第14話 談笑に向けられる視線は

 気をつけるつもりがあるのかないのか、それからも愛梨亜は驚くほど普通に話しかけてきた。


 とはいっても元々俺たちの間の会話量はさほど多くないため、四六時中話をしているわけではないが。

 いい感じに「隣の席のやつ」くらいの会話量で、まあこれも自然と言えば自然か、あんまり無視するとそれもそれで目立っちゃうしなと思い直した俺は、それほど強くは気にしないことにしてみた。名前は呼ばないように気をつけつつ。


 そんなある日のこと。

 大した身支度も必要ないくせに基本的に愛梨亜よりも遅く家を出る俺が登校すると、隣の席のボリュームのあるピンクゴールドの髪の毛が、何やらうんうんと悩ましく揺れていた。


「朝っぱらからどうした。腹でも痛いのか」


 カバンを机にかけながら声をかけると、ガバッと隣の金髪が顔を上げる。


「違うわ、うるせえな。今ヤバイとこなんだからほっとけ」


「ヤバいって……ああ、なるほど数学か」


 本日の一限は数学。担当教諭の吉野先生は「人に教えることで理解が深まる」と、毎回二人の生徒に課題を出し、次の時間で解答解説をさせるといったことを行なっている。


 まあ理にかなっているとは思うが、人前に立つのが苦手なやつ、そもそも数学が不得意なやつからの評判は芳しくない。そして、愛梨亜はその後者のやつのようだ。

 課題が出たのは一昨日。どうして昨日までになんとかしなかったんだよと言いかけて、やめた。確かこいつ、昨日も一昨日もバイト残業してたな。……でもそれなら。

 俺は周りの様子を見つつ、トーンを落として声をかける。


「昨日言ってくれりゃ見てやったのに」


 愛梨亜は「あ?」と言ってぎろりと俺を睨む。なるほどまあまあ切羽詰まっているらしい。普段の三割増しで怖い。


「人に聞くな自分でやれって、あんたがあたしに言ったんでしょうが」


 愛梨亜に教室でキレられたあの一件のことか?


「あれは別に人に聞くなって言ったわけじゃない。授業まともに聞いてないんだから分からないのは当たり前だろって言っただけだ。最近のお前は、ちゃんと授業聞いてるだろ。……まさか、俺の言葉が刺さって、とか?」


 もしかしたら、俺の言葉で一人の不良生徒を更生させることができたのでは……? とほんのりした期待を込めて問うたが、「いや別に」とバッサリ切られてしまった。なんだよ。


「ちょっと前までは家でもバイト……というか内職だけど、やってたから、夜遅い日が多かったんだよ」


「え、そうなのか? ファミレスだけじゃなくて?」


「そうよ。ファミレスバイト代の半分くらいは食費に回してたから、ちょっと欲しいものがある時は追加で内職もやってたのよ。黙々とやってたら遅くなっちゃう日も多くてさ」


 机に向かいながらなんでもないように言う愛梨亜だが……同い年のクラスメイトに、放課後のほとんどの時間を労働に捧げてるやつがいたなんて、当時の俺は考えもしなかった。


「悪かったな。お前の事情もよく知らずに勝手なことばっか言ってよ。本当に……申し訳ない」


 深々頭を下げて謝罪する俺を見て愛梨亜は目を丸くした。


「いやいや、別にいいって気にしてないし。内職で稼いだお金は百パーセントあたしの財布にインしてたから、やってたのはあたしの勝手だし」


「その、自分の小遣いは自分で稼ぐっていう発想が凄えんだよ。立派だ。正直俺は考えもしなかった。それに、勉強できるやつよりも仕事と料理ができるやつのほうが凄えと、今の俺は心の底から思っている」


 大げさだな、と言って愛梨亜はククッと笑った。


「ま、いいや。そんなに言うならちょっと見てよ。何回解き直しても答えが合わなくてさ」


 皆の前で間違った答えを解説してしまったら恥ずかしいだろとのことで、担当者には課題と共に答えも教えられる。が、途中式などは一切ないので、その部分は自力で解答しなければならない。


 まあ、「何回やってもダメ」ってことは恐らくどこか初歩的なところで計算間違えか何かがあるんだろう。間違えるわけないと思ってる部分を間違えてしまうと、誤り部分を見つけ出すのに非常に時間がかかる。


 いいぜ、ちょっと見せてみ、と愛梨亜のノートを借り受ける。

 さて、パッと見たところ……うん、やり方は合ってるっぽいな。使う公式も間違ってない。とするとやっぱり計算ミスか……? うーん……。うん? いや、合ってるな……?


