第23話 頭を回せ
自宅での愛梨亜は昨日までとなんら変わらない空気感をまとっていたが、明確に俺のことを無視していた。俺はちゃんと謝りたかったのだが、適切な言葉と気持ちの整理がつかず、声をかけられないままだった。
両親たちは流石に何か違和感に気が付いたようだった。
食後の皿洗いをしていると、美波さんがそっと寄ってきた。愛梨亜は今リビングのソファに座ってテレビを見ている。ひそひそ声で美波さんが俺に話しかけてくる。
「救太郎君……ひょっとして、愛梨亜と喧嘩した?」
「まあ……はい。喧嘩というよりは、俺が一方的に愛梨亜を怒らせてしまったって言う方が正しいんだけど」
「あの子も結構頑固だからねえ……。大丈夫、きっとまた仲直りできるわよ」
そう言って美波さんは柔らかく微笑む。俺はあいまいに口角を上げてそれに答えた。
仲直り……その芽はまだ見えていない。第一、俺は愛梨亜が腹を立てている理由をちゃんとは理解していないのだ。なんとなくニュアンスは掴んでいるとは思うが、その程度。だから言葉になって出てこないのだ。
愛梨亜に伝えるべき言葉を……俺は見出すことができるのだろうか。
学校での俺達はというと、これがまた今までが嘘のように会話をしなくなった。ただ隣の席にいるだけ。
そして一部女子から向けられる敵意の視線もより強くなったような気がする。
けれどまあ、これは今まで通りと言えば今まで通りだ。それに遠巻きに悪意をぶつけられることはあっても、何か実害が出るわけじゃないんだ。だから気にしなくても大丈夫。
けれど、おかしい。
悪意の声がこんなに耳に届くことなんて、これまであっただろうか。単純に言われている絶対量が増えているのかもしれないが、以前はそう気になる程度ではなかった。
……いや、違うな。俺が前よりも気にするようになってしまったんだ。俺の心が直近で弱くなってしまったんだ。
愛梨亜と笑いあい、端場や丸山となんでもない話をし、他の女子とも少しは会話をするようになって、硬く保持していた俺の心は柔らかく、そして脆くなってしまったのかもしれない。
休み時間に端場がいないとき、俺は大抵席に座って本を読み時間を潰している。しかし今日はどうにも集中ができない。周りの喧騒が妙にうるさく聞こえてしまっていたからだ。こんなことは今までなかったはずなのに。
ハァ、だめだ頭に入ってこない。……トイレにでも行くか。
パタリと文庫本を閉じて席を立つ。教室の出口で危うく女子とぶつかりそうになり、とてもとても迷惑そうな視線を喰らいつつ俺はトイレへと向かった。
廊下を歩く生徒とすれ違う。その中で、一人の男子生徒が俺の姿を認めると「おい」と無造作に声をかけてきた。
なんだ? ……というか誰だ? 同じ学年と言っても三百人近い数の生徒がいるし、何より俺の人間関係は一般のそれよりも希薄だ。ぶっちゃけ、顔が分からないやつの方が多い。
「あー、俺に何か用か?」
名を知らぬ何某へ戸惑いがちに返事をする。奴は俺のことを不躾な目つきでジロジロと眺め回した。相手をなんとしても見下さんとするような、嫌な表情をする奴だ。
「お前、なんかこの前調子づいたこと言ったらしいじゃん?」
「いや分かんねえよその情報じゃ。何を聞いたんだお前は」
「山本が言ってたけど、自分以外はみんな馬鹿みたいなこと抜かしたみてーじゃん? 成績が良いとかそんなくだらねえことでイキってんじゃねえよ」
ああ、そのことか。挑発が目的だったからある程度汚い言葉を使ったけど、別にそういう意味で言ったわけじゃないんだけどな。山本のやつ、適当なこと言いふらしやがって。
「山本からどういう話を聞いたか分かんねえけど、俺の認識とは少し齟齬があるな。……大体、なんで俺が山本に言ったことに対してお前が出てくるんだ? 関係なくねえか?」
そう言うと奴は表情をさらに歪ませた。これは怒りの色だ。
「女子相手にイキり散らかして、クソダセーことしてんじゃねえよ。そういうのムカつくんだよな。大体、聞いたぞお前。伊波愛梨亜と同棲してんだってな」
「同棲じゃねえよ。親同士が再婚しただけだ。誤解招くようなこと言うんじゃねえよ」
「ハッ、伊波とはなんでもねえとか言ってたみてーだけどよ。ホントは下心で近寄ったんだろ? いいよな。同じ家にあんなエロい女子がいてよ。尻も軽そうだしな。おめーも毎日充実だな? やりたい放題か?」
何某は口の片端を歪めて嘲笑する。なんだこいつは。ただ俺の神経を逆撫ですることだけが目的か?
