第17話 どんとこい抜き打ちテスト

 足が重い。粘性の高い沼の中を進んでいるかのようだ。体中にまとわりつくような疲労感が満ちている。上腕二頭筋は既に筋肉痛の悲鳴を上げているし、関節はギシギシ言っている。おまけに天気も良かったから首筋はヒリヒリだ。


 土、日と連続でぶち込んだバイト帰り。二日連続で終日肉体労働に従事した俺の身体は疲労のピークを迎えていた。

 道中で買った炭酸飲料を飲みながら身体を引きずるようにして家へと向かう。こんなに遠かったのか俺の家は? もっと駅近にしてくれりゃ良かったのによ、親父め。


 八つ当たりのように親父への文句を心の中で垂れているうち、俺はようやく愛しの我が家に辿り着いた。薄暗闇の中で、リビングの窓から漏れる灯りがとても嬉しかった。胸の奥がぽっと暖かくなる。

 ただいまーと力ない声で玄関扉を開けると、リビングから美波さんがぱたぱたとやって来て迎えてくれた。


「おかえりー救太郎君。今日もお疲れ……の、ようね。ご飯の準備しておくから、先にお風呂入っておいで」


 お言葉に甘えて風呂場へ直行する。今日一日で身体にしみついた汗や油をこそげ落とすと、浴槽へダイブ。思わず「あぁ~っ」とジジ臭い声が出てしまうが、仕方ないだろう。


 お湯の温かさがじんわりと体中に浸透し、ビリビリと骨や筋肉や関節を揺らしている。たまりにたまった疲労が浴槽に抜けていくようだ。


 はぁー……。労働の後の風呂、最高。




 どっぷり湯船につかること暫しの間。動く気力もなかったが、ぐーぐーと腹の虫が音を立てて鳴り出したのに合わせて上がることにした。腹ペコで死にそうだ。飯が待ち遠しい。

 体の水気を拭き取り、下着を履いて……ここでふぅーっとひと息。しかし本当に疲れたな。働くってすげえな。というか肉体労働ってすげえ。これを毎日毎日こなしてる人もいるんだもんな。偉大だよ。もっと尊敬されて然るべきだ。


 ……というかアレだな。なんか俺、昔よりも体に締まりがなくなってるな。

 それもそうか。運動部を辞めて久しいし、ここ最近は美波さんや愛梨亜の飯が美味すぎて、連日腹いっぱい食ってるもんな。何もしなかったら、そりゃキレもなくなる。筋肉の陰影も脂肪の中に埋もれていくよな。

 鏡に映った自分を見てそんなことを考えていると。


「あ、ゴメン」


「っ!? キャーーー!!!」


 突然ガララっと勢いよく脱衣所の扉が開けられ、お出ましたのは伊波愛梨亜さんだ。予期せぬ登場で頭真っ白になり、俺は思わず胸を隠してしまう。そんな俺の様子を見て、愛梨亜は怪訝な表情を浮かべた。


「あ、あんた……何やってんの……?」


「風呂上りに、ボーっとしてたんだよ! 気付けよ居るの! 灯り点いてるの分かるだろ!」


「いるのは分かったけどさ。上がってからまあまあ時間経ってたし、ドライヤーの音もさっき聞こえたし。まさかまだパンイチで突っ立ってるなんて思わないでしょうが。……つか、『キャーッ』って何? キュウ、そんな感じで悲鳴上げるんだ。やべえ、ウケるわ。意外すぎ」


 ぷぷぷと笑う愛梨亜に確かにそうだな悪かったよ! と半ば逆ギレのテンションで返しつつ部屋着に袖を通す。


「ま、バイトお疲れ。ちゃんと金作れたか?」


「作れたって表現はやめた方がいいかもな。なんか良くない手段で金を得たように聞こえる。……足りたよ。昨日と今日の分でなんとかな。流石に二日連続フル肉体労働はキツいわ」


