第7話 望まれなかった結末

「天津川先生、ここを開けてください」

 閉ざされた音楽室の扉に向かって、的場が叫ぶ。その扉は中にいる天津川の影をただ写すばかりで、動こうとしない。

 沈黙。天津川からの返答はない。

 そこに、一縷の望みをかけて職員室へ鍵を取りに行っていた秋穂が戻ってきた。

「鍵はあったか」

「駄目。やっぱり、天津川先生が中に持って入ってるみたい」

「くそっ」

 地団太を踏む的場。合鍵は的場が鑑識への鑑定依頼に出していたため、今学校には無い。そちらも波佐間と莉子の二人が急いで取りに向かっているが、事態は一刻を争う状況だ。おそらく、間に合わないだろう。

 的場はその歯痒さを拳に込め、今度は力一杯音楽室の扉を叩きつけた。扉は大きく音を立てて揺れたが、それ以上の反応はない。しかし的場は、何度も何度も叩きつけた。無駄の行為だとは分かっている。ただ、それ以外にどうすることもできなかったのだ。

「天津川先生、頼みます。ここを開けてください。あなたに死なれてしまったら俺は……俺は……」

「断る。そこを開ければ、私のしてきたことがなにもかも、すべて無駄になってしまう。的場先生、あなただってそれを分かっているんでしょう」

「そうだとしても、こんな誰も望んでいない結末じゃ駄目だ。天津川先生、僕がここに赴任してきたばかりの時によく言っていたじゃないですか。生徒を笑顔にするために身を粉にするのが、教師の仕事だって」

「ああ、言ったな」

「あれは、噓だったんですか」

「いや、嘘じゃない。今でもそう思っている。だから、俺は――」

「あんたが死んで、誰が笑顔になるんだよ! 今が最後のチャンスなんだ、もう一回冷静に考えてみろ。今、ここで、あんたが死んで……誰が笑ってこの先の人生を歩めるんだよ」

 的場の声は、震えていた。

 そんな的場の頭の中に、また声が響く。五年前から的場の心を追い詰め続けた、あの声が。


 目の前に消えそうな命がありながら、またお前は何もできないのか。五年前と同じように、またお前が手をこまねいている間に大切な人が死ぬのか。そもそも、今回だってお前のせいで天津川先生は死のうとしているんじゃないのか。お前が妙な正義感と発動させてその動機を暴こうとしなければ、天津川先生は大人しく警察に逮捕されていたんじゃないのか。

 波佐間に向かって手を差し出した時、どうして止めた。まさか、真実を秋かにするのが警察の役目だとでも言う気か? 違うよな。それなら天津川先生が逮捕されてから、じっくり真相究明すればよかった。でも、お前はそうしなかった。何故だ?

 それは、皆から尊敬の目で見られたかったからだ。失った綾子からの信用を、他の全員の信用を、取り戻したいと願ったからだ。お前はいつもそうだ。お前は自分のことしか考えない。そうして周りを巻き込み、近くにいる人間を巻き添えにする。本当に死ぬべきは天津川先生じゃない。

 お前だ。


 その声は、再び的場の心を崖の淵へ追い詰めた。今にもそこから飛び降り、なにもかも終わらせてしまいたい気分にさせられた。

 そんなことを考えてしまったからだろうか、音楽室の扉を叩く的場の手が止まった。今の自分には、死んですべてを終わらせたいと願う天津川の考えが理解できる。そして、その願いを叶えさせてあげたいとすら思い始めていた。

「的場先生、これは誰も望んでいない結末ではありませんよ」

 音楽室の中から、天津川の優しい声が聞こえてくる。それが荒んだ的場の心に、染み入るように響いた。

「これは、私が最初から望んでいた結末ですよ。このまま、すべてを私の死で終わらせる。それでいいんです。それを、私が選んだんです。だから、的場先生――」

 そこで天津川は、言葉に詰まった。息を吞み、目の辺りを拭うような仕草を見せ、再度力強く、しかしどこか震えるような声で語りかけた。

「的場先生にも、協力してほしい……私の願いを、叶えられるように、力を貸してください」

 的場の心の中に、迷いが生じる。天津川をプールへ呼びだした時には答えが出ていたはずなのに、再び同じ問題に悩んでいた。


 ――誰かを守るために隠すことを望まれた真実を明らかにすることは、正しいのか――

 

 一度は、正しいと答えを出した。だが、今になって的場は再び迷っている。あの声のせいだ。あの声さえ聞こえなければ、最後まで迷わずに前に進むことができたのに。

 そう思う的場だったが、もう遅かった。

 既に生じた迷いによって、的場の正常な判断能力は奪われていた。五年前と同じように、また最悪な結末を招こうとしていた。

「分かりまし――」

 的場が天津川からの提案を了承しようとしたその時、背後からけたたましい足音が聞こえてきた。その足音の主は音楽室の前に陣取っていた的場を押しのけ、その扉を強く叩きながら天津川に向かって叫んだ。

