第25話 夜を駆ける

「お前っ……。何やってんだよ」


「それはこっちのセリフだって。キュウこそ何やってんだよ?」


「店長の車で帰ったんじゃなかったのか?」


「こんな時にこんなところであんたを見かけたから、何かと思って追っかけてきたんだよ」


 そう言って愛梨亜は訝しげにびしょ濡れの俺を見る。やがてその視線は、俺が右手に持っているものに吸い寄せられていった。


「それ、あたしの傘じゃね? ……え、なに? そういうこと? マジで? 正気?」


 バレてしまった。愛梨亜が恐らく察した通り、まさにそれが目的でここまで来たわけだが、改めて言われると恥ずかしい。自分自身、なんでこんなことをしたのか未だに分かってないのだ。

 返答する代わりに、俺は無言で傘を愛梨亜に押し付ける。ぽしょりと「あんがと」とお礼が返って来た。


「愛梨亜お前、どうすんだ? どうやって帰るつもりだ?」


「は? どうもこうもないでしょ。店長には家族が迎えに来てくれるって言って断っちゃったし、普通に歩いて帰るわ。今なら雨も弱いし。……ちょうど傘も手に入ったし」


「そか。……じゃあ、行くか」


 そして俺達は並んで駅までの道を歩き出した。しばし無言が続く。傘を届けに来た本当の目的は、愛梨亜と話をしたかったからなのだが、ここに来て勇気が出せず口が開かない。俺ってこんなにヘタレだったか? ここ数日というもの、俺の自尊心は粉々だ。

 いつ話し出すかともだもだしていたら、愛梨亜の方から口火を切ってくれた。


「家族が迎えに来てくれるんで、か。考えてみればそんなこと言ったの初めてだな。ま、来たやつはびしょ濡れだし、結局普通に歩いて帰ってるし。これを迎えと言えるのかは審議だけど。……つーかキュウ大丈夫なのかよ。こんなんで風邪でも引いたら笑えねーぞ」


「家出る前に風呂沸かしてきたから。帰ったら速攻で湯船に浸かれば大丈夫だ。風邪は引かねえ。俺が風邪引くと、お前が心配するからな」


 そう言うと愛梨亜は「は? なんだそれ。しねーよ心配なんか」と口では悪態をつきつつ少しだけ笑った。


 確かに自分で口に出すのはちょっと、いやかなり恥ずかしい内容ではあった。けれど俺には気付いたことがあるのだ。愛梨亜にどう伝えるか、ずっと悶々と考えていたことが。

 ついに俺は、それを口にした。


「そうまでして無理やりやって来たのは、愛梨亜にちゃんと謝りたいことがあったからなんだ」


「え? ……ああ。もういいよ。あたしも少し怒りすぎだったと思うし、キュウに悪気がなかったことも分かってるし」


「俺は、俺のことを大切に思ってくれている存在に対して、無頓着過ぎたんだな。そのことに、ようやく気がついたんだ」


 やっと、口にできた。

 ついに俺が理解できたことで、俺の犯した罪について。愛梨亜が俺に対して腹を立てていた本当の理由について。


「小さい頃に前の母親が出ていって、親父と二人になってよ。親父は知っての通り激務だし、その合間を縫って俺を育ててたし、子供の頃の俺から見てもとにかく余裕がなかったんだ。別にピリピリしてたとかそんなんじゃないけど、顔色とか疲れ具合とかな。いつ寝てるのかも分からねえくらいだったし」


 一呼吸置いて続ける。


「だから俺は、親父に心配をかけないように早く自立したかったんだ。自分のことは自分一人でなんとかして、学校で得られる評価も上位を保って、自分が親父の負担にならないようにしたかった」


「それは、分かるよ。あたしも同じだもん。お母さんにちょっとでも楽させてあげたくて、家事は速攻で覚えたし、バイトしてあたしにかかるお金を少しでも減らせるように頑張った。やったことは違うけれど、あたしとキュウの根っこは同じなんだよ」


 愛梨亜はそう言ってくれるが、俺は首を横に振ってそれを否定する。


 確かに俺と愛梨亜は同じようなことを考えたのかもしれない。けれど、愛梨亜は理解していて俺は理解していなかったことがあったのだ。それは高校で上位の成績を取ることよりもずっと重要で価値のあることで、その点で俺は愛梨亜よりも数段愚かだった。


