最終話 お母さんと呼んでよ

「お父さん、キュウ。何か言い訳があるなら聞くけど?」


 両手を腰に当て、眉を吊り上げて愛梨亜が俺と親父の前に仁王立ちしている。目力がある顔立ちなので、これが中々迫力あるんだ。

 気圧された俺と親父は自然と正座をして、可能な限りしおらしく身体を縮めていた。親父は俺よりもさらに身長が高いので苦労しているが。


 伊波家の男二人が雁首揃えて愛梨亜から説教を食らう羽目になった理由は、テーブルの上に置いてあるものにある。


「お弁当箱。ちゃんと洗ってって言ったでしょ。最悪冬ならいいけど、夏はヤバいんだって。半日もあれば熟成されて発酵されて、家に帰るころにはイヤ~な臭いプンプンになっちゃうんだって。あれほど説明して、使い捨てのスポンジと小分けにした洗剤と布巾まで用意したのに!」


 ドカーンと落ちた雷に、俺と親父はますます縮こまる。

 俺と親父が愛梨亜の怒りを買ったのは、二人揃って弁当箱を洗い忘れたからなのだ。


 学校でももはや俺と愛梨亜の関係は公然の事実となったため、あえて俺は購買で昼食を買う必要がなくなった。愛梨亜と同様に弁当を持参すれば良いのだ。愛梨亜と中身が同じ弁当を食べていたとしても、それは当然のことなのだから。

 愛梨亜の言う通り、確かにしつこいほど食べ終わったら洗うよう念押しされていた。スポンジも洗剤も布巾もしっかり受け取った。それでいて忘れてしまったのだ。


 なおも鬼の形相を崩さぬ愛梨亜を、美波さんが優しく嗜める。


「ま、まあまあ愛梨亜。しっかり洗えば大丈夫だし、明日から気をつけてくれれば……」


「ダメだよお母さん! こういうのは最初が肝心なの! しかも物が物だから、自然に定着するまで待ってらんないの! それより先にお弁当箱が腐る!」


「愛梨亜ちゃん、本当にすまなかった! 今日は仕事が立て込んでて、急いで昼食だけ食べてまたすぐに業務に戻ったんだ。後々、空いた時間で洗おうと思ってたんだが、忘れてしまって……」


 なるほど親父は仕事が理由……と。

 親父に関して言えば以前からずっと弁当を持って行ってたはずなのに、なんで今日に限って洗うのを忘れたのかと思ってはいたが……、仕事に忙殺されてしまったというのであれば致し方ないと言えるのかもしれない。


 愛梨亜も同じように考えたのか、怒りの勢いを少しだけ落とした。親父に対してだけは。

 続けてギロリと俺の方を睨む。


「そんで、キュウは?」


「飯食って後で洗おうと思って、そのまま忘れてました! すんません!」


「あたし、一回聞いたと思うけど。お弁当箱洗った? って」


「次の授業が終わったら洗おうと、その時は思ってました! すんません!」


 愛梨亜の足元で土下座を連発する俺を見て哀れに思ったか、美波さんがいよいよ止めに来てくれた。


「ちょっとちょっと愛梨亜。救太郎君も謝ってるんだから、許してあげなさい。……救太郎君もほら、顔上げて」


「ふん……お母さんがそこまで言うなら……。明日から気を付けろよ。もっかいやらかしたら、キュウのお弁当は作らないからな」


「はい、はい、分かりました……」


 もはや自然と敬語が出てくる。この姉には頭が上がらない。


 やれやれ、そんじゃ二人とも。自分で洗っといてよねと、愛梨亜はぷりぷりしながらリビングから出ていった。

 それを見送り、俺と親父はどっと一息つく。


「はぁーやらかした。愛梨亜ちゃん、怒るとすげー怖いなあ……。それより救太郎、今のは良かったぞ。相手が怒ってどうしようもない時はとにかく非を認めて謝る。実は非がなかったとしてもとにかく謝る。そうして男は大人の階段を登っていくんだ……」


