第4話 アラサー刑事、社会見学する

 道一杯に広がった塩素剤の片づけが終わった頃、静子がプールの鍵を持って校舎から出てきた。

「お待たせしました。さあ、プールに行きましょうか」

「無理を言ってしまって、申し訳ありません。先ほど言っていた用事の方は大丈夫ですか」

「ええ、一階の倉庫に古いディーゼルを置きに行っただけですから。気にしないでください」

「そうですか、ではお言葉に甘えて」

 そう言うと二人は、静子を先頭にプールへ向かった。倉庫に続く鍵を開け、倉庫内の壁面についている機械にカードキーをかざす。ピッという甲高い音が鳴ったら、今度は倉庫からプールサイトに繋がるドアの鍵を開ける。これでようやく、赤外線センサーを気にすることなくプールの下へ辿り着くことができる。

「なんだか、面倒に思えますね」

「そうですか? 私はもう慣れてしまったので何とも。それに、こうでもしないと、きっともっと多くの事故がプールで起こっていますよ。それを考えれば、この面倒さも仕方がないことだと思えてきます」

「そういうものですか」

 的場は三歩ほど進み、プールサイドに立ってみた。視界一面に広がる水面が、太陽の光を受けてキラキラと輝きながら揺れている。まるで水面全体が一つの生き物かのように一様に同じ方向へ動き、そのたびに見せる表情を変えている。その上に浮かんでいる七本のコースロープをもまた、カラフルで良い色合いを足しているように感じられた。

「きれいだ」

「あら、羨ましい」

「え、どうしてですか」

「私は美術の先生だというのに、もうこの風景に見慣れてしまった。だから、この瞬間瞬間で姿を変える水面を、美しいものだと捉える心が無くなってしまった。それは、このプールだけじゃない。教師の仕事に忙殺されていく中で、私が世界を捉える目はどんどん曇ってきている。そんな風に思うことがあるんです。だから、この景色を見て素直にその美しさを感じられる、あなたのその心が羨ましいんです」

 静子は的場に向けて微笑んだが、その微笑にはどこか哀愁が漂っているように思えた。的場には、静子の言ったその感覚が少しだけ分かるように思えた。自分も教師になった時、生徒のことを見て羨ましいと思ったことがあったからだ。

 給食の時に残ったデザートをかけたじゃんけんに全力で挑む姿、それに勝って喜びの舞を踊る純粋さ。そしてなにより、生きることを最大限に楽しんでいると感じさせるその笑顔が、的場にとってはなによりも羨ましかった。

 いつからだろう。自分がそんな風に笑えなくなったのは。いつからだろう、自分の身の回りで起こる出来事が、平凡で退屈なものでしかないと考えるようになったのは。いつからだろう、自分が生きる楽しみを見失ったのは。

 そんなことを考える的場の頭には、やはり五年前の綾子の姿がチラついていた。必死に伸ばしても綾子に届かなかったこの右手は、街を歩く時に必ず綾子の手を握るようにしている。もう放さない、もう綾子のことを傷つけない。あの日そう誓った。それから、的場の世界は色を失った。

 それは、綾子を守るためだけに生きているからだと思っていた。でも、それは違った。本当は、自分が綾子のことを屋上から落としたのだと知られたくなかっただけだったのだ。綾子が五年前のことを思い出すことを恐れ、そばから離れることができなかった。綾子が記憶を思い出さないように、自分の罪が暴かれないように。あの日から的場は、過去だけを見て生きてきたのだ。

 目の前にあるものの美しさや、その本当の姿に気付かなかった。そのことに、五年かけてようやく気付いたのだ。

「それじゃあ、こっちに入ってください」

 的場が人生最大の気付きを得た頃、静子が倉庫の隣にあるドアを開けた。建付けが悪いのか、軋むような音を立てて開いたその鉄の扉には、“ポンプ室”と書かれている。静子はゆっくりと中に入り、的場もその後に続いた。

 ポンプ室は掘り下げられているため、プールサイドよりも少しだけ下に床があった。そのため、入り口のすぐ横には階段がある。床には、部屋中に広がる配管やバルブで埋め尽くされていた。またその中でも一際目を引く大きなタンクが、階段を降りて目の前の場所にあった。

「このタンクが、塩素を補充する場所ですか」

「いえ、これは濾過槽です。プールの中の水をこちらに引き込んで、この中にあるフィルターを通してごみをきれいにし、またプールの中に水を戻す役割を持っています。塩素を補充するのは、その下についているこの機械です」

