第7話 五年前の被害者は……

 プールの真ん中に生徒が浮かんでいた。

 通常なら事故と事件の両面から捜査を行うべきところだが、今回は波風の首元にひも状のもので絞めつけられた跡があったことと例の脅迫状が投函されていたことから、即座に殺人事件として捜査が行われることになった。

 学校に潜入捜査中だった的場は、職員室と横並びになっている会議室に呼ばれ、上司である刑事部長の波佐間典助と後輩刑事の羽衣莉子からの事情聴取に応じていた。

「つまり、警備会社から赤外線センサーの反応があったと連絡を受けた水泳部顧問の稲森が遺体の第一発見者で、その次にお前が現場に駆けつけた。そして急いで遺体をプールサイドに引き上げたが、既に息は無かった。そういうことか」

「はい」

「被害者について知っていることは」

「波風という名前の三年生で、陸上部の部長でした。足は早いですが、敵を作りがちな言動が多いので、そこまで周囲の信頼を得ているようには見えませんでした」

 的場が答えると、波佐間は大きく溜息をついて窓際に移動し、腕を体の後ろに組んでそこからの景色を眺め始めた。その後ろ姿はまるで、お前はこの三日間何をしていたのだと言っているようだった。

 そんな空気に耐えかねたのか、莉子が大きく咳払いをしてから的場の方を向き、質問を始めた。

「的場さん。あの脅迫状に書かれていた黄昏の祈禱師について、詳しく教えてください」

 校長から脅迫状の相談をされた際に山田を連行していた莉子も、波佐間から脅迫状の話を聞いたらしい。その強い眼差しには、こちらへの疑いの色が滲んでいる。

「ああ、この学校に伝わる超常的な存在で、言葉で生徒を惑わせて犯罪行為に走らせることを生業とする怪異だ。まあ、実際は実態のある人間なんだろうが」

「そんな話ではありません。他に知っていることを話してください」

「五年前にこの学校で殺人事件があった時も、その名前が出た。その時の脅迫状と同じものが、今回学校に投函されている」

「他には」

「他にはって、そんなものあるわけ……」

「校長から脅迫状の相談を受けた際、何か心当たりがありそうなことを言っていたそうですね。的場さん、本当は黄昏の祈禱師の正体について、なにか心当たりがあるんじゃないですか」

 莉子は淡々と、冷静にそう言った。声を潜めてはいたが、波佐間に校長とのやり取りを聞かれていたらしい。的場の額に冷や汗が滲む。その感覚が、またあの日を想起させる。


 額に汗を流しながら、屋上を焦って走る自分。自分で落としておきながら、助けようと必死に伸ばした右手。屋上から見下ろして見た、脳裏に焼き付いて離れない、野次馬の真ん中で微塵も動かない彼女の姿。そして、屋上に続くドアノブに着いた指紋をハンカチで拭き取り、自分が屋上に来たことを隠したこと。その一部始終が、すべて詳細に思い出される。


「そういえば、妹さんは元気か。綾子さん……だったっけ?」

 波佐間が突然問いかけてきたその一言で、的場の思考活動がすべて停止した。波佐間がどこまでのことを知っているのか分からないが、今このタイミングで綾子の名前を出すということは、何か勘づいているようだ。

 的場は波佐間に探りを入れるため、動揺を悟られないように、努めて冷静に問いかけに応じた。

「ええ、元気ですよ。どうしてそんなことを訊くんですか」

「とぼけるな。俺はもう十年以上豊延署にいるんだぞ。俺が何も知らないとでも思っているのか。お前を学校に潜入捜査なんてさせているのは、何のためだと思う」

 波佐間の問いかけに、的場の心がざわついた。ただの気まぐれだと思っていた、いつものように気分で潜入捜査を決め、ただ自分がそれに巻き込まれただけなのだと。でも、どうやら違うようだ。この潜入捜査には、波佐間しか知らなかった本当の目的があるようだ。

「的場。お前は基本的には優秀な警察官だと思うし、俺もそう評価している。だが、出世させるには大きな欠点を抱えている」

「なんですか、それは」

「お前は時折犯人に同情し、追及を弱めることがある」

「そんなことありません」

「じゃあ、今すぐに五年前の真実を話せ。お前の妹である的場綾子――いや、五年前の時点では、久留米綾子だったな。彼女が、この天縣高等学校の屋上から転落した事件について、お前の知っていることをすべて話せ」