「イベント設営だっけ? ま、確かに稼げるけど、キツいよな。行ったやつみんな言ってる」


「肉体的にもそうなんだけど、精神的にもな……。監督っぽいオッチャンがいたんだけどよ、こいつがまた高圧的でな。少しでもゆっくりしてるとめちゃキレるんだよ」


「あー、まあ現場の人ってそういうのもいるよね。でもそういうのって、適当に持ち上げとけば大丈夫よ」


 持ち上げるって言われてもな……。


「あたしも昔イベント売り子のバイト入ったとき、たまたま自販機前で現場担当のオッチャンと被ってさ。作業の時めっちゃキレてるの見てたから、うわー最悪と思ってたんだけど。適当に筋肉凄いっすねーやっぱ重い物とかよく運ぶからっすねー、とかなんとか言って褒めてたらジュース奢ってくれた」


 なるほど。今日も日本のどこかではこのようなプチパパ活が日常的に行われているのだろう。でも、このくらいなら、お互いウィンウィンならいいんじゃないかと思う。


「ま、なんにせよお金はこれで大丈夫ってわけね。よくやったぞ弟。褒めてつかわす」


「やめい。……ところで今更なんだけどよ。依頼する予定の写真館って人気なんだろ? 予約とか取れたのか? 俺、その辺ノータッチだったというか、全然考えてなかったんだけど」


「もちろん大丈夫に決まってんでしょ。徳田さんから休みの話が出た時点でソッコー予約してたっつーの」


「それ、もし俺が断ったり一文無しだったらどうしてたんだ?」


「いや断らせねえし。金なきゃ貸してたし」


 な、なんという強引さ……。「そんで利子付きで返してもらってたし。十日五割」そして恐るべし暴利。さてはこいつ、最近アウトロー系の漫画でも読んだな?




 週末なので交通量は多く、道の流れはやや緩やかだったが、それでも一時間半くらいで目的の商業施設が見えてきた。


 最近できたばかりの注目施設ということもあり、駐車場は車でひしめき合っていたが、道路の流れが止まってはいないところを見ると、収容台数的にはまだ間に合っているようだ。めちゃくちゃデカいしなあ。


「お腹減ってきたなあ。着いたらまずはお昼にするか。みんな、何か食べたいものはあるか?」


 ハンドルを握り視線は前方から外さぬまま、親父は大声で車内にいる俺達に問いかけてくる。

 あたしパスタ食べたいなーと愛梨亜の希望にならって、到着後俺達はモール内にあるイタリアンの店へ直行して空腹を満たした。


 さてお次はどこに行こうかと連れ立って歩き始める親父と美波さんに隠れ、愛梨亜にそっと耳打ちする。


「予約は何時だったっけ?」


「二時。だからあと一時間ちょっとかな。ま、ここなら見るもんには困らないしすぐでしょ」


「俺、買い物で時間潰すの苦手なんだよな……。だって、目的の物買ってよ、それで終わりだろ? もって三十分だよな」


 ハァ? 信じらんねーと愛梨亜。


「なんでキュウがモテねーのか、今のでよく分かったよ」


 ほっとけ。


 そうこうしていると、前を歩く美波さんがパッと振り返って愛梨亜に声をかけた。


「ねね、愛梨亜。あそこのお洋服可愛くない?」


「どれ? ……おっ、いい感じ! さすがお母さん! 行こ行こ!」


 愛梨亜はピューっと駆け出すと、美波さんの腕を握って目的と思われる服屋へ直行する。


 あの店の服がお気に召したらしいが……正直他との違いが分からないな。大体こういう商業施設って、服屋多すぎだよな。もっとまとめられると思うんだけど……。

 何を見ても「青い服」とか「黒い服」とか、色とそれが服であること以外見分けがつかない俺は、ぽかんとその場に立ち尽くしてしまう。


 おい救太郎、どうした? 置いていかれるぞと親父に声をかけられ、ハッとして二人の後を追う。きゃいきゃい楽しそうに服を選ぶ女子二人を見て、親父は嬉しそうに目を細めた。


