第6話 稲森への聞き込み

 校舎の北側三階。そこには第一理科室と理科準備室、そして第二理科室が一直線に並んでいる。稲森はホームルーム以外の時間を、ほとんどこの校舎の一角で過ごす。職員室に現れる時間など、会議でもない限り三十分と無い。

 そんな稲森の住処と言ってもいい場所に辿り着いた的場は、一切迷うことなく理科準備室のドアをノックした。中から稲森の返事があったので、的場が用件を伝える。そこから間髪入れず、理科準備室のドアが開け放たれた。

「授業をサボるな、と𠮟責するべきでしょうか」

「本当の生徒にもそんなこと言わないでしょうから、いつも通りの対応で結構です」

 二人の皮肉合戦が終わると、稲森は二人に中へ入るよう促した。

「すっかり捜査員ですね」

 稲森が的場の背後にいる天麗を細い目で見ながら、少し鼻にかかった声で言った。生徒相手だから出来るだけ抑えたのだろうが、皮肉屋の物言いが言葉や態度の端々から滲み出ていた。それが伝わったのか、天麗は口を閉ざしたまま的場の後についていった。

「それで、話というのは何ですか」

「はい。波風くんを発見した時のことを、詳細に教えて頂けませんか」

「刑事ドラマなんかで沢山の刑事から同じ質問をされる場面がありますが、あれって本当にあるんですね。となれば、当然この場合も話すまで諦めてくれませんよね」

「ええ、まあ」

 的場の返答に、稲森はうんざりしたように重い溜息をついた。

「天麗さん、と言いましたよね。悪いことは言いません。席を外した方がいいですよ」

「いえ、私は捜査協力者として、自分の仕事をします」

「あなたの仕事とは?」

「この不甲斐なく出来損ないのポンコツ刑事を、管理指導することです」

「てめえ」

 的場が大人げなく怒って天麗の方を睨みつけると、その耳に稲森の笑い声が聞こえてきた。いつもの稲森とは違う、一切の嫌みが無い、心からの純粋な笑い声のように聞こえた。

「あれは、五限目のことです。この部屋で六限目に行う実験の準備をしていたところ、あの電話に校長先生から内線が入ったんです」

 稲森は二人の背後、入り口のすぐ横にある柱の手前に設置された電話機を指さして言った。この電話機は職員室や理科準備室等の教職員が滞在する可能性のある場所にはすべて置かれていて、いつでも内線で連絡を取ることができるようになっている。

「校長先生の用件は、プールの赤外線センサーがなにかに反応したようだから、念のため様子を確認してくれ、ということでした。私は準備が終わったら確認に向かうと返事をして、その通りプールに向かいました」

「校長の内線があってから、実際にプールに向かうまではどれほど時間が空きましたか」

「十分程度だと思います。プールに設置されている赤外線センサーは、屋外に置かれているものということもあって、野鳥などにも簡単に反応するんです。その場合、様子を見に行った時はなにがセンサーに反応したのか分からない。授業中で生徒が入る可能性が限りなく低いことを考えても、そこまで急ぐ理由はありませんでした」

 稲森は、始終冷静に答えた。それは的場が知っている普段の姿とはまるで別人で、五年経った今にして、稲森の本当の姿を目にすることができたような気がして、僅かばかりの感動すら覚えていた。

 そんな風に的場が呆けていると、隣にいた天麗から肘で突かれた。的場は大きな咳払いをして場を仕切り直し、再度稲森の方に向き直って質問を続けた。

「稲森先生。あなたは事件の当日、プールの塩素を補充するためにセキュリティを解除したんですよね」

「ええ、一限目のことです」

「その時、何かプールの中で変わったことはありませんでしたか」

「いえ、特には」

「本当ですか。何か普段は無いものがあったり、水中に沈んでいたりしませんでしたか。外から何者かが侵入した形跡や、あるいはプールの中に何か投げ込まれたような形跡は」

「プールの中はきれいに整頓されていて、プールサイドには水滴一つありませんでした。もし何者かが赤外線センサーを掻い潜ってプールに侵入したとしても、一切濡れずに、何も濡らさずに、人を溺死させることなんてできません」

「しかし――」

「あなたもしつこい人ですね。犯人がプールに入ったとしたら、私が一限目に入った後です。そして、それに該当する人物は一人しかいない」

 稲森は人差し指を突き立て、的場の前に差し出した。自分よりも、さらに後にプールに入ったことが判明している田上を疑えという意味だろう。しかし的場は、極端に丁寧な口調で証言する稲森に違和感を覚えていた。

 なにか隠し事をしているんじゃないか。

 なにか嘘をついているんじゃないか。

 そんな心の声が、的場の耳から離れてくれなかった。だからそんな心を鎮めるため、的場は田上の話へと話題を変えた。

「そういえば、どうして田上先生には、プールの塩素を補充したことを伝えなかったんですか」

「伝えましたよ。彼がそのことを忘れたか、深刻なコミュニケーション下手で何も理解できなかったかのどちらかでしょう。現に、緑山先生はそのことを了承していたじゃないですか」

 一限目にプールの塩素を補充し、その旨を他の顧問に伝えたという稲森。それが本当だとしたら、連絡を受けていたのにプールへ向かった田上は、小夏の共犯者である可能性が高い。一方で、田上は自らプールに行ったと証言した。もし田上が犯人だとしたら、そんな致命傷になり得る証言をするだろうか。

 どちらかが嘘をついていることは明白。しかし、どちらが嘘をついているのかは分からない。

 混沌とした状況に、的場が次にする質問に迷っていると、ずっと黙っていた天麗が口を開いた。

「稲森先生は、波風が小夏にしたことを誰から聞いたんですか」

 天麗の質問を聞いた的場は、なぜそれを思いつけなかったのかと自分を責めた。稲森が担任を持っているのは一年生であり、それに加えて水泳分の顧問であるため、小夏とそのような深い話ができる関係性だとは思えない。

 いや、仮に担任や部活動の顧問だったとしても、思春期の女の子が性的な問題を異性の教師に相談するとは思えない。つまり稲森は、小夏の一件を誰か教師から聞かされた可能性が高いということだ。

 そうなると、その人物が途端に怪しくなってくる。何故なら、その人物と小夏は動機を共有できる可能性があるからだ。ましてや、その人物が正義感で行動を起こしたのにそれが何らかの圧力で潰されたとしたら、事件を揉み消されたとしたら、それは殺人に繋がるほどの強い感情を想起するように思えた。

 沈黙。的場が状況を整理してようやく理解が追い付くまでには一分ほどの時間がかかったような気がするが、その間稲森は何一つ言葉を発しなかった。ただ黙って天麗を見つめ、時が過ぎるのを待っているようだった。

「稲森先生、答えてください。先生は、誰から小夏が暴行された話を聞いたんですか」

「……教師には、生徒のプライバシーを守る守秘義務があります。ここであなたの質問に答えることは、その守秘義務に反することです。よって、私はその質問に答えることができません」

 苦しい言い訳だったが、筋は通っていた。確かに教師には職務で知り得た情報の守秘義務があるし、天麗の質問は小夏のプライバシーに関する質問である。稲森は教師の職務規定を盾に、天麗が放った会心の一撃を見事に防いでみせた。

 だがそれは同時に、稲森がなにか隠し事をしていることを意味していた。

 的場の脳裏に、校長室で稲森が威勢良く放った発言が蘇った。


「答えないことで、答えているんですよ」

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