 的場の脳内に、屋上から落下する綾子の姿が、あの冷たい目が映し出された。

「今回の事件に、綾子のことは関係ありません」

「本当にそうか? 彼女がここに教育実習に来る直前に脅迫状が投函されたことは、その差出人が黄昏の祈禱師だったことは、本当に無関係なのか? 俺にはそうは思えない」

 波佐間は踵を返し、的場の方に向き直った。唇は力強く結ばれ、目は見開かれている。眉間に寄ったしわは、気分屋で常に笑っている波佐間しか知らない的場には見慣れないものだった。

 波佐間の顔の異物に的場が目を奪われていると、波佐間は再び窓の外へ体を向け、ゆったりとした口調で語り始めた。

「三年前、通り魔として逮捕された男の取り調べをしたことがある。男の名前は、矢島幹夫。この学校の卒業生で、当時十九歳だった。そいつが取り調べの第一声でなんと名乗ったか、分かるか」

 波佐間は問いかけるように言ったが、的場から返答はなかった。静寂。しばらくしてから、波佐間は再び話し始める。

「黄昏の祈禱師。あいつは、そう言ったんだ。一瞬でこの学校の事件を思い出したが、その後奴は意味不明な供述を繰り返し、入院措置がとられた。俺にとっては、通り魔を刑務所にぶち込めなかった嫌な事件で、ずっと心の中に残っていた。それが、今回の脅迫状を見た時に思い出されたんだ。そしてお前と校長のやり取りを見て、五年前の一件にはまだ裏があると確信した」

 的場は口を真一文字に結び、膝の上で拳を力強く握った。

 矢島幹夫。忘れたくても忘れられない名前だ。彼は的場が副担任を持ったクラスの生徒であり、五年前の真相を知る数少ない人間の一人だ。どれだけ完璧に証拠を隠滅できたとしても、奴の証言があれば自分は罪に問われるかもしれない。

 そんなことを考えていると、的場は口を開くことができなかった。ただ体を震わせ、これ以上波佐間からの追及が来ないことを願うだけだった。しかし、波佐間がそんなことで追及を止めるほど優しい人間でないことは、的場が一番よく分かっていた。

「この脅迫状が五年前のことと関係しているのだとしたら、まだ疑惑が残っているのは綾子さんの転落事故だけだ。それに、矢島は取り調べの中で俺に言ったんだ。綾子さんの件は、事故ではなく殺人事件だと。綾子さんは意図的に屋上から落とされたのだと。そして、自分はその犯人を知っているとな」

 的場の座っているパイプ椅子が、的場の心情に共鳴するかのように、悲鳴のような音を上げながら軋んでいる。しかし波佐間は、追及の手を緩めようとしない。

「それに矢島は、取り調べの中でお前の名前を出したこともある。俺に笑いながら、的場國彦という人間が自殺していないかと尋ねたんだ。これらが意味するところは、一つしかないだろ」

「……それを確かめるために、俺をこの学校に潜入させたんですか」

「最初はそのつもりだった。ただ死人が出た今、それだけに集中するわけにもいかなくなった。だから、今すぐ五年前の真相を話せ。それが、必ず今回の事件に関わっているはずだ」

 波佐間はそこで言葉を止めた。的場からの返答を待っているようだが、的場は体を震えさせるばかりで口を開こうとしない。莉子は莉子で、状況を整理するのに手いっぱいで、話に割って入る余裕などなかった。

 時計の針の音、校舎内の喧騒だけが会議室の中に聞こえる。授業中だったこともあって、生徒たちはまだ、事件のことを知らされていない。だから、まだ生徒たちのいる教室は和気藹々とした空気感に包まれている。的場のいる会議室や、波風の保護者にどのように訃報を知らせるかを相談している職員室とは、対照的だった。

「――まずは、過去の事件より今の事件を優先しましょう。偶然か必然か、この時間は水泳部の顧問三人が、全員授業を持っていなかったわけですから。今のうちに話を聞きましょう」

「待て、話は終わっていないぞ」

「……自分は、五年前のことを忘れたいんです。綾子だって、あの時のショックで記憶を失っている。その真実が明らかになったって、誰も喜ばない。喜ぶ人のいない真実なんて、明かす価値がありませんから」

 そう言い残し、的場は会議室を後にした。

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