第5話 少女に訪れる悲劇

 初めて出会った時、その人に特段何かの感情を抱くことはなかった。お母さんの友達の子ども、ただそれだけだった。でも何度も会ううちに、どんなことでも話しやすいなとか、この人になら本当の感情を見せられるなとか、そんなことを思うようになった。

 その内、その人は私の中で大切な人になった。その人の中では私はただの教え子の一人だろうけど、私はその人と同じ学校に入れることが嬉しかった。その人は、私より十歳も年上。その人から見れば、私は子ども。恋愛対象になんて、なるわけがなかった。

 それでもいつか、いつか気持ちを伝えたい。そんな風に思っていたある日、本当の私は眠ってしまった。後から目を覚ました頃には、すべてが手遅れだった。その大切な人は、私のお兄ちゃんになっていたからだ。

 もう、絶対手の届かないところに行ってしまった大切な人。でも、その人はお兄ちゃんとして、ずっと私の隣にいた。その人は、学校を辞めて警察官になってもずっと私の隣にいた。胸が張り裂けそうだった。手を伸ばせばそこにいるのに、もう私のものになることはない。その事実を毎日突きつけられるのが嫌で、その内朝も起きなくなった。

 だから最近の教育実習での早起きは、正直に言ってしまえば滅茶苦茶苦痛だった。その上その大切な人は、何故か学生服を着て私の授業を受けている。気が狂いそうだった。

 ――そんな大切な人が、あの時と同じ屋上で泣きながら私に謝罪の言葉を述べている。

 五年前の転落事故のことだろう。私は一年前のある日、階段から落ちそうになった時にお兄ちゃんから助けられたことで、五年前の記憶を取り戻した。転落する私の目に最後に映ったのは、必死に手を伸ばすお兄ちゃんの姿だった。その前のことも鮮明に思い出せる。

 だからここで、お兄ちゃんの証言と私の記憶を合わせて、あの時の状況を改めて整理してみようと思う。そうしないと、私もお兄ちゃんも前に進むことができない気がするから……自分の気持ちに嘘をつくのは、もう限界だから。


 五年前。お兄ちゃんはこの、大阪府立天縣高等学校にやってきた。三年間何処かの学校で講師を経験してからの採用試験合格だったから、即戦力として期待されていたらしい。

 いや、でも私には分かる。これはお兄ちゃんの妄想だ。お兄ちゃんはすぐに自分を過大評価して、調子に乗る癖がある。三年講師を経験してから正式教員になるなんてざらにあるし、むしろもっと経験している人も多い。そんな中、たった三年の講師経験でもし本当に即戦力として期待されていたとしたら、この学校の程度の低さが恐ろしい。

 ……脱線しすぎた。

 とにかく、お兄ちゃんはこの学校に配属されてクラスの副担任になった。そのクラスにいたのが、当時高校生だった私と矢島幹夫だった。矢島はとにかく問題児で、クラスにいた男子生徒のほとんどをいじめたという噂もあった。お兄ちゃんもこの矢島には手を焼いたようで、その苦労を滔々と語っていた。

 そんなある日お兄ちゃんは、「今までのことを謝りたいから、放課後の四時に屋上に来てください」といって矢島に呼びだされたらしい。最初はようやく自分の指導が矢島の心に届いたと思っていた。でも時間が近づくにつれ、校内で立て続けに二件も殺人事件が起こった。その時点で、お兄ちゃんの中に嫌な予感がしたそうだ。

 私も、この日のことは覚えている。これまで一切話したことのなかった矢島にいきなり話しかけられ、「的場先生と家族ぐるみで仲がいいって聞いたんだけど、それって本当?」と尋ねられた。私が「本当だよ」と答えると、突然目の前が真っ暗になった。そして気が付くと、屋上の柵の外へ放り出されそうになっていた。

 最初は訳が分からなかった。でも、状況を把握できないと死ぬ。そう思った私は、出来るだけ冷静に周囲の状況を確認した。私の胴体には、ぐるりと一周するようにロープが巻きつけてある。そのロープは随分と長く、先が屋上のドアノブに引っかけられている。

 まとめると、私の体は上半身が屋上の外に出る形で斜めになり、それをロープで支えられているような状態だった。このロープが無ければ、私は体の支えを失って外に投げ出されてしまう。何とか体を真っ直ぐに立て直さなければ、誰かが屋上のドアノブを押し下げたその瞬間に、私の体を支えるロープが落ちて屋上から転落する。

