第3話 嫌な記憶と募る不安

 的場は夢の中でも、五年前に屋上で見た光景を思い出す。未だ強烈に残っているその記憶は、まるで今現実に起こっているかのような臨場感で襲ってくる。押し開けた鉄の扉の重さ、踏みしめた屋上のタイルの固さ、自分の足音。そしてその瞬間を演出するかのように光り輝いている日の輝きと、額を流れ落ちる汗の感覚。それらすべてが、五感を通してダイレクトに情報を伝えてくる。そして彼女が落ちていく姿を見て、頭の中で声が響く。


 お前のせいだ。お前があんな力一杯、無理やり押したりしなければ、彼女が落ちることはなかった。お前のせいで、彼女は落ちたんだ。それなのに、お前はその後何をした。彼女を助けようとしたか。いや、違う。お前は自分を守ろうとしたんだ。自分が彼女を落としたことを知られないように、お前は屋上の柵やドアノブをハンカチで――


 決まって、そこで目が覚める。だから、的場が起きて最初に見るものはぐちゃぐちゃになった布団だし、最初に感じる臭いは自分の汗の臭いだ。その汗の臭いが年々きつくなっていると感じるのは、自分が年老いたせいだろうか。あるいは、罪悪感のせいだろうか。

 的場は大きく溜息をついてから起き上がり、リビングに下りて、ダイニングテーブルの自分の定位置へ座った。寝覚めは悪いが、今日から潜入捜査が開始する。三年前に父親が再婚した際母親になった人が作った朝食を口に運び、何とか頭を叩き起こした。

 三十二歳にもなって実家暮らしの上、三年前から母親と呼ぶようになった女性が作る朝食を食べることは、的場の中に複雑な感情を想起させる。今朝の夢と言い、的場は毎日を最悪のスタートで迎えていた。

 我ながら情けなない、的場がそう思いながらふと正面を見ると、いつもこの時間に大欠伸をしながら朝食を食べているはずの妹の姿がなく、そこには空の食器が山積みになっていた。

「あれ。綾子あやこ、珍しく早起きだったんですね」

「はい。今日から教育実習ですから」

 相変わらず、ぎこちないコミュニケーションだ。的場はそう思ったが、今更本物の家族のように話そうとは思えなかった。お互いに、大人の対応をするだけである。

 朝食を終えた的場は、懐かしさと憎らしさを同時に感じさせる制服に袖を通し、天縣高等学校に向かった。潜入捜査を開始するにあたり、まずは校長室で打ち合わせを行うことになっている。五年前まで教師として働いていたのだから、その頃の同僚には事情を説明しておく必要がある。校長の話では、その頃の同僚で今も学校に残っているのは三人だけだという話だった。

 一人目は、理科教師の稲森藤五郎いなもり とうごろう。考え事をすると、天然パーマの髪を自分で更に崩す癖がある。学校では常に白衣を着ていて、科学実験以外に白衣が汚れそうなことを徹底して行わない。その冷血漢ぶりで、生徒からは嫌われる傾向にある。但し顔立ちは整っているので、一部の女子には人気が高い。

 二人目は、音楽教師の天津川栄作あまつがわ えいさく。見た目からも滲み出る優しさから生徒人気がとても高く、的場も教師時代は最も頼りにしていた先輩だ。服装には無頓着で、上下の組み合わせに違和感があることも多い。生徒第一の信念の下、率先して雑務を引き受けるため、仕事に忙殺されることの多い苦労人。

 三人目は、社会科教師の藤浪秋穂ふじなみ あきほ。的場と同じ年度の採用試験を受けた同志のため、プライベートでも親しくしていた。秋穂の授業はとても分かりやすいと生徒の間でも評判で、全体的に生徒の人気が高い。またその愛らしさから、男子生徒から告白されることも日常茶飯事らしい。

 的場が元同僚との制服を着た再会に、何ともいない哀しみを感じながら校長室の扉を開けると、そこには元同僚と校長を除いて、あと三人の余分な人間がいた。その内の一人があまりに馴染みのある顔だったため、的場は思わず声を上げてしまった。

「綾子! なんでこんなところにいるんだよ」

「お、お兄ちゃんこそ、何その恰好。今更女子高生にモテようとでも思ったの、気持ち悪い」

「違うわ。というか、お前が教育実習するのって……」

「……うん、ここで」

 妹である綾子の返答に、的場は頭を抱えてしまった。何という間の悪さだろうか。これもまた、自分が主人公として試練を与えられているということなのだろうか。アラサーが高校生のフリをしてトラウマだらけの母校に潜入捜査というだけでも精神的な苦痛があるのに、その姿を間近で妹に見られる。常人の精神力で耐えられるわけがない。

 早急に結論を出し、波佐間の許しを得て刑事に戻るしかない。事件が起こらないまま一週間間も経過すれば波佐間も考え直すだろうし、何かあっても子どもの悪戯レベル。すぐに実行犯を捕まえてしまえば問題は無いだろう。なんとしても迅速に、かつ自分の過去を掘り起こされないようにして復職するしかない。

 的場がそんなことを考えていると、どうやら校長からの事情説明は済んだらしい。元同僚や綾子からは、とんでもなく怪訝な目を向けられている。そしてもう一人の余分な人間である教育実習生の黒井星くろい ひかるは、困惑した表情をしている。的場が教師をしていた頃の教え子なのだから、無理もないだろう。

