第24話 嵐の夜に
ドカーンと鳴り響く地響きで俺は目を覚ました。
ふと気が付くと日はほとんど落ちていて、家の中は外から差し込む街灯の光でわずかな明るさを保っていた。窓には殴りつけるような雨がぶつかり、風でガタガタと揺さぶられている。
今朝見た天気予報では夕方から荒れ模様とのことだったが、まさかこれまでとは。年に数回あるかないかの暴風雨じゃないか。夏の雷雨の威力は恐ろしいな。
昼寝の床としていたソファからのそりと起き上がってリビングの照明をつける。白色の照明が目にまぶしい。……こんなにまぶしかったか? なんだか冷たさすら感じるような白だ。
自然が打ち鳴らす騒音とは対照的に、家の中はしんと静まり返っていた。
美波さんは昨日から明日にかけて二泊三日の東京出張に出かけている。親父はといえば、今日は当直の日らしく家に帰っては来ない。そして愛梨亜は夜までアルバイト。
両親が二人ともいないということで、昨日愛梨亜から短いメッセージで「明日の夜外で食べるから」と報告があった。つまり、今宵我が家は俺一人というわけだ。
この天気じゃ外に飯を買いに行く気にもならない。かといってカップ麺という気分でもない。冷蔵庫を開くと、幾分かの食材が残っていたのでこちらを使って適当に料理をすることにした。
俺一人が食うために作る飯だ。ちょっと前まではこういうのはザラだったが、最近はというとさすがに久しぶりだな。親父がいないことはちょくちょくあったが、美波さんも愛梨亜もいない日は、この家に越してきたから初めてのことだ。
トントントンと適当に野菜を刻み、鶏もも肉と一緒にフライパンにかけて調味料をぶちこむ。俺の得意料理である名前のない炒め物だ。だけど、手際もクオリティもかなり向上したように思う。
愛梨亜の熱心な指導の賜物だな。最近は包丁の握り方でとやかく言われることもなくなってきた。
ジュージュー、パチパチと油が跳ねる音が響く。雨の轟音と合わさってかなりやかましいことになっている。それなのに、なんでこんなに静けさを感じるんだ?
出来上がった炒め物をフライパンのまま、チンした冷凍ご飯とインスタントの味噌汁と一緒にテーブルに並べる。我ながら結構まともにできてるじゃないか。焦げても無くて見た目も匂いもいい。これはいよいよ肉野菜炒めと名付けてもいいかもしれない。
なのに……何故だ? 一ミリも感動が湧いてこない。上手にできたとか、美味そうとか、そういう感情が湧いてこないのだ。ただ空いた腹にこいつらを詰め込むだけ。飯の時間ってのは、こんなにも無感動なものだっただろうか?
いや、違ったはずだ。コンビニ弁当を食べる時ですら、俺はある程度の感動を覚えていたはずだ。これ気になってたんだよなとか、最近はコンビニ弁当も美味いよなとか、次はあれを食ってみるかとか、そんな色々な想いを抱きながら食事についていた。
肉野菜炒めを口に運ぶ。やっぱりよく出来てはいる。けれど何かが物足りない。
雨音がうるさい。けれど心に感じるのは静けさだ。たまらずテレビを付けると、最近よく見るお笑い芸人がひな壇でトークを披露している。その笑いが異様に空虚に感じられて、たまらず俺はテレビを消してしまった。
なんだ? なんでこんなに胸がざわつくんだ。なんでこんなに落ち着かないような気持ちになるんだ。自分の家だぞ? 家で一人で飯を食うことなんて子供の頃から腐るほどあったじゃないか。だけれど、こんな感覚を抱いたのは初めてだ。
何かが変わったんだ。そう、俺の生活はここ最近で一変した。親父と美波さんが結婚して、俺は愛梨亜の義弟になった。それまでは、こんな気持ちにならなかったはずなんだ。家で一人で飯を食ってたって、空虚さなんて感じることはなかったんだ。
俺は……こんなにも情けないやつだったのか? 小さい頃に母親が出ていき、仕事で忙しい親父を心配させまいと、一人でなんでもこなせるようにと、俺は強くあろうとしたはずだ。あいつの義弟になるまでは、確かに強かったはずなんだ。
思わず箸を置く。脳裏によぎるのは愛梨亜の笑顔だ。あいつの笑顔はいい。いるだけで周りの温度を上げる。白色の照明も暖色系の雰囲気を帯びる。
あいつの顔が見たいと、素直に思った。そして、そんなことを思ってしまった自分に驚愕した。
そういえば、愛梨亜はちゃんと帰ってこられるのだろうか。この暴風雨の中、あいつは徒歩と電車で帰ってこなければならない。大丈夫だろうか。
ふと思い立って、リビングを出て玄関を見る。ドア脇にある傘立てに、思わず視線が吸い寄せられる。そして、思わず呟いてしまった。
「あいつ……傘忘れてんじゃねえか……」
傘立てにぶっ刺さっているのは、確かに愛梨亜が使用している水色の傘だった。そういえば、帰宅して自分の傘を突っ込んだ時に違和感があったんだ。朝は薄く晴れていたとはいえ、よりによって今日傘を忘れていくとは不用心な。
愛梨亜は折りたたみ傘の類を持っていない。つまり、あいつは確実に今日傘を持っていない。