「俺、大人になんてなりたくねえよ……」


「でも、ああやって怒ってくれるのも愛情の裏返しだぞ。良かったじゃないか、愛梨亜ちゃんに認められて」


「だとしてもあそこまで怒られるのは勘弁だぜ……」


 さてと、また火が付かないうちに洗っとくかと、俺は弁当箱を持って流しへ向かう。親父の分もついでに洗ってやろう。こういう細かいところで恩を売っておくのが大事だ。


 さて、蓋を開けると……うん。別にまあ、臭いとしてはまだ全然大丈夫だろう。心なしか昼飯食ったときよりも風味が色濃く独特になっている気がしないでもないが。

 このクソ暑い時期に鞄の中で半日熟成したら、そうなるか……と反省しながらスポンジに洗剤を染みこませて洗う。いつもより念入りにしつこく、どこを指で触ってもギュギュっと音がするくらいまで磨き込み、泡を流すと水切り籠へかけた。


 これでよしと。……あ、タオルがねえな。

 仕方ないズボンで拭くかと思っていたところ、グッドタイミングで美波さんがタオルを差し入れてくれた。


「はい救太郎君、これ」


「あ、ありがとう美波さん。助かったよ。……さっきの件も含めて」


「水回り、キッチン周りに関しては厳しいからねー。愛梨亜の嫌いなものは水カビ黒カビ生ごみの臭いなの」


「なるほど……。まあ確かにその三つを好きっていう奴は中々いないだろうけど、にしても愛梨亜はスパルタだなあ」


 会話をしつつ一人納得していると、美波さんがじっと俺を見つめていることに気が付いた。俺に何かを期待するような目線だ。口元が開くか開かないか迷っている。


「美波さん? どうかした?」


「そっ、それだよ救太郎君!」


「へっ? それって?」


 急にガッと来られたので戸惑ってしまった。


「救太郎君、いつまで私のことを『美波さん』って呼ぶつもり?」


「ど、どういうことすか?」


「だってほら。愛梨亜ももう徳太さんのことお父さんって呼んでるじゃない? なら、私のことも、そろそろお母さんって呼んでもいいんじゃないかなー、なーんて……。どうかな……?」


「確かにいつまでも美波さんじゃなんか他人行儀って感じがするしな。うんうん、美波ちゃんの言う通りだ」


「そもそもキュウ、いまだに敬語抜けてないしな。呼び方に距離があるから言葉遣いにも影響が出てるんだよ」


 親父と、いつの間にやら戻ってきていた愛梨亜が麦茶を注ぎつつ言った。

 まあ、うん。みんなの言いたいことは分かるんだ。けれど、お母さんかあ……。

 うーんと考え込む俺を見た美波さんは不安そうな表情になる。


「い、嫌だった……かな?」


「キュウお前……お母さんを悲しませたら殺すぞ」


「救太郎。一つお前に大事なことを教えてやろう。我が家の掟は、美波ちゃんを泣かせる者は死あるのみだ。今俺が作った」


 美波さん親衛隊の二人がガンギマリの目で俺に詰め寄ってくるので、「ちょちょちょ、待て待て!」と慌てて俺は言った。


「別にその、嫌とかいうわけじゃなくってな。お母さんという言葉を発するのが恥ずかしいというか……俺のキャラ的に合わないかもなとか……」


「キュウお前キャラなんて気にしてたのか?」


 気にしてない。気にしてはいないけど、他に良い言葉が思いつかなかった。愛梨亜はうーんと考えた後に、


「お母さんがダメだとして、じゃあ何ならいいわけ? ……あ、ひょっとしてママ派だった?」


「それなら父さんのこともパパって呼んでくれなきゃ不公平だなあ」


「うるせえ違えわ」


 美波さんは「あたしはウェルカムよー」などと言ってサムズアップしているが、さすがにこの歳になってママ呼びを始めるのはちょっとアレだ。


 けれど、確かに皆の言うこともそうなのだ。呼び名というものは中々どうして侮れない。俺と愛梨亜も、お互いを愛称と名前で呼び始めてから距離がググっと縮まったように思うし。

