第9話 棘抜きの夜

 殴られた勢いで俺は首から後ろに弾き飛ばされる。鼻っ柱に燃えるような感覚。そしてツーンと涙を鼻水を誘発するような痛み。

 伊波が俺に向けた拳が見える。おいおいストレートかよ。こういう時って普通ビンタじゃねえか?


 さらに悪いことに、その衝撃を受けた俺は思わずギュッと手に力を入れてしまい、その中に捉えていたものを握りつぶしてしまった。

 メキップチッと嫌な感触。そしてチクチクとした刺激が肉の中に食い込む。痛い、そして何より気持ち悪い。


 鼻が燃えるように痛いのと手の中は気持ち悪いのとで心の中はぐちゃぐちゃだったが、涙を堪えて俺は窓に走り、手の中のものを外に放り捨てた。


「うえぇ……最悪だ……。なんか色々刺さってるし……」


「ご、ごめん思わず……。だ、大丈夫?」


 冷静を取り戻した伊波が気遣わしげに声をかけてくるが、鼻っ柱に拳をもらった恨みは消えない。


「大丈夫じゃねえよ……。あんな真っ直ぐ殴るか普通」


「しょ、しょうがないでしょ! 急におっぱい鷲掴みにされたら、グーパンも出るっしょ」 


 そうかあ? いや、そうかあ……。そうだなあ、女性の感覚は男のそれとは違うだろうからなあ。

 うーんと腕組みをして考えた瞬間、鼻から顎先までをスーッと何かが伝い、パタタッと滴ってカーペットに赤い染みを作った。


「やべ、鼻血だ」


「え? マジじゃん、とりあえず上向け上!」


 鼻をつまみつつ指示に従って上を向き、これ以上の被害拡大を防ぐ。やべえ、伊波の部屋のカーペットを汚しちまった。


「ちょ、こっち向いて」


 突然呼ばれて「はえ?」と間抜けな返答をしつつ伊波の方に向き直った瞬間、鼻にずぼっと丸めたティッシュを詰め込まれた。なんて乱暴な……思ったが、お手製にしては驚くほどにジャストフィットな出来栄えに思わず感心してしまった。

 続けて伊波はウェットティッシュを差し出してくる。


「ほら、これで顔拭きなよ」


「ああ、悪い助かる」


 そこに鏡あっから、との言葉に甘えて、顔についた鼻血を確認しながら拭き取っていく。我ながら中々の惨状だ。


「あのー、ほんとにすまん。カーペットに血ぃ着けちまった。申し訳ない」


「いいって別に。鼻殴っちゃったのはあたしだしな。不問にしてやる」


「殴り所が悪かったかのような言い方だな」


「そりゃそう聞こえるっしょ。その通りの意味で言ったんだし。パンチ一発でおっばい揉めるなら安いもんでしょうが」


 パンチだけで済むのならそう考えるやつもいるかもしれんけど、俺の場合は害虫を素手で握り潰すというおまけ付きだぞ。その条件まで加えると、さすがに安いと考える奴はグッと減るのではないだろうか。


 顔の処理を終えて振り返ると、伊波はウェットティッシュで俺の落とした鼻血の痕をトントントンと叩いて取っていた。

 それについては申し訳なく思うけど、俺にはもう一つやらなきゃいけないことがある。


「伊波、悪いんだけどさ。ピンセットとか持ってねえか?」


「あるけど、そんなもん何に使うの」


 俺は無言で手のひらを伊波に向ける。「うぇっ……」と顔をしかめられた。


「なんだその反応は。この手がお前を虫の恐怖から救ってやったんだぞ」


「ついでにあたしのおっぱいも揉んでいったけどな」


「それへの対価は顔面を差し出すことで支払い済みのはずだ。……で、持ってねえか? 見ての通り結構トゲも刺さっちまったし、なんか異様に痒いんだ。身体の中に入れてて良いもんなわけないから、抜きたい」


