第3話 筋肉男とやってきた手がかり
昼休み。現実逃避のためにすべての授業に参加していた的場だったが、天麗が授業中に姿を消す度、拭いきれない不安感が襲ってきていた。このまま教室にいると、天麗から五年前のことを追及されかねない。そう思って的場は、昼休みが始まると同時に教室を飛び出し、レンガ通りを歩いていた。
かといって、これといった当てもない。早急に波風の件を解決させたいとは思っているが、何から手をつけたらいいのか、まるで分からなかった。
「どうしろって言うんだよ」
的場は、苦し紛れにそう言って小石を蹴り飛ばした。小石はカラカラと乾いた音を立て、アスファルト舗装の道の方へ転がっていった。そんな小石を見送って、的場は溜息をついて地面に座り込んだ。
五年前のことが事件に関係しているのなら、そのことを知っている人間が犯人である可能性が高い。つまり、容疑者は自ずと絞られてくる。最初から的場の正体を知っている、天麗を除いた六人である。その内、記憶喪失の綾子は除いても大丈夫だろうと考えると五人にまで絞り込める。
その中でもいま最も怪しいのは、、間違いなく稲森であろう。波風の遺体が遺棄されたプールに自由に出入りすることができ、明らかに何かを話すことを躊躇っている。それに当初は小夏の復讐が動機だと思われていたから、人のために行動を起こすことなど考えられない稲森の性格と矛盾しているように思えたが、五年前の真実を自力で暴こうとしているとしたら話は別だ。
しかし、稲森が犯人だとするとまだ謎が残る。それは、その後にプールに入った田上は、なぜ遺体に気付かなかったのかということだ。田上も共犯者なのか、あるいは稲森が何らかのトリックを使ったのだろうか。どちらにしても、まだ答えは見えなかった。
「あれ、市場さん。こんなところで何をしているんですか」
久しぶりに偽名の方で呼ばれた気がしたので、的場は一瞬遅れてから顔を上げた。そこには、いつかの果たし状をよこした中山の姿があった。
「ああ、中山くん。こんなところで何してるの」
「市場くん、いけませんね、それは。質問に質問で返してはいけません。私が、先に質問しているんです。さあ、答えてもらいましょう。市場くん、あなたはこんなところで落ち込んで、一体何があったんだい」
中山の暑苦しい話し方に、的場は少しうんざりした。
こちらはそれどころではないのだ。無理して潜入捜査したうえで一人の生徒が殺害され、挙句の果てに探られたくない腹の中まで探られているのである。気が気ではない。
それが的場の本音だったが、当然中山には言えるまでもなく、成績などの心配で適当にやり過ごすした。
「なるほど、成績が心配なのか。それじゃあ、そんな君に、僕が助け舟を出してあげよう」
「助け舟? 中山くん、勉強がすごい得意だったりするの」
「いや、僕は筋肉以外のことは分からない」
「だろうね」
「それでも、成績の心配を少しでも減らす方法なら知っているよ。さあ、僕についてきてくれ」
そう言って中山は、背中越しに的場へ手招きしながら歩き始めた。行く当てもなかった的場は、一先ず中山についていくことにした。しばらく歩くと、校門のすぐ近くにある駐車場に辿り着いた。そこには、稲森の姿があった。
「稲森先生、市場くんも運ぶのを手伝ってくれるようです。彼にも、どうか内申点を渡してあげてください。よろしくお願いいたします」
中山は大きな声ではきはきとそう言うと、深々と頭を下げた。どうやら中山の言う成績の心配を減らす方法とは、教師の雑用を手伝うことで内申を稼ぐという方法だったようだ。
的場は中山の脇を抜けて稲森に近づき、耳元で話しかけた。
「なにしてるんだ」
「プールに使う塩素剤が届いたから、こうして受け取りのサインをしに来ただけだ」
「お前が部活動関係の仕事をしているのなんて、初めて見た」
「私だって不本意ですよ。でも、顧問の中では私が一番ベテランですから、予算管理くらいはしておかないと立つ瀬がありませんから。ところで、いつのまに中山くんと仲良くなったんですか」
「まあ、色々あったんだ」
「……あまり深堀はしないでおきます。まあ、手伝ってくれるというのなら、これ以上話すことはありませんね。これ、倉庫の鍵です」
「俺に貸していいのか」
「中山くんにも貸すことがありますから、まあ、あなたなら大丈夫でしょう」
そう言うと稲森は、ポケットから鍵の束を取り出して的場に手渡し、配達業者に頭を下げて校舎の中に姿を消した。
「いや、君たちも大変だね。あの稲森って先生、人遣い荒いでしょ。重いけど、頑張って運んでね」
配達業者はそう言いながら、ミニバンの中から段ボールを次々と出してくる。多い。段ボールの数は二十はあろうかというほどで、それぞれが二十キロの重さを有している。総勢四百キロ。これを今から、校舎を挟んで反対側にあるプールまで、二人の人力で運ぼうというのだ。
「無茶じゃないか」
「市場くん、何を言っているんだ。君にだって、その恵まれた肉体があるじゃないか。さあ、これから楽しい楽しい筋トレの時間だ。早く運ばないと、昼休みが終わっちゃうよ」