普段であればこういう奴は相手にしないのだが……。どうにも聞き捨てならないことを言ってきやがるので思わず言い返してしまう。
「あんまふざけんなよお前。アイツのことまで適当言いやがって。んなこと言うってことは、お前伊波と話したことなんてねーんだろ。知らねえくせにお前の勝手なイメージで汚えレッテル貼りしてんじゃねえよ。何がしてーんだお前は?」
俺が言われる分には、もちろん良い気分はしないが、まあいい。
だけど、愛梨亜のことまで悪く言われるのは看過できない。俺のせいであいつにまでネガティブな評判を広げられてたまるか。あいつにまで――。
瞬間、頭の中にかかっていた靄が僅かに晴れた気がする。ほんの僅かではあるが、理解できたような気がするのだ。愛梨亜が俺に対して抱いた怒りの原因の一端に。
家族のことを悪く言われる。なるほどこれは実に気分が悪い。頭で考えりゃ、そりゃ気持ちのいいものではないだろうと分かる。だけど実感を伴って理解させられたのはこれが初めてだ。
俺はこんなことを愛梨亜に押し付けていたのか。こんなことで愛梨亜を助けたつもりだったのか。
――そりゃ、怒られて当然だな。
唐突に降って湧いた自己嫌悪で、俺は思わずふっと自嘲の笑みを漏らしてしまう。
上げてしまった口角をどのような意味で理解したのか、何某の怒りはますますヒートアップした模様で、顔色を赤くしてずんずんと距離を詰めてきた。
「何がおかしいんだよ? あ? てめー人を舐めんのも大概にしろよコラ」
顎を下げて下から睨め付けつつ、何某はガッと俺の胸ぐらを乱暴に掴んできた。そのまま廊下の壁にダンっと背中を押しつけられる。
廊下のど真ん中で突如揉み合いを始めた俺たちを見て、周囲の連中もにわかに「なんだ?」「喧嘩か?」とざわつき始める。まずい、面倒なことになりそうだ。
腹は立ったものの流石に暴力沙汰を起こすつもりはなかったが、このままだとそれも危うい。とはいえ奴は俺の態度もあってかなり頭に血が昇っている。こんな状態のやつに俺が何を言ったって逆効果だろう。
どうしたものか……と思っていると、俺たちの間に割って入ってくる存在があった。
「ちょちょちょ、どうしたんだよお前ら落ち着けって」
端場が駆け寄ってくると、俺に掴みかかる何某を引き剥がしてくれた。
「廊下で暴れんなって。何があったんだよ木村。救太郎がなんかしたのか?」
「コイツが人を馬鹿にしたようなことばっか言いやがるからよ!」
木村とやらの言葉を聞いて、端場はちらりと俺を見やる。腹が立って必要以上に神経を逆撫でするような言葉を使ったのは、まあ事実だ。俺はばつの悪そうな顔で端場にうなづいて見せた。
「まあまあ落ち着けって。確かに球太郎の態度はちょっと悪い時もあるけどよ。誤解だって。とにかくこんなとこで喧嘩はよせ。な?」
端場がなだめると、木村はだんだんと落ち着きを取り戻してきた様子だ。なおも俺への怒りは冷めやらぬようで睨む目線は外してくれなかったが、少なくとも胸ぐらからは手を話してくれた。
「自分が特別だとでも思ってんのか? あんま調子こくなよ。そんなんだから嫌われんだよ」
そう言い残し、木村はずんずんと足音を立てて去っていく。
その背中を見守ると、端場はハァとため息をついた。
「どうしたんだよ救太郎、お前らしくもない。何があったんだ?」
「悪い……。あいつに、愛梨……伊波のことを悪く言われてよ。ちょっとムカついて、言い返した」
なんでそんなことに? という顔をされたのでことのあらましをざっと説明する。
「ああなるほど。あいつ、山本から話を聞いてたのか。なら納得だ」
「……? なんでだよ?」
端場は一瞬だけ迷う様子を見せたが、問いに答えてくれた。
「木村は、山本のことが好きなんだよ。おまけに、その……ちょっと自分を大きく見せたがるやつだから。お前に突っかかったんだろ」
「なんだ、そんなことでかよ」
「そんなことって言うほど小さいことじゃねえぞ。救太郎は分からねえと思うけど、山本は女子にも男子にも人気あんだよ。味方が多いんだ。即ち、お前の敵も多い」
呆れた声を出した俺を、端場は真剣な顔で戒めた。
「周りと上手くやることもいい加減覚えた方がいいぞ。誰だって、仲良いやつが悪く言われてるのを見ると辛くなるし、それをさも当然のように受け入れてる様子を見ると腹立ってくるんだよ」
「そうだな……。木村に言われて思い知らされたような気がするよ。俺は今まで幼稚すぎたんだな」
「ま、救太郎なら大丈夫だよ。だってお前頭いいから。ちゃんと考えれば分かるはずだ。愛梨亜ちゃんとも仲直りできるさ」
端場はそう言うと、俺の方をポンと叩いて去っていった。
残された俺の頭はぐるぐると回り始める。愛梨亜に伝えるべき言葉を探すために。
すぐに答えは出せそうにない。けれどそれでも、頭を回すのをやめてはならないのだ。
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