 大丈夫かよ、と言いつつ伊波はピンセットを手渡してくれる。

 礼を言って棘を抜きにかかるが、これが中々上手く行かない。痒いし痛いし摘めないしでイライラしてきた。


「ちょっとすんなりいかなさそうだから、これ貸してくれ。後日新しいの買って返すから。じゃあな、おやすみ」


「ちょいちょいちょい、待てって。あんたそれ、自分でなんとかできるの? 今見てた感じだと全くダメそうだったけど」


「まあ時間かかるかもしんねーけど、やってみるしかないだろ。もう遅いし、あとは自分の部屋でやるよ」


 挨拶をして部屋から出ようとしたところを、伊波は襟首を掴んで止めてきた。おかげで喉が詰まって「ヘキュッ!?」と変な声が漏れた。


「おい何すんだよ」


 咽せながら伊波を問い詰めると、


「へ、ヘキュッて言った今……? ぷぷぷ、変な声……!」


 ぷークスクスと面白そうに笑ってやがる。この女め。


「お前のせいだろが」


「ごめんごめんって。急に出てこうとするもんだから。それより、貸してみろよ」


「何を?」


「ピンセットだよ。あんたが自分でやったんじゃ、朝までかかっても終わらないっしょ。やってやるって」


 早く寄越せと伊波は手を差し出してくる。


「いいよもう遅いし。お前は寝ろよ」


「い、い、か、ら! 貸せって言ってんだろが」


 業を煮やした伊波にバシッとピンセットを引ったくられた。この状況から再度奪い返そうとするのは……まあ、不毛ってもんだろう。

 観念して伊波に左手を預けることにする。

 うだうだ言わずにさっさと任せろって、とブツブツ文句を垂れつつ、伊波は俺の数倍の速度で棘を抜いていく。


「いたっ、いたっ。ちょっと肉えぐってるって」


「しゃーないっしょ。だってほとんど手の中に埋まってるんだし。ほじらんきゃ取れねえ」


「そういうもんか。でも、もうちょい、優しくしてくれると、ありがたいんだけど」


 やんわりとした抗議は「男が小さいことでガタガタ言うな」という言葉で封殺された。

 それにしても、面白いようにするすると伊波は棘を抜いていくな。


「なんか、慣れてるなお前。よくやるのかこういうこと。……やるわけねえか。棘が刺さることなんて年一あるかどうかも怪しいことだもんな」


「棘はねーけど、女子は毛を抜くからな。なんとなくおんなじ要領だわ」


 お、おう。そうなのか……。

 無駄毛処理なんか気にしたことなかったからな。急にちょっと生々しい話になって戸惑ってしまった。


 そこから話すことも思いつかず、かと言ってじっと伊波の手元を見つめるのをなんか違う気がして、俺はきょろきょろと所在なさげに部屋を見渡す。

 伊波は顔を上げずに言ってきた。


「おい、なんか喋れよ。気まずいだろが」


「いや、集中してそうだったから。気が散ったら悪いなと思ってよ」


「ほんとかよ?」


「こんなとこで嘘ついてどうすんだよ」


「どうせ話す内容が見つからないとか、そんなんだろ?」


 図星だった。


 完璧に胸の内を見透かされてしまい、ぎくりとしてしまう。その反応が伊波への答え合わせになってしまっただろう。

 俺はおほんと誤魔化しの咳払いをしてとりあえず話し始める。


「お前は、虫嫌いなのか?」


「そりゃもう。言うまでもないっしょ」


「奇遇だな。俺も実はあんまり得意じゃないんだ」


 ………………会話終了。


「下手くそか!」


 伊波がくわっと目を見開いた。ついでに俺の手のひらをピンセットでグリっと突き刺す。痛いんだが。


「なんだその話題! 奇遇もくそもないでしょうがそんなことで! 日本人の九割は虫嫌いだわ!」


 それもそれでお前の偏見が入ってると思うけどな。


「ま、まあでも程度ってものがあるだろ。例えば俺とお前。俺も虫は嫌いだけど、お前ほどじゃないよな。美波さんはどうなんだ?」


「お母さん? あたしよりはマシだけど、しっかり苦手だよ」


「じゃあ今まではどうしてたんだ? どんなに気を付けてても虫の一匹や二匹、家の中に入り込むことだってあっただろ」


「お母さんと二人で怯えてた」


「退治はしなかったのね……」


「しょーがねえだろ苦手なんだから。でもこれからはあんたがいるから大丈夫か」


 俺も虫苦手って言ったはずなんだけどと抗議すると「ガタガタ抜かすな」と封殺された。


 伊波から理不尽な仕打ちを受けている間に、手のひらの処置はどうやら終わったようだ。とっぷり夜も更けてしまったが、それでも朝までは数時間ある。俺が自分でやってたらこうはいかなかったな。


「お前手先器用だよな。なんにせよ助かったよ。正直ほぼ徹夜覚悟してた」


「いや、元々あたしが呼んだせいだし。こっちこそごめん、夜遅くに」


 お、おう。素直にかしこまられると、それはそれで反応に困る。

 煮え切らない俺の返事を聞いて、伊波は「なんだその反応」と当然の返答を寄越した。


「いや何でもないよ。じゃあな、おやすみ」


 そう言うと、伊波も短く「おやすみ」と返してきた。


 部屋を出て、階段を下りながら考える。

 伊波愛梨亜という人間。最初はデリカシーが無くて軽薄なヤツだと思っていた。だけどそれは少し違ったのかもしれない。あいつは、俺が当初思っていたよりもずっと素直で思慮深さもあり、そして家庭的なやつだ。

 

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