、どこにも姿が無かった。そのため小夏と少し話してから帰ろうと思い立ち、小夏の方に駆けていった。どうやら、今は波風と話しているようだ。近づいた時、僅かに会話が聞こえた。

「おい、小夏。お前、明日の予定空けとけよ」

「え、それは、その、あの……」

「黙れ。お前に拒否権はない。マネージャーなんだから、俺のサポートをしっかりしろ。いいな」

「……じゃあ、一限目にあの場所で」

 二人のやり取りはそこで終わったようで、波風はさっさと鞄を背負うと、グラウンドの方へ向かった。他の部活の友達と帰るようだ。

 波風を見送った天麗は、すぐに駆け寄って小夏に話しかけたようとした。しかし、その時の小夏の様子がおかしく、話しかけるのを躊躇してしまった。小夏からも見える範囲に立ち止まっているはずなのに、天麗に気付く様子はまるでない。

 小夏は全身の筋肉を強張らせて小刻みに震え、グラウンドの方を睨みつけていた。その目には、激しい憎悪を滾らせて。

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