第2話 水中の奇術
的場に呼び出されたプールサイドで、何もないはずのプールから突如として人形が飛び出すという光景を見せられた。その場にいた誰もが絶句し、何も言葉を発することができなかった。
「これが、あの事件の時に行われたことです。そして田辺先生、あなたが見逃したものです」
的場の言葉を聞き、田辺はプールサイドに座り込んだ。
「これは驚きましたね。でも、一体何処にこんなものが隠してあったのでしょうか」
稲森が尋ねると、的場は静かに語り始めた。
「プールサイドからでは、飛び込み台や内壁などが邪魔になって、壁際の底部分が見えない。そこに遺体を沈めておき、時間が来たら自動的に浮かび上がるようにしておけば、遺体を発見するタイミングを操作することができます」
「でも、一体どうしたらそんなことが可能になるのですか」
「今ならまだ、プールの底を覗き込めば証拠が残っていますよ」
的場がそう言うと、稲森はプールの底を覗き込んだ。
「あれは……塩素?」
「そう。自分も実物を見るまで知らなかったのですが、このプールで使用する塩素剤というのは、固形の錠剤なんですね。それも、一錠に付き二○○gも重さがあり、密度もあるため水に入れると沈む。犯人は、これを利用したんですよ」
的場が目で合図を送ると、莉子が女子更衣室の中からもう一体の人形を持ってきた。人形にはいくらかの重りが付けられ、頭には紐が繋がれており、この学校の制服が着せられている。
「この人形は重りなどを使って、事件当時の波風くんの状態を忠実に再現してあります。それでは、まずはこのまま水に入れてみましょう」
的場はそう言うと、頭に繋がれた紐を持ちながら人形をプールの中に放り投げた。人形は水に落ちた衝撃で軽く沈んだ後、すぐに水面へと浮かんできた。
「人体の構造上、筋肉は水に沈んで、贅肉は水に浮かぶと言われています。波風くんは陸上のために体を絞り、体脂肪率は一桁でした。つまり、水に沈みやすい体だと言えます。それでも、こうして水に浮かびます。これは肺の中や制服の中に溜まった空気等が、この体を浮かび上がらせるだけの浮力を生み出しているからです」
そう言うと的場は、握っていた紐を手繰り寄せて人形を引き上げた。そして莉子と手分けして、制服のポケットやシャツの内側などに塩素剤を入れていく。
「次に、こうして制服の内側に塩素剤を入れてから水に入れてみます」
そうして的場によって再び投げ込まれた人形は、水の中へとゆっくり沈んでいった。投げ込まれた衝撃でいくつかの塩素剤が水中に飛び出していたが、それでも問題ないようだ。
「この通り、沈みました。今は全員がプールの中を覗き込んでいるから人形のことが見えますが、少し引いて見るだけで飛び込み台等の影に隠れ、見えなくなります。後は時間が経てば塩素剤が水に溶けて軽くなり、その内遺体が浮かび上がってくるというわけです。そう、あんな風にね」
的場が指さしたその先には、プールの真ん中でプカプカと浮かぶ、最初に水中から飛び出してその場にいた全員を驚かせた人形があった。
「よくこんなトリックに気が付きましたね」
「稲森先生と緑山先生のおかげですよ」
「私が?」
「はい。稲森先生は、中山くんと一緒にプールへ塩素を運ぶようにと言ってくれましたね。あの時にその重量を体感したことで、このトリックに気付くきっかけになりました。それに、緑山先生にはもっと大事な矛盾点があることを気付かせてくれたんです」
そう言って的場は、静子の方へ目を向けた。全員の注目を集めた静子は、素早く顔を伏せたかと思うと、稲森に対して謝罪の言葉を述べた。
「稲森先生、本当にすいません。私、てっきり稲森先生が犯人だとばかり思っていました。でも、それを言う勇気はなかった。だから、的場さんに気付いてもらうよう誘導したんです」
「一体、何をどうやって」
稲森は静子に尋ねたが、静子は顔を伏せたまま答えようとしなかった。そこで的場が咳払いをして全員の注目を集めてから、続きを話し始めた。
「緑山先生は、僕に塩素の補充手順を見せてくれました。その時、塩素自動注入機の中を覗くように言ったんです。覗いてみるとそこには白い泡のようなものがあって、その前に入れた塩素の溶け残りであることを教えてくれました。その時、ピンときたんです。
もし本当に稲森先生が一時間目に塩素を補充した後に田辺先生が来たのなら、塩素自動注入機の中は塩素の溶け残りで一杯だったはずです。いくら連絡をもらってなくても、実際に塩素が入っているのを見れば、田辺先生も新たな塩素を入れたりはしないでしょう。これこそが、連絡の行き違いよりも遥かに重要な矛盾点だったというわけです」
「田辺先生が塩素を入れたということ自体が、一時間目に正常な塩素補充が行われなかった証拠というわけですか」
稲森が何度も頷きながらそう言うと、座り込んでいた田辺が突然立ち上がった。
「そうだ、よく考えてみればそんなに単純な話だったのか。つまり、犯人は稲森先生ということだな。そして俺に罪を被せるために、塩素補充が終わったことを伝えたと嘘をついた。そういうことだろう」
「いえ、違います」
「じゃあ、どうして俺に連絡が来なかったんだ」
「緑山先生は、塩素補充後に必ず水温計を確認します。水温計はプールに下りるための梯子部分にあるため、その角度からなら、簡単に沈められた遺体が発見されてしまう。それは避けなければいけない。でも、このトリックでは通常よりも多くの塩素を使用します。だから警察が調べた時に、その塩素濃度に説明が付くようにしておく必要があった。そのために、あなたは利用されたんですよ」
「塩素が通常より多いのは、連絡ミスで二人が塩素を入れたからってことにしたわけか」
田辺が状況を整理して冷静にそう言うと、的場は静かに頷いた。先ほどまでとは違い、田辺はかなり冷静さを取り戻しているように見えた。
「でも、犯人は何のためにこんなことしたんだ」
「アリバイ工作ですよ。犯人は遺体を隠すだけじゃなく、もう一つの工作を行いました。それがプールサイドに放置してあったブルーシートです。おそらく犯人はあの上に氷を置いて重りにし、五限目のタイミングで氷が溶けて、ブルーシートが風になびいて、赤外線センサーに反応するようにしたんです。そうして遺体発見の時間をコントロールすることで、アリバイを作った。ですから、五限目の時間に授業が無く、アリバイの立証が困難な水泳部の顧問三人は犯人ではありません」
的場がそう言い切ると、水泳部の顧問たちは安堵の溜息をついた。
一番疑われる立場でずっと過ごしてきたのだから、そのストレスは想像に難くない。むしろ、よくここまで耐えられたものだ――と、的場は三人に尊敬の念を抱きながら、話を続けた。
「当初この事件では、犯人に辿り着くための情報がほとんどありませんでした。だからここで犯行が止まっていれば、犯人は簡単に逃げおおせたかもしれない。でも、二件目は違いました。二件目の殺人事件で、犯人はあまりに杜撰な犯行を行った。次は二件の殺人事件について考え、そのまま犯人を明らかにしたいと思います」
的場は力強くそう言い、全員の反応を観察した。激しく動揺する者、話がまどろっこしくてイライラを募らせている者等反応は様々であるが、的場が犯人だと確信しているその者だけは、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
それは、覚悟の決まった目であった。
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