 幸い、ロープはピンと張りつめられている。私は少し体重を後ろにかけては前のめりになることを繰り返し、なんとか体勢を立て直そうとした。少しでも足を滑らせれば一瞬で希望が消える、大きな賭けだった。

 慎重ながらも何度かその賭けに挑戦していた時、扉の方から物音が聞こえてきた。この時、お兄ちゃんが屋上の扉の前に到着したらしい。

「久留米さん、大丈夫か。今、助けるからな」

 お兄ちゃんはそう叫んだ後、何度も何度も扉に体当たりした。私は怖かった。それで扉が開いてしまったら、私はそのまま真っ逆さまに落ちてしまうから。

「駄目、先生待って。開けちゃ駄目。私がいいよって言うまで、絶対開けないで」

 確か私は、そう叫んだと思う。必死だったから、ひょっとしたらもっと言葉が汚かったかもしれない。でもお兄ちゃんには、声が届いたけど、言葉が届かなかった。むしろ私が何か叫んでいることに気付いたお兄ちゃんは、助けを求めていると勘違いしてしまった。その前に二件も殺人事件が起きていたから、この扉の先でも殺人鬼と被害者が対峙する構図になっているに違いないと思い込んでしまった。

 だから、私がどれだけ叫んだところで、それは私の死期を早めるだけの効果しかなかった。

「今助ける。もう少しだ、もう少しだけ待ってくれ」

「駄目、先生開けないで!」

「この、なんでこんなに扉が重いんだよ。早くしないと、久留米さんが殺されちゃうかもしれないのに。おら、早く開け」

「開けないで! 先生、開けたら死んじゃうよ」

「死んじゃうだと! そうか、そこにいるのは矢島だな。おい矢島、もう止めろ。俺がここに来たんだ。もうお前の好きにはさせないぞ。さっさとここを開けろ」

「矢島くんなんていないから、お願いだから開けないで」

「この野郎、どんな細工したらこんなにノブが重くなるんだよ」

 その時、私の体に少しずつ衝撃が来た。ドアノブが徐々に押し下げられ、私の体がゆっくりと落ち始めたからだ。ゆっくり、ゆっくり。でも確実に、私の体は斜めになっていった。

「駄目。的場先生、もう止めて!」

 でも、その言葉は届かなかった。次の瞬間には扉が開き、支えを失った私の体は宙を舞った。まるで無重力にいるかのようだった。ほんの一瞬の出来事のはずなのに、その瞬間が永遠に感じられた。お兄ちゃんが、こちらに走ってくる。必死に右手を伸ばして、私を助けようとしてくれている。

 私も手を伸ばしたい。大切なあの人の手を掴みたい。でも、その望みは私の体から自由を奪う一本のロープに阻まれた。

 絶望。

 それが顔に滲み出ていたと思う。それがお兄ちゃんから見れば、失望の表情に見えたんだと思う。違う、私はお兄ちゃんに対して失望なんてしてない。ただ、後悔した。

 これが、大切な人の姿を見る最期の機会かもしれない。手をつなぐ最期の機会かもしれない。思いを伝える最期の機会かもしれない。最後の思い出かもしれない。駄目。最後を彩る私の記憶が、このまま絶望で終わっちゃいけない。この時の私が、大切な人の中で生き続けるんだから。

 だから、最期は笑わないと。思いを伝えないと。

「ありがとう、大好きだ――」

 耳をつんざく大きな音共に、そこで本当の私は眠りについてしまった。

 お兄ちゃんの話では、その後お兄ちゃんは自分が屋上に来た証拠をすべて隠滅してから私の下に来て、救急対応などに協力したらしい。そして、自分が扉を開けなければ私が死ぬことはなかったと責任を感じ、教師を辞めたらしい。

 これが、五年前に私が転落した事件の真相。

 すべては、お兄ちゃんの指導を逆恨みした矢島の仕業だった。これは想像だけど、きっと他の二件の殺人も矢島がそそのかしたんだと思う。そうして立て続けに事件を起こすことで、お兄ちゃんから冷静な判断力を奪った。結果、お兄ちゃん自身の手で私を命の危機に晒す目に遭わせた。

 言葉で人を惑わす、黄昏の祈禱師。

 それは、矢島のような人間のことを言うのかもしれない。

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