「徳太さん、この服……どうかしら? どっちがいいと思う?」


「うーんそれは難題だなあ。美波ちゃんが着ればなんだって似合っちゃうからね。でもそうだな……。普段使いできる服が欲しい感じかな?」


「というよりは……今日みたいにちょっとしたお出かけの時に着たいかしら。今日家出る時、あんまり選択肢がないなって思っちゃって。今までお仕事が忙しくて、中々遠出とかもできなかったから……」


「なら、出かける時によく着けてるそのネックレスに似合う服がいいんじゃないかな。それでもって、今着てる服とはちょっと違った雰囲気になるようなの。例えば……」


 そう言って親父は美波さんを連れて店の奥へと歩を進める。あのオッサン、慣れている。伊達に既婚者やってない。


「さっすが徳太さん、お母さんのことよく分かってるなー。百点の対応だよ。……さて、息子のキュウはどうかな?」


 などと言いつつ、愛梨亜は俺のそばまでススッと寄ってくると、両手それぞれに二着ずつ、合計四着の服を見せてきた。


「さ、どれがいいと思う?」


「え? な、なんでもいいんじゃねえか? お前なら全部似合うよ多分」


「ゼロ点。赤点、追試、留年」


 ハァーというクソデカため息と共に落第宣告を言い放たれる。


「なんでだよ。親父も似たようなこと言ってたぞ」


「徳太さんは多分本気でそう思ってるから言ったんだろうけど、キュウはただ考えるのが面倒だからテキトーに言っただけでしょ? それに徳太さんはちゃんとその後に自分なりの提案をしてました。はい論破」


 ぐ、ぐぬぬ……。どうして女ってやつはこう口が達者なんだ? また敗北してしまったか、勝利を知りたい。


 とはいえ愛梨亜の言うことがごもっともなのは紛れもない事実だ。ええと……。

 提示されたのは四着の服。色や形が違うのは分かるけど、それぞれ何がどう良いのかがさっぱり分からない。多分愛梨亜ならどれも上手いこと着こなすんだろうけど……。


 思案すること暫し。ゆっくりと、一番左端のものを指差した。グレーを基調として、なんとなく落ち着いた、締まった印象を受けるやつだ。


「これで」


「ほう、その心は?」


「俺はファッション関係には疎いから、ぶっちゃけ似合うのかどうかは分かんねーけど、この色なら少なくとも愛梨亜の派手髪と反発することはないだろうというのがひとつ。あと、あんまりこういう色の服を着てるの見たことないから、どうせなら見てみたい、というのがもう一つだ」


 そう回答すると、愛梨亜はあっさりと、


「おけ、んじゃこれに決めるわ」


 と言って選ばれなかった三着を戻しはじめた。


「ちょいちょいちょい、本当にいいのかよ。俺の意見だぞ。自分で言うのも情けねえけどよ、正直信頼度ゼロだぞ」


 慌てて引き止めるが、愛梨亜はこともなげな表情だ。


「キュウが信頼できるかどうかはあたしが決めることっしょ。それに言っとくと四着まで絞った時点で、デザインとか値段とか色々合わせて厳選してんのよ。だからぶっちゃけあの四着ならどれでも良かった」


「なんだよ。ならやっぱり俺に聞く必要なかったじゃんか」


「話は最後まで聞けって」


 愛梨亜はチッチッチ、と指を振る。


「だからこそキュウに聞いたんでしょうが。どれもいいけど、さすがに全部は買えないでしょ? なら最後は自分以外の誰かの好みで決めてもらうしかないっしょ」


 はあん、そういうもんかねえ。


「あと、あの理由はわりと良かった。あの、『俺が見てみたいから』ってやつ。そういうの大事よ。彼女に向けて言っただとしたら、百点あげてもいいね」


「なら、今回の場合だと?」


「五十点」


 おい、五十パーセントオフかよ。


 不満気な俺の心持ちを見抜いたか、愛梨亜はしししっと満足そうに笑った。


「あ、お母さん達も決まったみたい。さっさと行こうぜ。次はあたしがキュウの服選んでやるよ」


 最後ににっこりと笑ってみせて、愛梨亜はレジへと向かう。

 取り残された俺は、選んでもらうなら何がいいかなとぼんやり考えていた。

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