第26話 そして日常が戻る
町ごと滝の底に沈みでもしたのかと思うくらいの土砂降りのなか、どうにかこうにか俺達は自宅へと到着した。
家を出る前に濡れる準備はしっかりとしておいたので、玄関には既にバスタオルを用意してある。ここで滴らないくらいに全身の水気を取り、足の裏をしっかり拭いたら脱衣所へ直行。既に湯船は湧かしてあるので、冷えた体を速攻で温めることができる。我ながら完璧な計画だ。
……俺一人だったのならば。
「あんたが濡れるのなら、隣を歩くであろうあたしも当たり前にびしょ濡れになるってことくらい、ちょっと考えれば分かるでしょ……?」
髪の毛をタオルで拭きつつ呆れた声を出す愛梨亜。当然とも言えるその指摘に、俺は「だよなあ……」と返すほかない。
「で、でもよ。それを分かってたところで湯船は一つしかないんだし、結果は変わらなくねえか?」
「雨合羽でも着てくればキュウは濡れずに済んだじゃない」
「残念だったな。我が家にそんなものはない。何故なら、あれは蒸れて暑くて嫌いだからだ」
「威張るようなことじゃないっしょ……。やっぱ今日のキュウはおかしいぞ」
それは否定しない。
さて、季節は夏とはいえ全身ずぶ濡れで身体も相応に冷えている。このままいくと風邪を引く可能性が高い。しかし風呂は一つしかない。それならば。
「愛梨亜、先に風呂入ってこいよ」
「え? なに? あたしの残り湯で何する気?」
「なんもしねーよ! つーか、いつも基本的に俺より愛梨亜のほうが先に入ってるだろうが!」
なんなら俺は家族の中で一番風呂に入るのが遅い。夜型かつ、寝る直前に入浴するルーティンを持っているからだ。
「でもキュウもびしょびしょでしょ? 大丈夫なん?」
「俺は頭拭けばなんとかなる。それに、こういう時はアレだ。ほら、レディーファーストってやつだろ」
「ぷぷっ、似合わねー言葉」
「うるせえ。俺のことを気遣うなら、その分早く入ってきてくれ」
愛梨亜はうーんと考える。そして、いつになくしなだれながら顎に手を当て、少しためらいがちに言った。
「一緒に入る? 水着着て」
「ハァ? は、ははは入るわけねーだろそんなもん! いくら水着来てたってなあ! そんなことしたらもう、ダメだろ!」
「おー、いい反応だ。からかい甲斐があるね」
なんだよ、冗談かよ。……いや、なんだよって言うのもおかしいか。それよりこの女、いたいけな男子校生の心を弄びやがって。
「アホなこと言ってねーでさっさと入れ。あとそもそも俺は水着持ってねえ」
「ウソでしょそんなことある? 確かにウチの高校はプール授業ないけどさ。一着くらい持ってるでしょ」
「ないんだなそれが。中学の水着は当然小さくなったから捨てたし、授業外で海とかプールに行ったのは小学生が最後だ。だから持ってない」
か、可哀想に……、およよと愛梨亜はわざとらしく泣く演技をしてみせる。そんなに可哀想なことか?
「高校生が水着のひとつも持ってないでどーすんだ。今年は行こうな。海か……プール。夏鈴とか、端場も誘ってさ。皆で行こうよ」
「そ、そうか……? そうだな。それもいいかもな」
そう返すと、愛梨亜は満足そうにニッと笑って「んじゃ今度水着買いに行かなきゃな。あたしも新しいの欲しいし。ぶっちゃけキュウのは適当でいい。五分で決めよう」と言い残して脱衣所へと引っ込んでいった。
やれやれとため息をつき、バスタオルで頭をふきつつ、とりあえず濡れた服だけは着替えてリビングに戻る。
雨がビシバシと窓に叩きつけられ、ゴウゴウと音を立てて風が待っている。俺だけがいるリビングは静かなものだ。
だけど、その自然音にまじって微かにシャワーの音が聞こえる。この家には俺だけじゃなく、愛梨亜がいる。俺の義理の姉、俺の家族が。
家を出る前と見えている風景、聞こえている音はほとんど変わらない。けれども、俺の心には何か不思議な充足感があった。それは包み込むような温かさをもち、胸に抱きとめていたい柔らかさがある。
目に見えないけれど確かに感じられる。そんな感触に浸りながら、俺はソファにふっともたれた。
翌日、俺は見事に風邪を引いて学校を休んだ。愛梨亜は大丈夫だったようで何よりだ。
