第2話 五年前の真実

 四限目が始まる前の休憩時間、天麗は再び社会科資料室を訪れていた。ドアをノックすると、中から声が聞こえた。天麗はその人物に用件がある旨を伝えると、扉が開いた。そこに立っていたのは、綾子だった。

「綾子先生、左足は大丈夫ですか」

「左足? どうしてそんなこと訊くの」

「あ、的場さんから聞いたんです。綾子先生は古傷があって、たまに左足が痛むって」

「ああ、そのこと。大丈夫だよ。ところで、藤浪先生に用があるんだよね。中に入っていいってさ。私はしばらく席を外すから、ごゆっくり」

 そう言うと綾子は、足早に走り去った。その軽快な走りからは、足の古傷を想起することができない。天麗はそんな綾子を見送り、ゆっくりと社会科資料室へと入っていった。資料を傷つけないよう慎重に奥に進んでいくと、窓の前に開けた場所があり、正方形のテーブルとパイプ椅子が三脚ほど置かれていた。その内の一脚に、天麗のお目当ての人物である秋穂が腰かけていた。

「まあ、そこにでも座って」

「……授業に行けって、言わないんですね」

「まあ、生徒がやりたいことをやらせてあげるのも、教師の仕事だからね」

 秋穂は、優しく微笑みかけた。その笑顔は慈悲に溢れ、背後の窓から差し込む日光がまるで後光のように輝いていた。

「それで、どんな用」

「……綾子先生に席を外させたんですから、用件も分かっているんじゃないですか」

「……やっぱり、五年前のことね。私と黒井くんが話しているの、聞こえちゃったかしら」

「はい」

「へえ、正直に認めるのね。それで、黒井くんはどこまでを遠坂さんに話したの」

「綾子先生が転落した際、ロープで拘束されていた。そしてそれを証言したが、警察に黙殺された。転落現場には黒井さんの他に、清掃業者二人と同級生の矢島さんという人がいた。それだけです。核心に迫るようなことは、何も」

「そう、そうだったのね。じゃあ、むしろ余計なことを言ったのは私の方だったかもしれないわね」

 秋穂は体を椅子の背もたれに預け、遠い日を懐かしむかのように視線を天井に向けた。それを見た天麗は、近くにあった椅子に腰かけた。これから秋穂が知っていることのすべてが話されるような、そんな気がしたからだ。

「五年前のことが、今回の事件と関係あるの?」

「まだ分かりませんが、私はそう考えています」

「五年前のことで私が知っていることを話さなかったら、また犠牲者が出るのかな」

「分かりません」

 天麗の答えを聞いて、秋穂は顔を両手で覆い隠した。両手の向こうから、荒い息づかいが聞こえる。本気で思い悩み、どうすればいいのかと考えているようだ。

 その息づかいが落ち着いてくると、両手は秋穂の顔から離れ、再びその尊顔が日の目を見た。日の光が、その頬に一筋の輝きを与えていた。その美しさに天麗が見惚れていると、秋穂はゆっくりと口を開いた。

「五年前の転落事故は、それはそれは大きな騒ぎになった。学校内外、すべて含めてね。でも警察が捜査した結果事故だと判断したことで、騒ぎは急速に鎮静化されていった。そんなある日、私と的場くんは校長室に呼びだされた。そこには、矢島くんと黒井くんが既にいたわ。当時私は二人のクラス担任で、的場くんは副担任だった。だから二人が何か問題を起こして、それで呼びだされたんだと思ったわ……でも、違った。そこで私は、的場くんと一緒にあの転落事故の真相を聞くことになったの」

 秋穂から飛び出した思わぬ発言に、天麗の目が点になった。

 事件の真相を聞かされた。それが本当なら、なぜ的場はあんなにも頑なに五年前のことについて触れられることを嫌がるのか。真相を知っている人間が既にいるのに、なぜまだ隠そうとするのか。的場の取っていた行動と秋穂の話に、天麗は矛盾を感じていた。

 でもそのことは一旦忘れ、秋穂の言う五年前の真相というものに一先ず耳を傾けることにした。

「五年前の転落事故は、矢島くんが仕組んだものだったの。矢島くんは学校にこっそりスタンガンを持ち込み、綾子さんをそれで襲った。そして屋上の縁の所へ彼女を放置し、その真下で彼女が落ちてくるのを待った。そういうことだったの」

「え、矢島さんは綾子さんを屋上の縁に放置しただけですか」

「ええ。遠坂さんは入ったことないだろうから知らないと思うけど、この学校は屋上の縁が結構狭いの。だからそんなところで突然目覚めたら、パニックになって転落しても仕方ないってわけ」

「……それで、そのことは警察には」

「言ってない」

「どうしてですか」

「校長がその場にいる全員に、この真相を胸の中に仕舞っておくよう言ったの。転落の一件は既に事故として処理してあるし、綾子さんの記憶喪失もその時には分かっていた。だから、今更この真相を明るみに出したところで、喜ぶ人間は誰もいない。むしろ、屋上の縁に放置しただけで同級生の転落現場を見てしまった矢島くんの人生が、滅茶苦茶になるだけだって、そう言ったのよ」