 俺は机の中から適当な片面印刷のプリントを引っ張り出すと、ザカザカと書き殴りつつ計算を始める。


「え、なになに? そんなにムズいのこの問題」


「いや、そういうわけじゃなくてな……」


 うん、やっぱりそうだ。


「俺もお前と同じ答えだ。多分これ、先生の回答が間違ってるな」


 愛梨亜は「えぇ、マジ!?」と叫ぶと、


「ハァー、なんだそりゃ……! マジ時間無駄にした……!」


「この問題って多分先生が作ってるからな。人間のやってることだし、まあそういうことも起こり得るだろ。お前にとっては災難だったかもしれんけど。でも、今日の授業はなんとかなるだろ?」


「そりゃあそうだけど……」


 不満気に口を尖らせながら言う。まあ、その気持ちは分かる。


「まあいいか。これ以上言っても仕方ないし」


「そうだそうだ、それがいい。過ぎたことネチネチ気にするのは時間とエネルギーの無駄だ」


「でもキュ……あんた、やっぱり頭良いんだな。なんだかんだ言って、あたしこの問題解くの一時間くらいかかったのに」


「お前の解答見てからやったから、早いのは当たり前だ。……まあ強いていえばそうだな。計算の速さはあるかもな。でもその辺は数こなせば慣れるし、解法のパターンも覚えていくから、だんだん頭使わなくてもパパッと解けるようになるぞ」


 ふーん、とあまり気のない返事。せっかくちょっと長めに説明してやったのに急にハシゴ外されたような感覚だ。恥ずかしいじゃねえか。


「でもあんた……ノートきったないよね」


「は? なんだよいきなり。なんか関係あんのか?」


「怒るなって。別にバカにしてるわけじゃなくて、ほら、勉強できる人って、ノート凄い綺麗に取るイメージがあるから。夏鈴とかもめちゃ綺麗なの。ヤバいよ。マジ教科書越え過ぎて感動もん」


「ん? 今私の話してたー?」


 愛梨亜が名前を上げると、当の本人である丸山夏鈴が栗色のショートヘアを揺らしつつ、間延びした調子でやって来た。


「あ、夏鈴おはよ。今日も朝練?」


「うんそうだよー。夏大も見えてきたしね。それより、有明君となんの話してたの?」


「いやね、夏鈴のノートはめっちゃ綺麗で凄いって話。有明のノートって超汚いからさ。頭いいのにギャップがヤバくて」


「二つ言いたいことがある。まず、ノートの綺麗さと成績は全く関係がない。そして、なんで俺のノートの中身を知っている? 見せた覚えは無いはずだけど」


「席隣だし、前は後ろだったし、たまにチラチラ見えてたんよ。で、うわコイツめっちゃノート汚っ! ……って思ってた。そーだ、実際はどんな感じなん? ちょっと見せてよ」


 お、俺のノートをか? と言うと「それしかないだろ。話の流れ的に」と返された。ノート……うーん、俺のノートか。


「あ、それ私も気になるなあ。有明君がどんな感じで普段ノート取ってるのか」


 下手に隠し続けるのは逆に怪しいか。


「べ、別にいいけどよ……。あの、言い返しといてあれなんだけど、マジで汚いぞ。多分読めないと思う」


 そう言いつつ不承不承でノートを差し出す。「どれどれ」とノートをガバっと開いた愛梨亜は一瞬で顔をしかめた。


「うーわっ、想像以上に汚い」


 だから言っただろうが。


「黒のシャーペン一色だし、ノートの罫線無視してるし、間違ったっぽいとこグチャグチャに塗りつぶしてあるし」


「ペン持ち替えるのも、線に合わせて書くのも消しゴム使うのもめんどくせえからな」


 丸山も顔をしかめながら覗き込んできた。


「う~ん、これは私も……何が書いてあるのかちょっとよく分からないな。でも、有明君はちゃんと読めるんだよね? 書き方の独自ルールがあるとか?」 


「あー、いや、その……にも三割くらいしか読めない。めっちゃくちゃだしな。字とか配置とか。何書いてあんのか自分でも分からん」


 一瞬、「へ?」と愛梨亜はきょとんとした顔を作ると、ふいにプッと噴き出した。

「あっはははは! バカじゃん! なんかドヤ顔して言ってっけど、自分の書いた字読めないとかなんの自慢にもならないし!」


 別にドヤ顔はしてなかったと思うんだが……。

 突如教室内に響いた愛梨亜の爆笑に、他の連中は「なんだなんだ?」とこちらを振り向き始めた。こういうことで注目を集めるのには慣れてない。尻の座りが悪くなってきたな……。と、端場が登校してきたようだ。こっちに来る。


