第8話 退治とラッキースケベ

 伊波は自分の部屋の前まで俺を連れて行くと、ぎりぎり人一人通れるくらいの幅で扉を開けて俺を中に連れ込んだ。


「おい、どういうつもりなのかいい加減言えって」


 小声で問いつつ、鼻をくすぐる女子の香りに気を引かれてしまう。

 伊波の部屋には初めて入った。全体は白でまとめられて、金髪巻き髪露出バンザイな見た目からは想像つかないくらいに落ち着いた印象を受ける。


 ところどころにはグレーとピンクの差し色があり、棚には小物類が俺には絶対に真似できないようなセンスの良さで並べられていた。整然とというわけでもないのに不思議とまとまっている。一体どんなテクニックがここに込められているというのだろう。


 慣れない……というか生まれて初めて足を踏み入れる同年代女子の部屋に、どうにも落ち着かない気持ちがして俺は思わずきょろきょろと不躾に見渡してしまう。

 そんな俺の様子を見て、伊波はじっとりとした視線を向けてくる。


「あんまジロジロ見んなよな」


「あ、ああ、悪い。つい気になって」


「気になってって……何が? あたしの部屋が? きも」


「ちげえわ。お前の部屋になんか興味ねえよ。同い年の異姓の部屋って入ったことなかったから興味深くてな」


 言ってから思うが……これあんまり弁明になってねえな? どうにも良くない。口を開けば墓穴を掘り進んでしまうような勢いがある。やっぱり女子と会話するのは苦手だ。つい変なことを口走ってしまう。

 失態を誤魔化すため、俺は当初の質問を掘り返す。


「で、こんな時間に何の用なんだって」


 伊波はぎゅっと口を結んで表情を固くする。


「…………むし」


 むし? 無視? 黙秘ってこと?


「虫が……出た」


 ああ、虫か。


「なんだそんなことかよ。こんな時間に突然押しかけて拉致してくるから、何事かと思ったじゃねえか」


 伊波は口を尖らせながら「うるせえな」と呟く。


「で、虫ってどんな?」


「……足が多くて、早いやつ。結構でかい」


 なるほどそういうやつか。動きが早いのは厄介だな。


「どこにいたんだ?」


「捕まえてくれるの?」


「そのために俺を連れてきたんじゃないのか?」


 目を少し丸くして伊波は「確かに」と言う。その反応に、俺は思わずなんだそらと笑ってしまった。

 伊波はスッとベッドを指差した。


「ベッドの下から出てきたんだけど、見た瞬間部屋から一回逃げちゃったから今はどこにいんのか分かんない」


 覗いていいかと了承をとった上でベッドの下を覗き込むが、件のやつは影も形もない。一度出てきたのだから、どこかに居場所を移したのだろう。あと考えられるとすれば……。


「棚の裏とかだよなあ……」


 物が落ちないように気をつけながらズズっとずらしてみるが、こちらも空振り。


「押入れの中とかも考えられるけど、正直分かんねえなあ。時間も遅いし、今日はとりあえず寝たらどうだ?」


「やっっだよ! こんな部屋で寝れないって!」


 まあそりゃそう言うよなあ。うーんどうしたものか。案が思いつかん。

 とりあえず、不安そうな顔を見せる伊波に声をかけておくことにする。


「しかしお前も災難だな。まだこの家新しいのに虫とは」


「さっき思い立って棚の位置変えたんだけど、結構埃が舞ってさ。だから窓開けてたんだけど、網戸もちょっと隙間空いてたみたいで。多分、そこから」


 なるほどなあ、それはちょっと不注意だったなあ、と言って気がついた。


 伊波の……脇腹のあたりに、何か……ひっついてないか? 黒くて、なんかチクチクしてそうなやつ……あ、あれ足か。例のやつだ。足が多い系の、やつだ。

 伊波は不安そうな顔を崩さないが、平静は保っている。その様子を見るに恐らくこの事態を認識してない。


 どう……したものか。


 事実を言えば伊波はきっとパニックになるだろう。だが、やつはしれっと気づかれないまま拭い去れる位置にいない。捕獲しようと近づけば、確実に伊波は不審に思うし嫌な顔をするだろう。