 だとしたら……うーん。お母さんはちょっと俺的にNG。ママはもってのほか。とすると……。


「お……お袋?」


 ほおう……と愛梨亜と親父は同時に声を漏らす。


「な、なんだか恥ずかしくなってきた。なしで。今のなし」


「ぷぷっ、まあいいんじゃね。考えてみれば、お父さんのことは『親父』呼びだもんな。それならお母さんの呼び方は『お袋』しかないわ。うん、オッケーオッケー。ちょっとイキり学生っぽいけど」


「だからなしって言ったんじゃねえか……」


 ごめん、やっぱりなしでと美波さんに謝ろうとしたが、


「お袋……お袋……! 凄く……いいわね……!」


 顔の前で両手を組み合わせ、目をキラッキラに輝かせた顔の美波さんを見て、俺の動きは止まった。


「い、いいの……?」


「うん……。凄く、いい……! ご飯特盛でよそいたくなっちゃうような響きだわ……!」


「お母さんが気に入ったのなら仕方ないか。キュウ、今日からお母さんのことはお袋と呼べよ。美波さんと一回呼ぶごとに一回殺すからな」


「それってつまり、ワンミスでアウトってことじゃん……」


「美波ちゃんをここまで感動させるとは……やるな救太郎。さすがは俺の息子だ。正直嫉妬すら覚えているよ」


 メラメラと闘志を燃やす親父は適当にあしらう。


「じゃ、じゃあ、これからお袋って呼ぶから……。よろしく」


「うん、改めてよろしくね!」


 美波さんはにっこりとほほ笑んだ。お袋呼びはまだ口が慣れてないけれど、美波さんが喜んでくれたのならまあいいか。


 親父と美波さんが紅茶を入れてリビングの方へと移動したのを見守ると、愛梨亜は俺の肩をぱしりと軽く叩いてきた。


「お母さん、喜んでたな。よくやったぞ、褒めてつかわす」


「ご満足いただけたなら何よりだ」


「今ならあたしのこともお姉ちゃんって呼んでいいけど? あ、キュウ風に呼ぶなら『姉貴』か?」


「呼ばねえ呼ばねえ。愛梨亜のことは愛梨亜としか呼ばねえよ。大体、ただでさえ最近高校で弟、弟って呼ばれ始めてるのによ……。そんなことが漏れたらますます拍車がかかっちまう」


 そうなのだ。この前の騒動で、俺と愛梨亜が戸籍上家族であり、姉が愛梨亜で俺が弟であることが公然の事実となってしまった。


 すかした態度のガリ勉野郎が同級生のギャルの弟になったということが余程おかしかったのか、それとも俺がちまちまと色々なところで溜めてきたヘイトを少しずつ返済されているのか、面白半分嘲り半分で弟呼びされることが多くなってきてしまったのだ。木村なんて(山本を好きだという奴)馬鹿にした態度を隠そうともしなかったな。


「あー、あたしも聞いたわそれ。まあいいんじゃね。あたしには実害ないし」


 ケラケラ笑いながら愛梨亜は言う。この女、人の不幸を笑っている。


「ま、いいじゃんか。ちょっと面白おかしくイジられるくらいの方が可愛気があってさ」


「一理ないことはないけどなあ……。やれやれ、愛梨亜の弟になると毎日色んなことがあって飽きないぜ」


 おかげでこっちは心労が溜まってるけどな。

 という皮肉を込めて言ったつもりだったが、愛梨亜はパァッと満開の向日葵のような笑顔を作ってみせた。


「そーっしょ? その方が楽しいっしょ毎日!」


 家の中なのに、もう日は落ちてるのに、陽光がそこにだけ降り注いだかのような錯覚を覚えた。

 混じり気ゼロ、百パーセント陽の表情にあてられ、思わず俺は苦笑してしまう。


「ああ。まあ、そうかもな」


「でしょでしょ? キュウもちょっとはまともになってきたんじゃね? やっぱ、あたしがお姉ちゃんで良かったっしょ!」


 目を線にして白い歯を見せて、ニシシと愛梨亜は笑った。


 得意満面なその顔を見ていたらなんだか素直に頷くのが悔しい気がしてきて、俺は少しおどけて「さあな。それは審議だ」と答えてみせた。

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ギャルの義弟になるまでは 荒矢田妄 @arayadamou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