胸のざわめきが増している。皮膚の下で内臓がそわそわとうごめいているようだ。じっとしていられないような、じっとしていることを許さないような落ち着かなさ。
吸い寄せられるように玄関扉に手を伸ばす。そして、少しだけ開けてしまった。
バケツの水をぶちまけたような凄まじい豪雨だ。地面や家の壁を叩きつける音がダイレクトに響く。雨が玄関にも入って来たので、俺は慌てて扉を閉める。そして家の中へ引き返した。
俺は今、何をしようとした? 愛梨亜の傘に手をかけようとして、玄関を開けて外の様子を伺って。俺は高校生だ。免許を持っていない。車も当然動かせない。俺のもつ移動手段は愛梨亜と同様に徒歩だ。
愛梨亜のことは心配ではある。けれど、現状俺にできることは何もない。俺が動くことで状況を好転させるようなことはできない。
第一、あいつだってもういい年だ。それに愛梨亜もシングルマザーの家庭で育っただけあって、大抵のことは一人でもなんとかできる強さがある。俺が身に着けようと努力したそれと同質のものだ。
傘を忘れたからってなんだ。ファミレスにも置き傘みたいなやつはきっとあるだろう。仮になかったとしても、コンビニかどこかで買えばいい。……いや、愛梨亜はビニール傘を買わないか。「すぐダメになっちゃうから、むしろ高くつく」と前に言っていた気がする。でもまあ、それでも打てる手はいくらでもある。
必要以上の心配は無用だ。愛梨亜は自分でなんとかできる。俺が何かをする必要はない。そうだ。そのはずじゃないか。
悶々と考えながら俺は歩を進める。ぐしゃりぐしゃりと水音を含んだ足音が、雨音に混じって耳に飛び込んでくる。靴の中は十歩も歩かないうちに水浸しになった。
俺は傘を斜めにし、横殴りの雨をなんとか凌ぎつつ夜道を歩いていた。
俺は、何をやっているんだ……?
容赦なく叩きつける雨風は俺の全身を確実に濡らしていった。傘をしていたとは言え、明確に守れてるのは精々鎖骨のあたりまでがいいところだ。
けれど電車を降り、愛梨亜がバイトしている(そして俺もわずかな期間だけヘルプで働いていた)ファミレスの看板が放つ光を見つけた頃には、雨のピークはすっかり過ぎ去っていた。雨の勢いもしとしとといった小雨程度に落ち着いている。場合によっては傘を刺さなくてもいいかと考えるくらいの雨量だ。
そんな中を、身体の八割五部ずぶ濡れ状態になった俺はぐしゃぐしゃと足音を鳴らしながらファミレスへと向かう。
…………向かって、どうする? そもそも俺は今裏口を勝手に開けていい身分なのか? なら客として……行ってる間に愛梨亜のシフトは終わるだろう。外で待ち続けるのは気持ち悪いか。
ここまで足を運んでおいて、いざとなったら二の足三の足を踏み始める。
そうこうしているうちに、裏口の方から馴染みのある声が聞こえてきた。
「あっ、雨だいぶ弱まってる。店長、今ならいけるんで、送ってもらわなくても大丈夫っすよ。その時間でキリキリ働いてください」
「バカ言っちゃいけないよ。今は少し収まってるけど、またさっきみたいに降らないとも限らないだろ? それに何かあったら、僕は伊波さんの御両親に顔向けできないし、なんならお店の皆に怒られちゃうよ。夜のピークも収まってきたし、遠慮しないで。車を使えば二十分もかからない距離なんだから」
愛梨亜と内田店長の姿が現れた。店長の手には鍵。少しくたびれた軽バンのものだ。それを見て俺ははたと足を止める。
そうだよ。冷静に考えてみればそうだ。あのファミレスには既に免許と車を所持している人がいる。そして、内田店長を筆頭にして皆揃いも揃って良い人達だ。天が乱心したかのような暴風雨の日に、徒歩で帰宅しようとする愛梨亜をそのまま放っておくわけがないじゃないか。
自分への呆れと気恥ずかしさで立ち尽くしてしまうが、軽バンに乗り込もうとする愛梨亜と視線がかちあいそうになり、俺は慌てて踵を返して駆け出した。
バシャバシャと水が跳ねるのも構わず、見えなくなるところまで走って逃げ出す。どうせズボンはもうぐしょ濡れだ。構うことはない。
「俺、何やってんだろうな……」
こんなずぶ濡れになって、忘れてた傘届けに来たぞって、いくらなんでもおかしい。普通の行動ではない。
なのに俺はそれを決行してしまった。普段の俺ならば絶対に犯さないであろう暴挙だ。なぜなら、そう。俺はそうまでしてでも愛梨亜の顔が見たかったのだ。伝えたいことがあったのだ。
まあ、もう逃げ出しちまったんだけどな……。
とりあえず帰るかと、雨を吸い切って幾分か重みを増した身体を動かし、駅へと歩き出す。
その瞬間、がしりと肩を掴まれた。
驚いて後ろをバッと振り返る。そして俺はさらに仰天して目を丸くしてしまう。
「あ、あんた……。何を……やってんの? こんな天気の日に……。こんな……ところで……」
髪を乱れさせ、胸を抑えながら荒れた息を整える愛梨亜がそこにはいた。
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