「さっき、家で飯食ってたんだけどよ。そん時にふと思ったんだよ。あれ? 飯ってこんなに美味くなかったっけ? ってな」


「単純にキュウの飯がまずかったんじゃね」


「やかましい。茶々を入れるな。確かに愛梨亜の飯と比較すりゃレベルが三周りくらいは劣るけど、俺の中では結構いい出来だったんだぞ? 味も美味かった」


「ん? でも美味しくなかったんでしょ?」


「ああ、美味くなかった」


 そう言うと愛梨亜は露骨に「何言ってんだお前。頭おかしくなったんか?」という顔をする。


「一人で食う飯は皆で食う飯よりも美味くないんだなって気がついたんだよ」


 愛梨亜はぽかんと口を開けた。


「なんじゃそら。そんな当たり前のことにいまさら?」


「そうだよな、当たり前だよな。だから俺は馬鹿だったんだよ。恥ずかしながら、今日さっき理解した。ここ最近で、家族で食卓を囲むことが俺の基本になって、そしてやっと分かったんだ。お前の義弟になるまでは気が付いてなかったんだよ」


 はっ、愚かな弟だと言われてしまう。ぐうの音も出ないな。


「そんで? 今日久しぶりに一人飯して、一緒にご飯を食べてくれる人のありがたみを知って、寂しくなっていてもたってもいられずあたしに会いに来たってわけ?」


「ああそうだ」


 間髪入れずに回答すると、愛梨亜は面食らったような顔をした。


「即答かよ。今日はどうしたんだ? いつになく素直でストレートだな。頭でも打った?」


「いや記憶に残る限りでは頭部にダメージは受けてないはずだ」


 まあ頭打って記憶飛ばして覚えてないという説もないわけではないが。痛みがあるわけじゃないので大丈夫だろう。外傷はあるのに痛みを知覚できていないんだとしたらいよいよヤバいかもしれないけど。


「とにかく今更分かったのは、俺の周りには俺を大切にしてくれる人がいるんだってこと。頭では理解してたつもりだったんだけど、やっと肌で分かったよ。だから俺もそういう人達を大切にしたい」


 いや、しなきゃいけないんだ。


「そのためには、俺自身のことも大事にしないといけないんだよな。だって、俺が傷つくのを見て周りの人は胸を痛めるんだから」


「そんな小っ恥ずかしいことをつらつら言えるなんて……。ほんとにキュウ? 偽物か? 通報するか?」


「やめてくれ本物だ。天と、冷蔵庫の中に入ってる愛梨亜の名前が書かれたふわふわスフレチーズケーキに誓う」


「それはあたしが今日この後食べるつもりの……。ということは、本物?」


 だからそうだって言ってんだろうが、と返すと愛梨亜はケラケラと楽しげに笑った。久しぶりに見た、愛梨亜の笑顔だ。不思議と胸がスッと明るくなったような気がした。


「やっぱ今日のキュウはおかしいよ。頭打ってないとしたら、熱? こんな傘一本のために電車乗ってびしょ濡れになったからじゃね。普通はやらないよそんなこと。少なくとも普段のキュウなら絶対やらないでしょ」


「それは自覚がある。なんか……今日の俺はどうかしてた。いや現在進行形でどうかしてる」


「でもま、嬉しかったよ。迎えに来てくれて。何やってんだコイツマジかって笑えたし。家族が迎えに来てくれるって、今までなかったし。だからお礼は言っとく。ありがと。あと、やっぱキュウってめっちゃバカだな」


 にっ、と愛梨亜は白い歯を見せていたずらっぽく笑った。ちょうど街灯の灯りが愛梨亜の顔をほのかに照らす。

 小雨といえど雨の中傘をささずに駆けてきた愛梨亜の頬はほのかに濡れていた。髪はほんのり水気を含んでしっとりとしている。髪先で揺れる雫が、チラつく雨が灯りを受けてキラキラと輝き、愛梨亜の笑顔を彩った。


