番外編 癒しの施術士美波さん
がさり、と耳の中で乾いた何かがこすれた音がしたので、俺は装着しようとしていたイヤホンをことりと机に置いた。
そういえば最近耳掃除をしてなかったな……。爪とかは目に見えるから気が付きやすいんだけど、見えないところは気にならなければ意識にのぼらない。
世の中には狂信的なまでに耳掃除を愛する人がいて、耳血が出ようと構わず耳をほじくり続ける人種もいると聞くが、俺からすると考えられない話だ。癒し、リラックス、気持ちいいという感想は分からないでもないんだが……。
……怖くね?
あんな長い棒を、自分の目では決して見ることのできない身体の穴に突っ込み、ほじくる……。上手くかき出せたときは確かに快感ではあるが、一歩間違って鼓膜をぶち破ったりしたらと思うとあまり思い切った掃除はできない。
おまけに俺は手先があまり器用ではないのだ。左耳の掃除なんてなおさら恐ろしくてできやしない。というか、奥を攻める以前に利き手じゃないので耳かき棒の操作がおぼつかないのだ。
そんなこんなで、俺個人としてはそこまで耳掃除を好まない。なので、ついついおざなりになってしまうわけだ。
もちろん、だからと言って放置し続けるわけではないんだけど……。
さて、耳かき……耳かきは……無いな。そういえば俺個人として持っていたわけではなかった。一応は家の共有のものだったはずだ(親父が使ってるのを見たことがないから、実質的に俺専用だったけれど)。
共有のものならリビングのどこかにあるだろう。そう思って俺は部屋を出る。
戸棚の中に……やっぱりあった。これこれ。確か百均で買ってきた、なんでもない普通の逸品。さてまずは、まだやりやすい右耳のほうから……。
恐る恐る、といった感じで右耳の穴に耳かき棒の先端を近づける……。
「ただいまー。あ、救太郎君。リビングにいたんだね。ただいま」
買い物に出ていた美波さんが、まん丸に膨らんだエコバックを下げてリビングの扉を開けた。俺はいったん耳かき棒から手を放す。
「おかえりなさい。重そうっすね。預かるよ」
そう? じゃあお願いと美波さんは俺に袋を預け、洗面所へと向かった。
託された買い物一式を、上手いこと冷蔵庫やキッチンの戸棚に詰め込むと、俺は改めて耳かき棒を手に取る。
「ありがとねー。……あら、耳掃除?」
「そうっす。……あー、ごめん。見ててあんまし気持ちのいいもんじゃないっすよね。部屋に戻るよ」
「ううん? そんなことないよ。大丈夫大丈夫」
別に気を使っているわけでもなく、当たり前だという口調で美波さんは言う。こう言われてしまっては、部屋に引き返すのは失礼か。
それじゃ失礼して……と前置きし、耳かきを再開する。
ザリ……ザリ……という音が耳の中に響く。一応は取れているけど、多分これはカスをこそげ落としてるだけだ。本当は中にもっと大物が眠っている気がする。けれど、その耳穴のヌシを追いかけて奥まで突っ込む気にはならない。いつもこうだ。不完全燃焼で終わる。だから俺はあまり耳かきが好きではないのだ。
その様子を、美波さんがじっと見つめていた。食い入るような視線といってもいい。なんなら目がキラキラと輝いているような気がしないでもない。
「あの……何か、ありました……?」
「いや、その……。率直に言って、救太郎君は耳掃除が苦手だね?」
「まあ、はい。手先も不器用だから」
「ふんふん……。でも、耳掃除するのは好きだったりする?」
「いや別にだね。いつも上手くできないから、正直ストレスがたまる」
なるほどなるほど……そうかそうか……と美波さんは俺の耳元に視線を向けながらなにやらぶつぶつと呟く。なんだか、瞳の輝きが増していないか? 虹彩に綺羅星が瞬いている。そして、心なしか瞳孔が開いている。あれは、そう。ネコ科の動物が仕留めるべき獲物に狙いを定めているときのような……。そんな感じだ。
「救太郎君。その耳掃除、私に預けてみない?」
「え? いや、その……。ええっ?」
「そんな手つきじゃ全然ダメ。多分ちゃんと取れてないよ。右手でそんな感じってことは、左はもっと苦手だね? 耳掃除はしっかりしないと、鼓膜が耳垢だらけになったら聞こえにくくなるし、病気にもなっちゃうかもよ。私に、任せて」
「あー、でも……」
「大丈夫安心して。私、ずっと愛梨亜の耳掃除してたから。自分で言うのもなんだけど、結構上手だよ。痛くもしないし。愛梨亜なんていっつもすぐ寝ちゃうんだから」
ね? ね? といつにない勢いでプッシュされる。その圧に俺は戸惑い気味だ。
放置、ダメ。絶対。貸しなさいと最終的には奪い取られるような形で、俺は耳かき棒を美波さんに渡していた。
美波さんは目を細めて得物の状態を確かめる。
「うーん、ベストとは程遠い。必要最低限だ。でも仕方ないか……。今度救太郎君のぶんも買わなきゃ。そういえば徳太さんの分はとっくに前からあったから、あとは救太郎君だけなんだ」
なるほど、あの親父はここ最近ずっと美波さんに耳掃除してもらっていたわけね。道理で自宅で耳かきを握る姿を見なかったわけだ。
本気の目線に気圧され、俺はついに「じゃあ、よろしくお願いします……」と口にしてしまう。それを聞いて、美波さんは大変満足そうににっこりとした。そして座卓にあったクッションを一つ手に取ると自分の膝の上に乗せ、「さ、どうぞ」とそれを手のひらで示す。