「オイっす救太郎。と、愛梨亜ちゃん丸山ちゃん。朝から楽しそうだね、なんかあったん?」


「あ、端場、おはよー。いやね、こいつのノートがマジ汚くてさ。しかも自分でも自分のノート読めないらしいの。それ聞いて超バカじゃんって思ってさ!」


「あー、救太郎のノートはマジで読めないよな。俺も失望したもん一年の時。見せてもらっても一ミリも解読できなくてさ」


 口元に手を当ててクスクスと笑っていた丸山も口を開く。


「じゃあ、有明君は自分のノートを見返したりしないの?」


「いや、するする。でも全部じゃなくてさ、ホラ」


 俺は再び自分のノートを開いてみせる。


「この丸で囲ってある部分。ここはちょっと読めるだろ? これは、初見でよく分からんかったところで、後々これを参考にして予習をすんだよ」


 こうまでバカにされては名誉回復せねばという気持ちになってしまう。半ばヤケクソで俺は種明かしをしてやった。


「結局のところ勉強っていうのは八割五部暗記で、暗記のためにはインプットとアウトプットの繰り返しが必要だろ? だから授業中はとにかく見たこと聞いたことを一回頭の中で回して出力するっていう作業をやってんだ。で、分からなかったところは印をつけておくと」


 ふんふん……と丸山が顎に手を当てて頷く。


「なるほど……。だから、読めない部分があっても、そこはもう理解してるってことだから問題ないんだね」


「そういうこと。まあ、その時覚えてても時間がたったら忘れっちまうんだけどな。俺は何回も問題解いたりして、インプットとアウトプットのサイクルをグルグル回して覚えていくタイプだから、一回一回の出力を丁寧にする必要はないんだ」


「端場……。なんか小難しいこと言ってるけど、分かる?」


「いや分かんない。なぜなら聞いてなかったから」


 おい。せめて聞けよ。


「だって救太郎の話なげーんだもん。横文字も使うし」


「そうそう。相手に分かるような言葉を使って説明してもらわんと」


「そんな難しい単語使った覚えはないけどな!?」


 ガッと言い返すと、端場と愛梨亜は顔を見合わせて「ハァーやれやれ」「これだから……」とでも言いたげに肩をすくめた。うーん、これはとってもムカつく所作だ。

 やめろ、その肩すくめるのやめろ。ムカつくから、顎を上げんな、しゃくれさせんな! と言ってはみるものの、奴ら面白がってどんどん誇張してきやがる。


 どっと疲れてハァーとため息をつくと、丸山がそんな俺の様子を見てくすりと笑った。


「楽しんでもらえたようで何よりだよ……」


「ああごめんごめん。別にそういう意図で笑ったんじゃないんだよ。ただなんて言うか……不思議でおかしくて」


「不思議?」


 そう問うと、丸山はこっくりと頷く。


「普通に話したり笑ったりする有明君ってなかなか見ないから、ギャップで。いつもはもっとこう……むっつりしてるというか、怖い感じだし」


 怖い……? 俺が?


「俺、怖くないよな?」


「いや、お前は怖いぞ」


 端場にバッサリと切り捨てられた。ハァーと、今度は演技でないガチのため息を深々とついて愛梨亜が言う。


「愛想は悪いし表情は硬いし眉間にシワ。おまけに目も合わせないし、頭かいたり頬かいたりしてイライラしてるように見えるし。ぶっちゃけめちゃくちゃ話しかけにくいタイプよあんた」


「目を合わせないとか頭ボリボリやるのは、救太郎が緊張してるからなんだよ。照れてるの。可愛いところなの。だから許してやってくれ、俺の顔に免じて」


 お前は俺の何を担保してるんだ?


「何考えてんのか知らないけどさ。もっと肩の力抜いていいんじゃね。あんた、頭いいのに所々バカなとこが面白いんだからさ。話しかけんなオーラ出してんのもったいないよ」


「ば、バカ……?」


「バカでしょバカ。超バカ」


「テストの点は俺より三倍上だけど、色々引っくるめて俺の三倍バカだと思ってるぞ」


 うんうんと頷きながら言う愛梨亜と端場。こんなにバカ呼ばわりされるのは人生で初めてのことだ。耐性がないのでショックがやや大きい。

 無意識のうちに、俺の視線は助けを求めるように丸山の方へ向いた。


「えっと……。あはは。私も、そう思うかな〜」


 撃沈。俺はかっくりと項垂れた。三人の朗らかな笑い声が後頭部に降り注ぐ。

 頭を下げて誰にも顔が見えないようになって、思う。こんな風に学校で会話をするのは久しぶりだな。

 じんわりと胸が暖かい。この温もりを直視するのはどうにもむず痒いが、決して手放したくはないとも感じるような、そんな感覚だ。


 ……バカ呼ばわりは納得いかねえけどな。


 一言くらい返してやろうと思って顔を上げた時、気が付いた。


 この空気を切り裂き、敵意の籠った視線が俺へと向けられている。


 しかしこれは今日に始まったことではない。ここしばらくの間、俺は常にこの視線に晒されてきたのだ。この視線を受けるのは俺だけだ。愛梨亜達に飛び火しないようにしなくてはならない。自分の学校での立ち位置をよくよく肝に銘じなくてはならない。


 注意しなきゃいけねえな、と俺は談笑する三人の陰で密かに自分を戒めた。

 

 

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