ベッドで寝込む俺を見下ろしつつ、愛梨亜は呆れた声で「俺は風邪ひかねえ! とか豪語してたくせに、なんだそのザマは」と言った。
「悪い……。ぐうの音も出ねえよ」
やれやれダメな弟だよとぶつぶつ言いつつ、愛梨亜は俺の額にぴしゃりと熱冷まシートを貼り付け、スポーツドリンクのペットボトルを三本置いていく。
「そんじゃまあ、大人しく寝てろよ。お腹減ったら冷蔵庫にゼリーと、あと作り置きは厳しいからってことでレトルトのお粥を買ってきてもらったから。水分は適宜取ること。わかった?」
オッケー、了解、助かる、行ってらっしゃいとガサガサの声で返事をすると、愛梨亜はよし、と頷いて部屋を出て行った。
その後、なんだかんだ昼休みを利用して一時帰宅してきた美波さんがお粥を作ってくれたり、たまたまバイトが無い日だったので夕方には帰って来た愛梨亜が熱冷まシートの替えをまたぴしゃりと額に張り付けてくれたり、夜になって帰ってきた親父が「風邪にはやっぱこれだろう」と桃缶を差し入れてくれたりと、家族全員の手厚い看病を受けて俺は静養を続けた。
本当に、ありがたい話だ。
感謝の想いを込めて寝まくり、翌日には気合の完治。中一日開けて俺は登校を決めていた。病み上がりではあるが、今日俺は学校でやらなくてはならないことがある。やろうと思えば簡単なこと、けれども俺としては少し頑張らなければできないことだ。
パンパンと両の頬を叩いて気合を充填し、教室の扉を開ける。一瞬だけいくつかの視線が注がれるが、すぐに逸らされる。友人が少ない上に女子からは嫌われている頭の良いだけの男が風邪でたった一日休んだ程度では誰も気にしないのだ。
けれどそんなことはどうでもいい。
俺は真っすぐに自席を目指す。隣には日差しを浴びてきらめくピンクゴールドの髪が揺れている。鞄を下ろしながら言った。
「おはよう、愛梨亜」
決行にはいくらかの決心を必要とする行為ではあったが、いざやってみると意外なほど自然に口から出てきた。まあそれもそうか。だって、家ではいつもこの調子なのだ。昨日も一昨日も、なんなら今日の朝だってこの調子だったのだ。同じように学校でもやるだけ。
そんな、なんでもない朝の挨拶だったが、そこに込める想いはあった。愛梨亜はパッと顔を上げ、目を丸くして俺を見る。そしてにやりと笑って言った。
「おう、キュウ。おはよー」
それだけで十分だった。
「しかし、キュウは朝遅いよな。起きてくるのもギリギリだし、登校時間も遅い方だし」
「夜型でついつい夜更かししちまうんだよ。その分朝は苦手だ。まあ、間に合ってんだからオッケーだろ。これでも寝坊とか遅刻はしたことないぞ。……つーか、遅刻に関していえば愛梨亜の方が常習じゃねえか?」
「それはしゃーないっしょ。ほら、前は夜遅くまで内職とかしてたから……」
ああ、そうか。そうだったな。俺と違って、こいつは美波さんの負担を減らすために自らの自由時間と睡眠時間を削って働いていたんだ。それを揶揄するようなことを言ってはいけない。
「……ん? お前、先週も一回遅刻してなかったか?」
「ああ。アプリで漫画読み始めたら止まらなくなっちゃってさ。しかも期間限定で無料公開で、その期間が終わりかけだったんだよ。こんなんもう読破するしかなくね?」
「普通に寝坊じゃねえか!」
ずばり指摘すると、ケラケラと愛梨亜はおかしそうに笑う。
周りの連中のざわめきが耳に入ってくる。当然のように会話をし、下の名前で呼び合う俺と愛梨亜を見てのことだろう。
けれど、これは俺達にとっての日常なのだ。なんら特別なことはなく、ましてや秘密にするべきことでもない。もうひた隠しになんてしない。それは不自然なことだ。
「おいっす救太郎、愛梨亜ちゃん。相変わらず仲良いな」
「別に仲良いわけじゃねえよ」
「そうそう。普通よ普通。……あ、夏鈴おはよー、朝練おつ」
「おはよ愛梨亜。有明君に端場君も、おはよう。皆楽しそうだね」
端場と丸山が集まってきた。授業開始前に男女交えた友人たちと談笑を行う。これも少し前の俺では考えられなかったこと。けれど、今はこれが俺の日常になっているのだ。
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