勢いに負けて思わず頷いてしまったが……。これは……これは……その……十七なった男がする行為としてはいかがなものか……。
ほんとにいいの? という意味を込めた戸惑いの視線を美波さんに向けるが、「ん?」と純真な瞳を返される。若く見えるとは言え三十代かつ既婚の女性としてはいささか純粋すぎないだろうかと思うが、考えてみれば親父はいつもこうしているわけか。それに美波さんに息子はいないし、聞けば男兄弟もいなかったという。美波さんにとっては、これが当然なのだ。
美波さんの表情が不安げな色に変わったのを見て、俺は慌ててそれに従い、美波さんの膝に乗せられた座布団に頭を預ける。
うんなるほど。やってみるとこれは中々に恥ずかしい。けれど、それと同時に全身を包み込む暖かい安心感がある。俺は今、確かにこの人の庇護のもとにいるのだ。
「よし、これでいいね。さーてやっちゃうよ~」
そんな俺の心情を知ってか知らずか(多分知らないのだろうけど)、美波さんはノリノリで耳かき棒を挿し込んできた。他人の手でされるといつもとは感覚が違って、少しだけぞわりとした。
「あ、ごめんね痛かったかしら?」
「いや大丈夫です。ちょっとびっくりしただけ。気にしないでください」
すぐに理解したことがある。美波さんは本当に耳掃除が上手らしい。そんなにグリグリとやるわけではなく力加減が絶妙で、棒もそれほど奥までは入れない。それでいて耳からはザクザクと耳垢が摘出されているようだ。つーか俺の耳こんなに汚かったんか。
「おお……! 凄い、これは大物だ……!」
美波さん、楽しそうだな……。こんなに声を弾ませてくれるのならば、俺の耳垢にも存在意義があるのかもしれない。
「あんま奥まで突っ込んだりしないのに、取れるもんなんですね。やっぱり上手なのかな」
「痛みを感じるところまで突っ込む必要はないのよ。というか、そんなところまでほじったらダメ。無理にやったら耳の中を傷つけちゃうわ。耳の穴の、手前の部分だけでいいんだよ」
そうなのか、知らなかった。でも、だとしても美波さんの力加減は絶妙だ。耳の中までマッサージされているかのよう。なるほどこれは気持ちいい。
「よし、右耳はこんなところかな。じゃあ今度はお待ちかねの左いこうか」
促されるままに顔を反対側に向けて、気付いた。目の前には美波さんの腹部がある。そしてふわりと鼻にをくすぐる優しい香り。これは……あまり……。
よろしくないのでは? と思い急遽身体を投げ出す方向を変えることで事なきを得た。それを見て美波さんは苦笑いをこぼす。
「別に気にしなくても良かったのに」
「いや、俺が気にするんです。流石に恥ずかしいっす」
「あらあら。……ん? おお~、やっぱり左側はちょっと溜まってるわね。利き手と逆側の耳は確かにやりにくいからね。でも大丈夫よ。私に任せてね」
美波さんはふん、と鼻息を荒くする。ここまで来たら全て任せてしまうのがよかろう。指摘通り左側は苦手な方だし、事実として溜まってしまっているらしいし。これは自分以外の誰かにやってもらわなくてはならないことか。
ザリ……ザリ……と耳の中に掃除の音が鳴り、かさりと垢が取れていく。外耳道の壁をコリコリと書かれる感触が気持ちいい。
美波さんは集中しているようだ。身体に顔が近いため、一定のリズムで刻まれるスースーという呼吸音と、それにより膨らんで上下する身体を感じる。
うん……。うん……。これは……確かに、ハマる人がハマるのも分かるかもしれない。心地よい音と感触……これは……クセに……なる……。
パシャリ、という音が聞こえた。
なんだなんだ? と目を開けると、ニヤつきを抑えられないといった表情でスマホを持つ愛梨亜の姿があった。
「お前っ……。なんだよ……」
「あ、ごめんごめん。起きちゃったか。でも、家に帰ってきたら超おもろい光景が広がってたからさ。こんなの撮影するしかないっしょ」
面白い……? 俺が居眠りしてる姿の何がどう面白いっていうんだ。
ん? そもそも俺はなんでここで寝落ちしてたんだっけ……?
ふわり、と鼻をくすぐる優しい香り。これは美波さんの匂い。
視線を上にやると、あらあらと微笑ましそうに笑う美波さんの顔。
「………………………っ!?」
俺は覚醒して飛び起きた。そして、恐る恐る愛梨亜を見る。
「お前……写真……撮ったか?」
「うん、撮ったよ。つーかそう言ったじゃん今」
ほれ、とスマホの画面を見せてくる愛梨亜。そこに写っていたのはやはり――というよりはそれ以外にないのだけど、美波さんの膝の上で眠りこける俺の姿だった。こんなデータを愛梨亜に握らせておくわけにはいかない。
「消してくれ、今すぐ」
「え? やだ」
「なんでだよ! 何に使うつもりだ?」
「それはまあ……いざという時……?」
「ど、う、い、う、時だよ!」
「まあいいじゃんか。別にあたしだって、これをネットにアップロードしてやろうなんて思ってないよ。ただ、キュウが生意気言わないようにするための、お守りというか……」
そんなもんお守りにすんなと問い詰めるが、愛梨亜はケラケラ笑いながら逃げ回っていく。奴め、中々素早い。
ドタバタと騒ぎまわる高校二年生二人を見て、美波さんは楽しそうに笑っていた。
……確か最初は耳掃除から始まったはずの話だが、どうしてこうなった?
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