 そうこうしているうちに伊波は姿勢を変え、胸の下で腕を組む。ああお前、そんな無防備に動いたら……。

 なんとか大丈夫だったようだ。やつは未だ伊波の脇腹、ヘソくらいの高さにとどまってじっとしている。


「さっきから何? 人のことじろじろ見てさ。あたし、別にやらしい目で見られるためにあんたを呼んだわけじゃないんだけど」


 うるせえ。お前、今それどころじゃねえぞ。


 もたもたしてるとやつがまたササっと動き出してしまうかもしれない。悩んでる時間はないか。

 さすがに素手でああいうのを掴めるほど俺は漢気に溢れていないので、ティッシュを五枚くらいボボっと抜いて右手に持つ。

 そして伊波に向き直った。


「伊波、絶対に動くなよ? じっとしてろ?」


「は? 何いきなり」


「いいから。お前のためを思って言ってるんだ。あと下は向くなよ。壁見てろ」


「なにそれ、どういうこと? それって、つまり……」


 伊波の首がゆっくりと下を向く。バカ野郎見るなと止めるよりも早く、自分の身体に引っ付いている生物の存在に気が付いたようで、ゆっくりと目が見開かれる。


「イヤッ…………!!」


 一瞬だけ悲鳴を上げるがその先は声にならなかったようだ。パニックになって身体をゆすり始める。もはや迷ってはいられない。


「お、落ち着け落ち着け! 今取ってやるから……!」


 この手の虫に生理的な嫌悪感がないわけではないが、意を決して俺は真っすぐにティッシュを握った手を伸ばす。

 しかし止まり木にしていた存在がジタバタと暴れ始めたのを嫌がったのか、迫りくる捕獲の手を野生の勘で察知したのか、ヤツはうぞうぞと素早く動いて俺の手をすり抜けていった。


 流石のスピード。鳥肌の立つ気持ち悪さだ。俺が二度取り逃した隙に、奴はそのまま伊波の身体を駆け上がる。「いいぃぃぃ!」と限界ギリギリの声が絞り出される。まずい、このままだと伊波の精神が崩壊してしまう。

 そして、ついにやつは伊波の胸の膨らみへと登頂した。なんという蛮行。男連中が知ったら、必ずやお前を丸焼きにした上で八つ裂きにするに違いない。


 などと言っている場合ではなく、大問題が差し迫っている。

 伊波は今、割と胸元の空いた服を着ている。やつなら容易にその中へ潜り込めるだろう。

 自分の服の中にあんな虫が入り込んできたらと思うと……俺でも半泣きでパニックになる。一生もんのトラウマ確定だ。それは、ちょっと酷ってもんだろう。

 俺はほとんど反射的に、何も持っていない方の左手を目標へ向けて伸ばした。

 ついに標的を捕らえた! と同時に、俺は伊波の胸を思い切り鷲掴みにしていた。


 ふわりとした手触り。握ればこぼれ落ちてしまいそうな、それでいてしっかりとした柔らかさ。恐らく、この世にあるものの中でトップクラスに尊い存在。全高校生男子の夢。


 そしてうぞうぞ、チクチクとした鳥肌必至の感触。手のひらで感じるうねうねとした動きが、その下に捕らえた生命体の存在を嫌でも感じさせられる。


 考えうる限りでの最高の触感と最低の触感を、俺は今同時に味わっている。気持ちが混乱しているのがわかる。手を離したくない。ずっと触っていたい。……でも今すぐに払い除けたい。手を洗いに行きたい。おいなんだこの気持ちは。処理しきれないぞ。頭がおかしくなりそうだ。


 相反する二つの感情が混ざり合いそうで混ざり合わず、二色を維持したままにグルグルと胸の中で渦巻く。そのカオスを処理できず、俺は思わず動きを固めてしまう。

 その隙を、伊波は見逃さなかった。


「何っ……! すんじゃあ!!」


 バシンと鋭い衝撃が俺の顔面の中央部に叩き込まれた。

 

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