第8話 自分の心に嘘はつけない

 天津川は波佐間と一緒に、小夏は莉子と一緒に警察車両に乗り込み、豊延警察署へ連行されていった。

「小夏、刑務所に入るのかな」

 警察車両を見送りながら、天麗が心配そうに的場へ尋ねた。

 天麗は、自分のした行為が正しかったのかを悩んでいた。天津川が守ろうとした自分にとっても親友である小夏を、殺人犯として逮捕させることが正しかったのかどうか。その答えを、的場に教えてもらいたかった。

「分からない。ただ、動機には同情すべき点がある。後は、その暴行事件が証明されれば」

 そこまで言いかけたところで、的場の携帯が鳴った。的場は言葉を止めて着信に応答し、電話を切った後に、落ち着いて天麗からの質問への回答を続けた。

「今、同僚から電話があった。校長が小夏さんの暴行事件について、本人から相談があったことを認めたらしい」

「じゃあ、校長は全部知ってたんだ」

「ああ、だがそれだけじゃない。校長は、その犯行について証言すると言ってきた生徒に対し、内申書を盾にして口を噤むように脅したらしい」

「なんでそんなこと」

「それは、多分俺のせいだ。五年前の一件で校長は、学校で大きな問題が起こると自分がどれだけ責められるかを、立場が危ぶまれるかを知ってしまった。それを二度と経験したくないと思って、学校での問題を揉み消すようになってしまったんだろう。綾子の一件がうまくいってしまったから、なおさらだろうな」

 的場は、遠い目で空を見つめた。

「……どうなるの、五年前のこと」

「さあな、俺のことはどうなるか分からない」

 天麗の心配もどこ吹く風と言わんばかりに、的場はいい笑顔を見せた。天麗にとっては、的場が心から見せた初めての笑顔のように思えた。

「……事件のことについて、いくつか分からないことがあるんだけど、聞いてもいい?」

「ああ、どうぞ」

「どうして稲森先生は、天津川先生を庇うような嘘をついたの? 共犯だったわけじゃないよね」

「ああ。教員の中には、公務員の裏側を見すぎて敵対意識を持っている人間がいるんだ。稲森はその典型だから、天津川先生に無駄な疑いをかけられないようにしたんだろうね。それに、あんな偽装工作がされているなんて想像もできないだろうから、自分より後に入った田辺先生のことを、本気で犯人だと思っていたのかもしれない」

「なるほどね。じゃあ、次。犯人が天津川先生だって、いつ気付いたの」

「それは二件目の殺人事件が起こってからだな。その証言が矛盾していることは、最初に聞いた時点で気付いていた」

「じゃあ、天津川先生が小夏を庇おうとしていることは?」

「それは犯行について考えていく内に、自ずと分かってきたな。それに、天麗が話してくれたことも、それに気付くきっかけになった」

 天麗は記憶を探るが、的場が言っている発言内容というものに心当たりはなかった。

「私、なんか言ったっけ」

「ああ、波風の一件があった後に校長室の前で会った時、天麗は授業にいなかったという理由で、小夏さんが被害者だと予想した。その時、こう言ったんだ。小夏さんが授業にいないことを、天津川先生も心配してたって」

「それがどうかしたの」

「不自然だと思わないか。小夏さんは、聴覚過敏の症状がある。音楽なんて、最も苦痛に感じる授業だろう。それを抜け出したからといって、天津川先生がそんなに心配すると思うか? カウンセリングルームで休んでいるだけだろう、と考えるのが自然じゃないか」

「言われてみれば、確かに」

「そこで気付いたんだ。あのプールに仕掛けられた偽装工作は、天津川先生と小夏さん、二人のアリバイを同時に証明することが目的だったんだって。更にそれを三年二組の音楽の授業の時間にすることで、アリバイの証人を他ならぬ俺にするつもりだった。すべてがうまく運んでいれば、捜査はもっと難航しただろうな」

 淀みなく答える的場に、天麗は呆気にとられていた。事件発生当初に氷が水に沈むなどと妄言を吐いていた的場の姿は、もうそこに無かった。

「最後に、もう一つ」

「なんだ」

「小夏があっちゃんって呼んでる相手が天津川先生だって、気付いてたよね。どうして?」

「天麗。物事を考える時には、まずは先入観を捨てないといけないんだ」

「先入観なんて持ってない」

「本当か? あだ名は下の名前をモジるものだとか、ちゃん付けだから相手は女性だろうとか、そんなこと考えなかったか」

 的場に図星を突かれた天麗は、ぐうの音も出なかった。

「そんな先入観だらけじゃあ、分かるわけが無いよ。いくら小夏さんが、その先入観が間違っていることを教えてくれてもね」

「先入観が間違っていることを教えてくれた? 小夏が? いつ、どこで」

「はあ。小夏さんは、俺のことをずっとなんて呼んでた」

 そう言われて、天麗は初めて気が付いた。小夏は的場のことを、偽名である市場をモジって『いっくん』と呼んでいたのだ。このことから考えれば、小夏があだ名をつける時に苗字からつけることを予想することができたはずだった。

 ずっと距離が近く、下の名前で呼ばれてきた天麗だからこそ、そのことが盲点になっていた。

「私、親友失格だね」

「そんなことねえよ。ちゃんと、間違った道に進みそうだった小夏さんを止めたじゃないか」

「そうだけど……って、なんでそのこと知ってるの」

「連行される前、小夏さんが言ってたぞ。クラスメイトの役割が応援することなら、私の役割は間違った道に進みそうになっている大切な人を止めることだって。それを、お前に教わったってな」