 そう言うと静子は、ポンプ室の中で一際目立つタンクの下に配管で繋げられた、金属製の土台の上にプラスチックを思わせる円柱の蓋が被せられたような機械に手を伸ばした。その土台部分にある青いバルブを捻り、次にその機械から伸びている配管に備え付けられた赤いバルブを捻った。すると、さっきまでお湯が沸いている時のような音を立てていたその機械が、急に静かになった。

「今、何をしたんですか」

「その塩素自動注入機に流れている水を、一時的に止めたんです。他にも配管は繋がっているので、水の循環が完全に止まったわけではありません」

 そう言うと静子は、手慣れた手つきで塩素自動注入機の上部に取り付けられた蓋の固定を外し、その中を覗くように的場に言った。的場が中を覗くと、そこには透き通った水と僅かに残る白い泡があった。

「その泡が、前に入れた塩素です。部活動があっても無くても、プールの水質を管理するためには塩素を入れ続ける必要がありますから。それに七月になると、体育の授業でも使いますからね」

「入れなかったら、どうなるんですか」

「水槽を放置したらどうなるのかと想像すれば、自然と結果は分かるんじゃないですか。それに、誰もが一度は見たことがあるでしょう。魔界にでも通じているんじゃないかと思える、あの真冬のプールを」

 そう言いながら静子は、先ほど的場が片付けてここまで運んできた、一度道に落ちた塩素剤を取り出した。塩素剤はビニールの包装に包まれていたが、静子は難なく手で引き裂き、その中の塩素を塩素自動注入機へ投入した。

「塩素は、どれほどの量を入れるんですか」

「この固形塩素は、一錠あたり二〇〇グラムあります。そしてこの包装の中には、それが十錠、つまり二〇〇〇グラムが入っています。これを、二本入れます」

「え、つまり四キロも入れるってことですか」

「結論としてはそういうことになりますが、これを一気にプールに注ぐわけじゃありません。この自動注入機の中で濾過水に溶かしながら、徐々に徐々にプールの中に入れていくんです。その結果、プールが適正な塩素濃度を保つ時間が長くなるということです」

「これで、どれほどの時間大丈夫なんですか」

「さあ、その時の気象条件なんかによっても大きく変わりますから、なんとも言えません。これで塩素の補充は終わりです」

 そう言うと静子は塩素自動注入機の蓋を閉め、作業前に操作した二本のバルブを元に戻し、再び水を循環させ始めた。自動注入機から、またポコポコという音が聞こえる。

 二人は再び階段を昇り、プールサイドに出た。

「今回はまだ少し時間が早いのでしませんが、通常なら、塩素を補充した後にプールへの注水量を増やします。その方が早く塩素が入り、清潔なプールで部活動ができますから」

 そう言いながら静子はプールの方へ歩みだし、水中の中に下りるための小さな梯子の前にしゃがみ込んだ。そして水中に手を伸ばして何かを引き上げ、それを真剣な表情で見つめている。

「なにを見ているんですか」

「あ、これは水温計です。生徒がプールに入るためには塩素だけじゃなく、水温も大切ですから。文科省が認めている水温の間はできるだけ粘って入らないと、水泳部という名の陸上部になってしまいますからね」

「それも毎回確認するんですか」

「まあ、部活動が始める前は全員見ると思います。でも水温は時間帯によっても大きく変わるから、塩素補充の時に確認するのは私だけでしょうね。ほら、私って心配症なんで」

 二人がそんな微笑ましいやり取りをしている、その時だった。

 畑の方から、野太い男性の悲鳴が聞こえてきた。プールからも軽くなら様子が見えるので、的場は畑の方に目を凝らす。すると、そこには何やら腰を抜かしているような男性とその男性に駆け寄る人影が見えた。その駆け寄る人影の正体は、すぐに分かった。あの上下のセットアップがちぐはぐな服装は、間違いなく天津川である。

「な、なにがあったんでしょうか」

 静子が両手を握り締め、ガタガタと震え始めた。的場は、そんな静子の両肩を抱き、真っ直ぐ目を見つめて言った。

「緑山先生は、職員室に戻ってください。自分は様子を見てきます」

「危険ですよ」

「大丈夫です。この事件、必ず自分が解決します。というより、僕が解決しないといけないんです。ですから、安心して待っていてください」

 静子が静かに頷くのを確認すると、的場はプールサイドを飛び出した。

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