第三章 離れていく二人

第1話 少女は、過去の事件を追跡調査する

 気付くと、一限目の終了を告げるチャイムが鳴った。

的場のことを疑えと囁く脳の声と、信じろという心の声の間に立たされた天麗は、どうすればよいか分からなくなっていた。今の自分は冷静じゃない。そうは分かっているものの、じっとしてはいられなかった。

 そんな状態で歩いていると、廊下の奥に黒井の姿を見つけた。黒井は綾子と同級生なこと、そして昨日の的場戸の不穏なやり取りを考えれば、事故についての詳細を知っている可能性が高い。そう思った天麗は、すぐさまその後ろ姿を追いかけた。

「黒井さん」

「ん、ああ、天麗さん。どうかしたの」

「ちょっと、五年前のことについてお聞きしたいんです。綾子先生の、転落事故について」

「――そういうことなら、ちょっと部屋の中で話そうか」

 そう言うと黒井は天麗に背を向けて階段を昇り、社会科資料室と書かれたプレートのある教室の鍵を開けた。

「本来は教師しか入れない場所だから、このことは内緒にしておいてね」

 そう言うと黒井は教室の方に手を差し出し、天麗に中へ入るよう促した。社会科資料室の中は湿気臭く、薄暗くて不気味な雰囲気が漂っている。規則正しく置かれた鉄製ラックには過去に使われた教科書等の教材が、部屋の隅には大型展示物が無造作に布をかけられて置かれていた。布の上には、定規で容易に測れるのではないかと思えるような埃が積もっている。

 中に入ろうとしたその時、天麗の足がすくんだ。五年前の何らかが今回の事件の動機に繋がっているのだとしたら、そのことを知っている全員が容疑者候補となる。つまり、黒井が殺人犯である可能性もあるのだ。もし黒井が犯人なのだとしたら、こんな人の滅多に来ない部屋で二人きりになっていいのだろうか。

「どうしたの」

 黒井は満面の笑顔のまま、天麗にそう問いかけた。声や顔つきは優しい。だが、何かそこに裏があるような怪しげな雰囲気が漂っていることを、天麗の心が叫んでいた。黒井を信用するな。そんな声が聞こえた気がした。

「黒井さん。ここに入る前に、一つだけ尋ねてもいいですか」

「うん、いいよ」

「五年前の綾子先生転落事故のこと、黒井さんはどう思っていますか」

「それは――」

 そこで、二限目の開始を知らせるチャイムが鳴った。黒井は目線を頻りに動かして天麗に授業へ行くよう促しているようだったが、天麗は黒井を真っ直ぐ見つめた。

「授業、行かないんだ」

「それよりも大事なことが、今はありますから」

「……君、的場先生と随分距離が近いみたいだけど、ひょっとすると今回の事件の捜査に関係していたりするのかな。そして僕に疑いの目を向け、こうして話を聞きにやってきた。だから、僕に背を向けて資料室に入ることを警戒している」

「そうだとしたら、何か不都合でもありますか」

「へえ、否定しないんだ。それなら、僕も正直に話そう」

 そう言うと黒井は、社会科資料室の扉を閉めた。そして鍵をかけた後、天麗の方に正対する。その顔からは、先ほどまでの優しさが消えているように見えた。

「綾子さんが屋上から転落した一件は、警察も調べた上で事故として処理された。でも、あれは事故じゃない。殺人事件だ」

 天麗の目を見据えながら、黒井ははっきりとそう断言した。

突然核心に迫るような証言を得たことで、天麗はむしろ混乱した。黒井がそう確信するような何かがあったのなら、どうして当時の警察は事故だと処理したのだろうか。

「そう思うのなら、どうしてそのことを警察に話さなかったんですか」

「勿論言ったよ。でも、証拠をうまく隠されてしまったみたいでね。僕の証言は信憑性に欠けるって言われて、無かったことにされちゃったよ」

「当時の状況を、詳しく教えてください」

「……俺は当時、サッカー部のキャプテンをしていた。それで練習メニューを聞こうと的場先生のことを探していた矢先、悲鳴を聞いたんだ。そっちに駆けつけてみると、清掃業者がトラックの荷台に集めていた落ち葉の上に、綾子さんが倒れてたんだ。そこには既に、清掃業者の人が二人と俺の同級生だった矢島ってやつがいた。矢島はトラックの荷台に飛び乗って、清掃業者の人達に職員室へ事情を伝えるよう頼んだ。そして俺には、昇降口に設置されたばかりのAEDを取ってくるように言った。俺はその指示に従って、校舎の中を通り抜けるようにして走って昇降口に向かった。その時、確かに見たんだ。綾子さんの胴体を一周する、ロープを」