何故何をするかも聞かずについてきてしまったのか。的場が後悔していると、その横を中山が、箱を二つ抱えたうえで軽快に走って通り抜けた。的場は溜息をついた後、箱を三つ抱えて走り、レンガ通りで中山を華麗に追い抜いた。
最初は的場が先にプールへと辿り着き、次は中山が先にプールへ辿り着いた。抜きつ抜かれつのデッドヒート。いつの間にか運ぶことなどできないと思っていた段ボールは消え失せ、後は二人が抱える分だけとなった。
「市場くん、これで決着をつけよう。勝った方が、天麗さんにふさわしい男だ」
「お前、まだ諦めてなかったのか」
「ああ、あれから僕は、さらに努力した。この肉体を鍛え上げ、君に負けないように短距離走まで鍛えた。でも、今度はその努力が認められるべきだというつもりはない。今から君に、ここで気味に認めさせてやるんだ」
「はあ。まあ、勝負だって言うからには負けられない。俺が勝たせてもらうぞ」
箱を二つずつ抱えた二人は、昼休み終了の五分前を告げる予鈴と同時に、全力で走り出した。四十キロを抱えての全力疾走。それも、既に数本走った後である。的場の体力は、とうに限界を迎えていた。しかし、なぜか的場は走れた。なぜか、中山に負けてはいけない気がした。
そんな気持ちが、勝ちを急いだのだろうか。的場はレンガ通りからアスファルト舗装の道に移行するその曲がり角で、砂利に足を取られて転んでしまった。段ボールを抱えていたために受け身も間に合わず、様々な場所に擦り傷を作った。当然段ボールも投げ捨てられる形となり、その中身を道幅一杯にぶちまけた。
「市場くん、大丈夫かい」
そんな様子を見た中山が、踵を返して引き返してきた。勝負を捨て、負傷しているとはいえ敵である的場を助けに来た。
そんな中山の姿を見て、的場に久しぶりの感情が芽生えた。それは生徒の成長を感じる度に教師が感じる喜びであったし、また人間を賛美する心でもあった。的場の中に改めて、人間は変われるからこそ素晴らしいのだという思いが芽生えた。
それと同時に、人にばかり成長や変化を求めて、自分はなにも変化していないということに気付かされた。いつまでも五年前のことを引きずり、今目の前で起きていることに集中できていない。的場はずっと、五年前のあの日から同じものを見て生きてきたのだ。視点も変えず、立ち位置も変えず、ただ万華鏡を回して景色を変え、自分が移動しているように錯覚していただけだったのだ。
「大丈夫かい。どこか怪我は……ああ、大変だ。膝を擦り剥いているじゃないか。保健室に行こう」
的場が思考の世界に意識を奪われていると、いつのまにか近くに駆け寄ってきた中山が、その右肩を貸してきた。逞しい体つきだ。安心して、体を預けることができる。
「中山くん、思っていた以上に凄い体をしているんだね。これなら、水泳部で部長をしているのも納得だ。百メートルの自由形のタイムは、一体何秒なんだ」
「ああ、できればタイムは訊かないでほしいな。一応、水泳部では一番遅い方なんだ。この数か月で水泳を始めたっていう一年生にも、この前五メートルくらい差をつけられて負けちゃってね」
「へえ、意外だな。どうして」
「どうしてもなにも、僕は筋肉以外のことは分からないからね。でも、ある日田上先生が教えてくれたんだ。人間の体の中で、筋肉はかなり重いものらしいんだ。つまり、それがたくさんついているというのは重りをつけているのと変わらないから、水の中に沈んで進みにくくなるんだ」
「そうなんだ。それじゃあ、太っている人も水泳においては不利なんだな」
「いや、それはそうでもないんだ。体脂肪というのは、どちらかという軽いものらしくて、水に浮かぶらしいんだ。だから体脂肪がたくさんあるということは、浮き輪をつけているのと同じこと。うまく使えば、早く泳ぐのに有利になるんだ」
中山の話を興味深く聞いていた的場だったが、ふとその足を止めた。
「どうしたんだい、市場くん」
「中山くん、悪いけど先に戻っていてくれないか」
「え、どうしたんだい」
「ちょっと用ができたんだ」
「それなら、僕も手伝うよ。それに、まずは保健室に行くべきだ」
その時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。中山は強引に的場を保健室に連れて行こうとしたが、的場はそれを断って中山だけを教室に返した。
的場の頭の中に、一つの考えが閃いた。この方法であれば、田上がプールに入った時に波風の遺体に気付かせないことができるかもしれない。ただそれが本当に可能なのか、また実行するうえで障壁はないのか。それが的場には分からなかった。
その時、校舎の方から水泳部顧問の緑山静子が顔を出した。どうやら道一面に広がる塩素剤を見て、何者かの悪戯かと焦って飛び出してきたらしい。そんな静子に的場は事情を説明し、最後に一つ頼みごとをした。
「緑山先生、今から実際にプールの塩素を補充するところを見せてくれませんか」
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