 写真に収めておけないのが勿体無いと思ってしまった。俺の部屋のフォトフレームに収めたいと、ついついそんなことを考えてしまう。

 ふるふると頭を振って、気持ちの悪い考えを思考から追い出した。


「どーした? 犬にでもなった?」


「いや、なんでもない。雨が目に入っただけ」


 愛梨亜が当然の疑問を寄越してきたが、適当に誤魔化す。


「そうだ愛梨亜。ひとつお願いしたいことがあったんだ」


「なによ?」


「俺って、態度悪いよな」


「うん、悪いね」


「印象も良くないよな」


「うん、最悪だね。そりゃ嫌われるよって感じ」


「だ、だよな……」


 分かっていたこととはいえ、こうもはっきり言われると傷つく。いや、はっきり言ってくれるのはむしろ優しさか。とにかく、俺は愛梨亜に頼みがあるのだ。


「印象を良くするためにはどうすれば良いのか、俺に教えてくれねえか」


 愛梨亜ははたと足を止め、目を丸くして俺をガン見してきた。


「え? ……はは、何それウケる。本気? 冗談?」


「本気も本気だ。愛梨亜、お前は誰とでも仲良くなれる奴だと俺は思っている」


「そんなこともないけどな」


「そんなこともあるんだよ。少なくとも俺からしたら。そんな愛梨亜から見て、俺の……改善した方が良いところとかを教えて、直すのに協力してほしいんだよ」


 愛梨亜はふぅん……と相槌を漏らすと、一呼吸おいて言った。


「まあキュウには色々と学校の勉強で世話になってるし、そんくらいなら良いけどさ。なんでまた急に?」


「周りの人に心配をかけないように、学校成績は上位を保って、一人で生活できるくらいの力を身に着けたつもりだけど、それだけじゃ足りないんだよな。特に学校で、愛梨亜や……端場や丸山に心配かけないように、もっと周囲と上手くやれるような人間になりたいんだ」


 本当に周りの人のことを想うのなら、その人達が俺を見た時に一切の不安なく見れる俺を目指さなくてはいけない。それはただ単にテストの点数が良いとか、運動神経が良いとかそんなことだけじゃなくて、皆の輪の中にいる自分というものを見せなきゃダメなんだよな。きっと。


「あらまあ、殊勝なことで。よっぽど一人飯が堪えたらしいね。……良かろう。ダメな弟の面倒を見るのも先に生まれた姉としての役目だ」


「つっても一ヶ月くらいしか変わんねーだろうが」


「それそれ、まずそれよ。キュウは結構語尾が乱暴なの。特に気になるのが『何々だろうが』ってやつ。『何々でしょ』とか、せめて『何々だろ』くらいに収めてもらわないと」


「お、おう。そうか、全然自覚なかった。気を付ける」


「あとは声のトーンも低いし抑揚もないから、怒ってるように聞こえる時があるよ。もーちょい高めの調子で喋ってみなよ。そんで口角も上げる。あんたはいつも下がってる。はい今の意識して喋ってみて」


 え? え? 急に言われてもな……。えーと……。


「こ……これで、どう……かなあ?」


 意識できる限りに柔らかい語尾を採用。そして声の調子も普段より二回りくらい高めに取ってみた。口角もニッと上げてみて、爽やかな笑顔だ。

 愛梨亜の大爆笑が夜道に響き渡った。闇色に沈む雨雲の層を切り裂くような笑い声だった。


「そんなに笑うなよ……。俺なりに頑張ったんだ。あと、近所迷惑だ」


「ごめんごめん。ぷっ、ははっ……! あんたって、本当にダメなんだねこういうの。写真撮った時も顔ガチガチだったし」


「苦手なもんは苦手なんだから仕方ない。だから今の状況があるわけで、それをなんとかしたいと思ってんだよ」


「ごめんって。まあ、これからのキュウなら大丈夫だと思うよ。人間的に問題があるってよりは、あんたの不器用さが問題だったから。色んなことに気がついた今のキュウならきっと大丈夫。あたしが保証するよ。この偉大な姉をどーんと信じなさい」


 そう言って愛梨亜は実際に胸をどーんと叩きながらパチリとウインクを決めてみせる。

 どこまでもこういうポジティブな所作が似合うやつだなと思っていると、


「えっ? うわわっ、マジ?」


 ドザザザーっ! と物凄い轟音を立てて、大粒の雨が空から叩きつけられ始めた。


「うそうそ! 何これあたしのせい? 胸をどーんとしたから?」


「そんな能力があるんだとしたら今すぐ祭り上げてやるよ! いいからホラ、傘させ傘!」


 よっしゃ! と愛梨亜が傘を広げた瞬間、今度は質量すら感じるような勢いで突風が吹き、傘の生地部分を根こそぎ奪い去って上空へまき上げた。


「…………え?」


 一瞬の出来事に、俺と愛梨亜は金属製の骨だけになった、ほんの少し前まで傘だったものを見つめて固まる。

 そして、二人同時に吹き出し、堰を切ったように笑い転げた。


「マジかよ! タイミング良すぎだろそんなことあんのか!?」


「ほんとそれな! ヤバいっしょ神風吹いたわ! つーか雨やべえ! もうびしょ濡れ!」


「とにかく駅まで走るぞ!」


 雷鳴と豪雨のセッション。そんな夜道を、俺と愛梨亜は二人して笑いながら走った。はしゃぐ声と足音は雨音が全てかき消し、俺と愛梨亜以外の誰の耳にも届かない。

 水たまりを踏み抜き、盛大に雨水を跳ねさせる。そのことすらなんだか楽しくておかしくて、俺は柄にもなく大口開けて笑い、駅に向かって駆けていった。

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