「こんな形で再会することになるとは思いませんでしたが、皆さん、何卒よろしくお願いします」

 的場がそう言うと、聞き覚えのある無邪気な声で元気よく返事が返ってきた。最後の余分な人間、遠坂天麗だ。天麗は生徒の中で唯一的場の正体を知るものであるため、事前に協力を要請する羽目になっていた。

 校長を含めて七人もの人間が自分の正体を知っている上に、一人はまだ年端もいかない小娘だという、潜入捜査にしてはあまりに危険な状態に、的場は頭を抱えた。

「あんな脅迫状、どうせただの悪戯ですよ。それなのにこの対応。教師よりも、警察の方がよほど暇そうですね。私も転職しようかな」

 的場が視線を落としたままこの状況を打破する方策を思案していると、これでもかというほどに的場のプライドを傷つける嫌みを言い、稲森は部屋を後にした。自分に直接関係しないことには、関与しない。元来、稲森はそういう性格なのだ。

 稲森が校長室を後にすると、間髪入れずに校長が咳払いをした。これ以上、勝手な行動をしないようにという警告だろう。校長室の中は一瞬で静寂に包まれ、室内の視線はすべて校長に注がれた。

「的場くん。あなたには三年二組への転校生として、この学校で過ごしてもらいます。三年二組の担任は元同僚の藤浪先生ですし、天麗さんもそのクラスに在籍しています。的場くんの正体を知る人はできるだけ固まっておいた方がいいと思ったので、綾子さんもそのクラスで実習を行います。これで、クラス内の協力体制は完璧ですね」

 校長が話を終えると、的場は綾子の方に視線を向けた。綾子はこちらを一瞥もせず、頻りに溜息をついては指先を交わらせて手遊びをしている。これは、綾子が考え事をしている時の癖だ。

 的場が綾子の考えていることに関して悲観的な推察をしていると、黒井が挙手してから校長に尋ねた。

「校長。僕はどうしたらいいんでしょうか」

「ああ、黒井さんは的場さんの正体をバラさないようにお願いします。それ以外にしていただく必要はありませんので、天津川先生の下での教育実習に集中してください。天津川先生も、黒井さんの教育実習や一年三組の生徒たちに意識を集中してくださいね」

「校長、それはできかねます」

「どうしてですか」

「私は一年三組の担任ですが、一年三組の生徒だけを見ているわけではありません。すべての生徒に意識を集中します。今は生徒だというのなら、当然的場さんにもです」

 天津川が熱く語ったその言葉に、的場は胸を打たれた。やはりこの人は、的場が思う理想の教師だと確信した。それと同時に、今はそれがありがた迷惑であるとも感じていた。

 その時、学校中に響く鐘の音が聞こえた。校長が促すと、天津川と黒井、天麗はそれぞれがいるべき教室へと戻った。

「それでは藤浪先生、今日の朝礼でお二人のことを紹介していただくようお願いします」

 校長にそう言うと、藤浪秋穂は立ち上がった。そして的場と綾子へ後に続くよう促し、校長室を後にした。

「それじゃあ、教室に着いたらまずは私だけで入るからね。次に綾子さんの紹介、最後に的場っちの紹介だから、その間は教室の前で待機。分かった?」

「はい、藤浪先生にお任せします。でも、的場っちは止めてください。僕は潜入捜査としてここにいるので、偽名を名乗ります。そのことは、校長からも話があったと思いますが」

「ああ、そうだったね。分かったよ、市場いちじょうくん」

 そんなやり取りをしていると、三年二組の教室に辿り着いた。先ほどの発言通り、まずは秋穂が一人で入り、次に綾子の紹介があった。教室の中から歓声が聞こえる。やはりいつの時代でも、教育実習生という存在には、何か人を湧き立たせるものがあるらしい。

 そんなことを思っていると、転校生を呼ぶ秋穂の声が的場の耳に届いた。的場は意を決して教室に入り、誰とも目を合わせることなく頭を下げた。

市場國人いちじょう くにとです。これから、よろしくお願いします」

 的場の端的な挨拶に、教室がざわつく。やはり、高校生のフリをするのは無理があっただろうか。的場はそんな恐れを抱き、顔を上げられないでいた。

 そんな時、天麗の声が教室にこだました。

「あ、くにちゃん。どうしてここに来たの」

「え、天麗。あのイケメン転校生と知り合いなの?」

「ごめんね、小夏。実は私、彼氏いたんだ。遠距離恋愛だったから信じてくれないと思って言わなかったんだけどさ、くにちゃんが私の彼氏なの。でも、やっと、やっと一緒になれた」

 天麗の発言に、教室がどよめいた。突然やってきた転校生が、実は遠距離恋愛中の彼氏。これを運命的な再会と言わず、なんというのだろうか。教室内にいる女生徒全員が、このロマンチックな展開に恍惚としていた。

 的場はすんなりと潜入できる助け舟を出してくれた天麗に感謝の念を抱きながらも、余計な設定を付け加えられたことに苛立った。

 これでは、天麗と一緒に過ごす時間が長くなり、捜査にも首を突っ込まれる確率が上がる。そのことを計算しての行動かもしれない。その上、天麗は妙に勘がいい。最悪の場合、彼女に五年前のことを探られる可能性もある。それは避けておきたい。

 ようやく的場が顔を上げて天麗の方を見ると、天麗は無邪気な笑顔でこちらに手を振っていた。

 

 ――さすがに、考えすぎだろうか。

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