 顔に血が昇る感覚。天麗は自分の顔が真っ赤になっていると思い、咄嗟に的場から顔を逸らした。

「脅迫状を送った犯人は訊かないんだな」

「それは、分かってるからね」

 天麗がそう言うと、的場は校門へ歩みを進めた。どうやら、歩いて署に戻るらしい。

「じゃあな。もう会うことは無いと思うけど」

 的場は格好つけながら背中越しにそう言い残し、豊延署への道を歩み始めた。しかしその歩みの三歩目で、背後から大きな声で呼び止められた。

「市場様~、何処に行かれますの? この花京院花時雨のこと、忘れないでくださ~い」

「ああ、花京院さん。丁度いいところに。実はお話したいことがあります」

「なんと、告白ですの。そんな、急に困ります。それに、返事は決まっております」

「俺は、市場國人なんて名前じゃありません。本名は的場國彦。三十二歳の警察官です」

「そんな……」

「だから、もう俺のことは忘れて――」

「そんなことはもう関係ありませんの。あなた様のことを思うこの気持ちは、もう止められませんの~!」

 飛びついてきた花京院を華麗に躱し、的場は走り去った。当然、その後を花京院も追う。最後までしまりのつかない的場を見て、天麗は鼻で笑った。

「私のお兄ちゃんのこと、鼻で笑わないでほしいな」

 ふと気づくと、隣には綾子の姿があった。

「綾子さん。あんなことがあったのに、随分と落ち着いているように見えますね」

「そう見えるだけじゃない?」

「……いつか、的場さんから聞いたことがあります。綾子先生のこと」

「……どんなふうに言ってたの」

「綾子先生は、小さい頃に両親が離婚されたそうですね。その頃からお母さんに心配をかけたくないと思って、他人に笑顔しか見せられなくなった。おかげで人気者にはなったけど、誰にも本当の姿を見せられていないんじゃないか。心配だ――って、言ってましたよ」

 天麗が、一緒に帰宅する際に的場から聞いたことをそのまま伝えると、綾子は背を向けた。天麗からは背中しか見えないが、僅かに鼻を啜る音が聞こえた。

「綾子先生。こんなことは子どもの私が言う事じゃないかもしれませんが、泣きたいときは泣いていいと思います」

「あなたに何が分かるの」

「綾子先生が何を思っているのか、それは分かりません。でも、自分の心に噓をつくことがどれだけしんどいことか、短い人生経験の中でも、私は嫌というほど知りました。その理由は、きっと藤浪先生から聞いていると思います」

「でも、私とあなたとでは状況が全く違う」

「はい、状況は全く違います。でも、対応策は一緒でした。心の中で絶対的な悪者を作り上げることで、自分は悪くないと思い込む。自分を正当化する。違いますか? もしそうなら、それでは何も解決しません。それも私が学んだ――いえ、あなたのお兄さんから教えてもらったことです」

 天麗がそう言うと、綾子は大声で泣きながら天麗の胸に飛び込んだ。

「お兄ちゃんのことを悪く思うなんて、本当は嫌だった。でも、でも、そうしないと私は頭がおかしくなりそうだった」

「……脅迫状を送ったのは、綾子先生ですよね」

「そう。でも、こんな悲劇を望んだわけじゃなかった。脅迫状でお兄ちゃんが少しだけ困れば、それだけでよかった」

「教えてくれませんか。どうして、そんなことをしたのか」

「家族ぐるみの付き合いをするうちに、私はお兄ちゃんのことが好きになった。その時はまだ家族じゃなかったから、本気で想いを伝えようとした。でもそんな時、お兄ちゃんが私の学校に来た。教師と生徒の恋愛なんて、許されない。だから私は、卒業するまで待つことにした。でも、あの事件があって、私は記憶を失くした。そして気が付けば、私が大好きな人はお兄ちゃんになっていた。時間も解決してくれない、絶対結ばれない相手になっていた。

 でも! すぐ近くにいるんだよ。手を伸ばせば届く距離にいるんだよ。それなのに、絶対に自分のものにはならない。そんなの、そんなのあんまりだよ。だから、慣れないけど無理やりお兄ちゃんって呼び続けた。そうすれば、恋愛感情も消えるかもしれないと思って。でも、駄目だった。そんなことを続けている内に、私の悩みの種を増やすお兄ちゃんが、段々悪く思えてきたの」

 天麗の胸元を掴む綾子の手に、より一層強い力が籠められる。その後も綾子は何かを言っていたが、感情をむき出しにして喋ることに慣れていないからか、話している内容が支離滅裂で、天麗には理解することができなかった。

 それでも、天麗は綾子のことを離さなかった。強く抱きしめ、すべてを包み込もうとした。

 自分の心に嘘をつくと、その噓を脅かすような事実を、人間は無意識の内に、思い出さないように抑え込んでしまうらしい。的場が自分が不甲斐ないせいで綾子が死んだと思い、その教師時代の記憶や必死になって覚えた知識を、改ざんしたり忘れてしまったように。綾子が、的場と楽しく過ごした時間を思い出さないようにしていたように。天麗にも、忘れていた記憶があった。

 家にマスコミが押し掛け、その不安に押しつぶされそうになった時、「大丈夫だよ」と言って母親に抱きしめられた。母親に抱きしめられると、心の中にあった氷のように固く冷たい不安が、すべて水になって溶け出すかのように、絶対的な安心感が得られた。その安心感を、天麗は体感を伴って思い出すことができた。

 だから天麗は、不安に駆られた綾子の体を抱きしめ続けた。少しでも母親に近づきたい一心で、その手を離さなかった。


(完)

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アラサー刑事、トラウマだらけの母校へ潜入捜査する 佐々木 凛 @Rin_sasaki

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