「ロープ、ですか」

「ああ。そのロープは両手の上を通って縛られていたから、あれじゃあ両手は動かなかったはずだ。つまり、綾子さんをロープで縛り、柵の外に放り出した人間がいるはずなんだ」

 天麗は、頭の中で黒井の証言内容を整理した。

 綾子は屋上から、清掃業者がトラックの荷台に集めていた落ち葉の上に転落した。おそらくは落ち葉がクッションになり、今はほとんど後遺症もなく元気に生活することができているということだろう。

 そしてその時綾子の周りにいたのは、清掃業者の二人と黒井、そして矢島という同級生の合計四人であった。矢島はその場にいた全員に的確に指示を出し、それぞれが現場から離れるように促している。その時黒井は、綾子の両手を胴体に固定するような形で結ばれたロープを見ている。黒井はそのことを警察に証言したが、何者かによってロープを処分されたことで、その証言は黙殺されることになった。

 状況から考えれば、ロープを処分したのは矢島で間違いないだろう。だが矢島は、綾子が転落した時には屋上にいなかった。つまり、綾子のことを転落させた犯人ではない。だとしたら、誰が綾子を屋上から転落させたのか。そして矢島は、なぜそのことを隠そうとしたのか。

 そこまで考えて、天麗の脳が叫んだ。

 綾子先生を転落させた犯人は、今潜入捜査をしている的場で間違いない。矢島はその共犯で、的場の犯行を隠蔽しようとした。だから的場は、五年前の転落事故について話すことを異様に嫌がるのだ。そうでなければ、あの嫌がり方は説明できない。つまり今回の事件は、五年前の真相に気付いた何者かが、的場に真相を話させるために起こした事件だということだ。脅迫状一つで警察が動くことはないにせよ、殺人事件が起これば警察は動く。そうなれば、豊延署にいる的場も必ず捜査に参加する。それが、犯人の本当の目的だったんだ。

 しかし天麗の心は、頑なにその考えを拒んだ。的場は妹である綾子先生を大事に思っているから、そんなひどいことはできない、と感情論で反対した。無論、脳が言う論理的な考えと比べれば、どちらを信じるべきかは明白であった。

「黒井さんは、綾子先生を殺そうとした犯人は誰だと思いますか」

「――さあね、それは分からないな」

 そう言う黒井の表情は、憎悪が滲んでいた。

 それは不特定な犯人への憎悪の念だろうか。それとも、特定の誰かに向けられた憎悪の念だろうか。あるいは、自分の重要な証言を見て見ぬ振りした警察に向けられたものだろうか。

ともかく天麗には、黒井が途轍もなく強い憎悪の感情を抱いていることが分かった。五年前の転落事故には、これだけの強い感情を煽るような裏が隠されているらしい。天麗の足がまたすくんだが、それでも立ち止まることは許されなかった。

「あれ、天麗さん。こんなところで何をしているの。今は授業中よ」

 馴染みのありすぎる声に振り返ると、そこには秋穂と綾子の姿があった。次の授業に向けた打ち合わせを、この資料室で行うようだ。

「あ、すいませんでした。すぐに戻ります」

天麗は黒井に頭を下げて礼を言った後、そそくさと階段を降りた。

階段を降りている最中、天麗の耳に僅かながら秋穂と黒井が話す声が聞こえた気がした。

「音楽教師になろうとするあなたが、こんなところで何をしているのかしら」

「いや、天麗さんに呼び止められただけですよ。五年前の、とある事故につい話が聞きたいってね」

「まさか、あのことを話したの。駄目よ、あれはもう終わった話。全部決着がついたじゃない」

「あの時の俺は、沈黙を選んだ。でも、今ではその選択が間違っていたと確信しています。俺たちだけが真実を知っているだけじゃ、それだけじゃあ意味がない。ちゃんとそのことが明るみに出ないと、誰も前を向いて歩くことなんてできません。それに、俺は矢島の自供にも裏があると思っていますから」

 天麗は咄嗟に足を止めたが、そのことに気付かれたのか、二人の会話はそこで途絶えた。

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