「そんなのおかしい。そんなのおかしいですよ。どうして、そんな意味不明なことに従ったんですか。加害者が、自分の罪を人生かけて償うのは当然です」

 天麗の熱弁に、秋穂は何度も激しく首を縦に振った。

「そうだよね。私も黒井くんも、同じことを言ったわ。でも、的場くんだけは違った。的場くんは校長の提案に賛成して、矢島くんのことを警察に突き出さなかった。家族ぐるみの付き合いもあって、一番身近なはずの的場くんがそう判断するなら、私たちから何も言う事はない。そう思って、私も校長の提案をのんだ。黒井くんは最後まで反対したけど、的場くんの粘り強い説得に根負けする形で了承した。これで、五年前の一件は闇に葬られた。それから少し経った頃、矢島くんが通り魔事件を起こして逮捕されたってことを聞いた。私が知っているのは、そこまでね」

 秋穂は口を閉ざすと、天麗の方に目を向けた。その目には寂しさや悲しみの色がないまぜになっているようで、うまく感情を読み取ることができなかった。

 気疲れを感じた天麗は、無意識のうちに時計に目を向けていた。いつの間にかチャイムが鳴ったようで、もう四限目は始まっていた。それどころか、授業時間が半分ほど過ぎ去っていた。

「随分、長く話しちゃいましたね。すいません」

「いえ、いずれは誰かに話さなきゃいけないことだったの。それが、あなたでよかったと思ってるわ」

「どうしてですか」

「あなたは、人の悪意の怖さを誰よりも知っている。だから、このことを知っても悪用することがない。的場くんを追い詰めたりもしない。そう、心から思えるから」

 秋穂の目に、涙が滲む。五年前のことについて話すことは、秋穂にとって相当な心理的負担と葛藤を生んだのだろう。それでも、すべて話してくれた。

 それは、今回の事件を食い止めるためだろうか。それとも、生徒である天麗が望んだからだろうか。あるいは、的場のためだろうか。天麗の脳が、またその受け入れがたい事実を力強く拒んでいる。

 大人は、全員自己中心的な生き物だ。忘れたのか。お前のおばあちゃんは身勝手に母親を妊娠させただけじゃなく、多少の金銭と引き換えに家族写真をマスコミにリークしていたんだぞ。お前の母親だって、無駄な裁判を起こして世間の注目を集めた。そのせいでお前は、普通という言葉とは無縁の人生を歩まされたんだ。子どもの頃に、何も話せないお前にカメラやマイクを向けてきたマスコミたちも思い出せ。そう、大人は全員、自分の利益のために行動する。この藤浪先生の行動にも、なにか裏があるに違いない。

 そう、強く叫んでいる。脳が強く叫ぶときは、天麗には心の声が聞こえなくなる。そうなると、途端に目の前にいる人が偽善者に見えてくる。少し前の的場がそうだったし、今の秋穂がそうだった。

「本当に、それ以外何も知らないんですか」

「ええ、これ以上は何も」

「本当は五年前の真実を知っていて、そのことを明るみに出すために今回の事件を起こしたんじゃないんですか」

「天麗さん、落ち着いて。言っていることが滅茶苦茶になってきてるよ。私は今話した通り、五年前の事故は矢島君が仕組んだことだと知っている。でも、それを明らかにすることは止めたの」

「でも今の話では、黒井先生が証言した綾子先生を縛っていたロープというのが説明できません。それとも、その矢島という人が縛ったことも自供したんですか」

「いえ、矢島くんは最後までロープのことを認めなかった。それは黒井くんの見間違いだと、その一点張りだった」

「じゃあ、まだ明らかになっていない真実があるということですよね」

「……何が言いたいの」

 秋穂の言葉に、冷たさが交り始めた。天麗はこれ以上踏み込むと後戻りができないことが分かっていたが、それでも立ち止まることはできなかった。

「藤浪先生は、担任なのに小夏が暴行された一件を知らなかったんですね」

「あら、そんなことあるわけないでしょ。私は北風さん本人から、直接相談を受けたわよ」

 秋穂の言葉を聞き、天麗の中に小夏がカウンセリングルームで話した内容が呼び起こされた。なんでも相談できる相手として名前を上げていた、あっちゃんという人物。それはひょっとしたら、今目の前にいる藤浪秋穂のことかもしれないと思い至ったのだ。

 そしてそれと同時に、波風の訃報を聞いた時の小夏の言葉も思い出された。「あっちゃん……どうして」――この言葉の意味するところは、全く分からなかった。

 しかし、もし小夏が殺害した後にそのことをあっちゃんに相談していたとしたら、小夏があっちゃんの偽装工作について何も知らなかったとしたら、その言葉の意味は次のようになるんじゃないだろうか。

 あっちゃん、どうしてそんなことをしたの。

 もしこれらの仮定が正しかったら、小夏の共犯者はずばり秋穂だということになる。五年来の同僚なら、稲森が庇おうとして偽証する可能性も考えられる。

「――先生が、犯人なんですか」

「……私からは否定しない。でも、天麗さんが一番よく分かってるんじゃないの。私には、波風くんのことをプールに運ぶことができないって」

 秋穂は笑顔でそう言った後、立ち上がって扉の前に行き、天麗に資料室を出るよう促した。天麗は口を閉ざし、その促しに応じて社会科資料室を退室した。

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