「死んじゃ駄目。死んじゃ嫌だよ、あっちゃん!」

 小夏の心からの叫びが、校舎の中に木霊する。

「小夏? 小夏なのか。どうして来たんだ。これ以上事件に関わるなと言ったはずだぞ」

「それは、あっちゃんが私を助けてくれると思ったから頷いただけ。でも、あっちゃんがそのために死んじゃうなんて嫌だ。そんなの絶対許さない」

「こうするしかないんだ、分かってくれ」

「……じゃあ、私もこうするしかないね」

 そう言って小夏は、体の向きを的場の方へ変え、握りしめた右手の拳を差し出した。的場は状況を把握し損ねていたが、一先ずその右手の下に両手の平合わせて差し出した。

「待て、小夏。何をする気だ」

「あっちゃん、もう死ななくていいよ」

「駄目だ、小夏。そんなことしちゃ」

 天津川の言葉の途中で、小夏は右手を開いた。的場の手の平に、赤いリボンがひらひらと舞い落ちた。

「私がこのリボンを使って首を絞めて、波風くんを殺しました。天津川先生は、その後に遺体をプールへ運んだだけです。本当の犯行現場は、一階のカウンセリングルームです。多分カウンセリングルームとかこのリボンを調べれば、警察の皆さんなら簡単に証拠を見つけられると思います。動機は――」

 小夏がそこまで言ったところで、的場が話を遮るように首を横に振った。それ以上先は、話さなくてもいい。無言のままそう伝えると、たった今受け取った証拠品であるリボンを、証拠品を保存するための袋へ入れた。

 それを見届けた小夏は両手を的場に向けて差し出したが、的場はその手に手錠をかけることはしなかった。

「私を、逮捕しないんですか」

「勇気をもって自首してきたクラスメイトに手錠をかけるほど、人間性が欠落してるわけじゃないからな」

 的場は微笑んでそう言うと、音楽室の方へ目をやった。

「天津川先生、そういうわけです。もう、あなたが望む結末になることはありません」

「……どうして、どうしてそんなことを……僕は、僕は……」

 音楽室の中から、天津川の弱弱しい声が聞こえてくる。今にも消え入りそうなその声を聞いた小夏は、音楽室の扉に優しく手を添え、怯え悲しむ天津川の心を包み込むように、優しく温かい声で語りかけた。

「あっちゃん、いつも支えてくれてありがとう。あっちゃんがたくさん話を聞いてくれたから……ううん。あっちゃんがいてくれたから、辛い現実を受け入れて生きてくることができたんだよ。私が今生きていられるのは、あっちゃんのおかげ。だから、お願い。あっちゃん、死なないで。あっちゃんが生きてくれてれば、私はこの先も笑顔で生きていけるから。絶対、絶対、自分で人生を投げ出したりしないから」

 天津川からの返答はない。それでも、小夏は語りかけ続ける。

「だから、約束して。あっちゃんも、自分で人生を投げ出さないって。私と一緒に、生きていてくれるって……こんな世界に、私一人置いて行かないでよ」

 小夏の足元から、涙の落ちる音がした。音楽室の中からも、それと似た音が何度も、何度も聞こえてきた。扉の前では甲高い、扉の向こうでは低音のむせび泣く声が聞こえる。

 その二つが共鳴した時、音楽室の扉が開いて、中から天津川が姿を現した。

 天津川は的場の方へ両手を差し出したが、的場はそれに背を向けた。

「私にも、手錠をかけないんですか」

「そうしたいですね。ただ、それよりも重要なことがあります」

「重要なこと?」

「教師の役目が生徒を笑顔にすることなら、クラスメイトの役目は応援することです。たとえそれが、決して叶わぬ恋路だと分かっていても、ね」

 そう言うと的場は、目の辺りを手で擦りながらわざとらしく、「あー、ゴミが目に入ったから何も見えないなー」と言った。それに倣ってから、周囲にいた他の人間も、皆口々にわざとらしい演技を初めて天津川と小夏の二人から目を逸らした。

 廊下の窓から外を眺める的場は、背後から聞こえる、人が抱きつきあっているような物音を極力聞かないように努力した。気配から察するに、他の面々も同じようなこと状況らしい。

 何分経っただろうか。その時間はほんの数分にも思えたし、数時間あったようにも思えた。とにかく気が付くと、的場の視界に階段の踊り場の物陰に隠れて様子を窺う波佐間と莉子の姿があった。

 波佐間は的場と目が合うと、口の動きで今の状況を尋ねてきた。

 だが的場は、波佐間のことを無視して白々しい演技を続けた。

 天津川と小夏の二人が、自発的に的場に声をかける、その時まで。

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