6-2

 このサラダボウル・シティにおいてもひときわ治安のいい区域に、どんと天を突く威容を誇る高層マンションが建ち並ぶ一帯。


 それだけを見れば嬢がいかに稼いでいるのかわかるというもので、シバは感心すると同時にヘタなことはできないなとも思った。


 マギサは完全におのぼりさん状態で、物珍しげにあちこちへ視線をやるので、一緒にいるほうが恥ずかしくなってくるくらいだった。


「すごいすごーい! どれも私の住んでるところより立派。ねえシバ」

「わかったから大人しくしてろ……」


 マギサも流石にマンションへ足を踏み入れ、上品そうなコンシェルジュを見れば口を閉じる。


 それを見てシバはホッと胸を撫で下ろした。


 シバの部屋よりもマギサの部屋よりも、倍は広い嬢の部屋のリビングへ通されて、座り心地のよいソファに腰を落ち着ける。


 とは言えども、気分はさっぱり落ち着かない。


 それはマギサも同じなのか、ソファにはまだ余裕があるにもかかわらず、シバにぴたりとくっつくようにして座っている。


 シバはそんなマギサの様子を見て、緊張しているペットの犬とでも一緒にいるようだと思った。


 「可愛い」と思ったかどうかは、微妙なラインだ。


 それよりも、マギサにも一応空気を読む力はあるのだなと別のところで感心する。


「ねえねえシバ」

「あ?」

「シバって…………モテるの?」

「ハア?」


 マギサがシバの耳元に口を寄せて、たっぷりと間を取ってから深刻そうに言ったのがそれだったので、シバは思わず大きな声を出してしまう。


 あわててキッチンのほうへ視線をやるが、嬢は気にする様子もなくコーヒーを淹れていた。


「……あんだって?」

「だって、キレイな女のひとといるから! ねえ、そ、その……コイビト、なの?」

「ハアア?!」


 マギサが珍しく恥じ入るようにもじもじとしながら言ったのがそれだったので、シバは思わず大きな声を出してしまう。


「んなわけあるか!」


 最大限、声をひそめて声を張り上げるという奇妙なことをしながら、シバは否定する。


 嬢はたしかに、客観的に見れば美人だ。


 出るところも出ているし、男への甘え方も知っている。


 けれど、まったくもってシバの趣味ではない。


 そもそも、この嬢はシバの兄貴分の気に入りなわけで。


「滅多なこと言うんじゃねえ」

「ええ、だって……」

「だってもくそもねえよ!」


 「ねえ、お話は終わった? ずいぶんと仲がいいのね」と、盆にコーヒーカップを載せた嬢がリビングへやってきたので、シバは話を打ち切った。


 嬢の声はどこか硬く冷ややかだ。


 おおかた、シバがマギサにかかりきりになっているのが気に食わないといったところだろう。


 嬢は自分が一番でないと気が済まないタチのようだ。


 シバは「そんなことないですよ」とかなんとか言いながら、内心で「クソめんどくせー」と悪態をつく。


 マギサは嬢の言葉の裏など気がつかないのか、あるいは気にも留めていないのか、「友達だからね!」といつものニコニコ笑顔で答える。


 シバはこのときばかりはマギサの頭をはたきたくなった。


「――それで、いつからなんです?」


 シバは気持ちを切り替えて、マギサはいないものとして嬢に話を促した。


 嬢の悩みは「自身から悪臭が漂うようになったこと」。


 しかもその悪臭は鼻に慣れることがなく、それを放っている嬢本人にも認識できるほど強く臭気を発しているとのこと。


 複数人いれば悪臭の出どころを察知することは難しいが、嬢は一対一での接客が多い。


 となると、当然クレームがつくわけだ。


「お陰様で売り上げがガタ落ちして困ってるの」

「なにか心当たりなどはありますか?」


 シバにももちろん、その悪臭は感知できる。


 だがしかし今のところはその場にいることが耐えられないほどのものには感じられない。


 ただ、きらびやかな女を求め、わざわざ金を払って会いに行って、こんなにおいが四六時中する嬢をあてがわれたのでは、クレームのひとつやふたつはつけたくなるだろうとは思った。


 嬢は思案するそぶりを見せず、まるであらかじめ答えを用意していたかのような迅速さで言う。


「心当たりなんていっぱいあるわよ。こういう世界にいれば身勝手に逆恨みしてくる人間なんてごまんといるから……。でも、そうね」


 一瞬、間を置く。


 しかしシバにはそれも演技めいて映った。


 ただ単に嬢の普段の言動からして、こう芝居がかっているのか、それとも嘘を言っているからこうなっているのかまでは判断がつかなかった。


「二週間前、あたしと同じ店で働いてた女の子が殺されたの……。だから、店の子たちはあたしのにおいはその子の呪いじゃないかって噂してる」

「呪われる心当たりが?」

「そりゃ同じ店で働いて、売り上げで競ってたからね……あたしは別に、その子のことを憎く思ったことはないけど、その子はどうだったかわかんないし……」


 シバは嬢の言葉には嘘を感じなかった。


 けれども嬢は、よくあることをよくあることとして語っている「だけ」というようにも感じられた。


 シバはマギサを連れてきたのは正解だったと思いつつ、ずっと黙り込んでいるマギサを見やる。


「飼ってたの?」

「え?」

「魚」

「魚?」


 マギサは起きてるんだか寝てるんだかわからないような糸目を、嬢の――その顔の少し上の辺りへと向けている。


 マギサにはなにか見えているらしいことをシバも嬢も察し、その場の空気が少し凍った。


「そう、キラキラしてる魚」

「熱帯魚のこと? ……昔、客から数匹貰ったことはあるけど」


 シバが「で、魚がどうしたって?」とマギサに話を促したが、なぜかマギサはじっと嬢の頭上へ視線を向けたまま、なにかを考え込んでいる様子だった。


「いっぱいいるから……。うーん」

「なんだよ。死んだ熱帯魚が取り憑いてるって言うのか?」

「そうだね。魚が……いっぱい。うーん」


 マギサは続けてうんうんとうなりながら、なにごとかを脳内で目まぐるしく考えている。


 シバはイマイチはっきりとしないマギサの物言いにイラ立ちを覚えつつ、話を促そうと唇を開いたところで――


「うーん……お腹いっぱい」


 とマギサが言ったので、呆気に取られた。


 それは嬢も同じ様子だ。


 ぽかんと口を開けてマギサを見ている。


「――あ? お前、食べたのか?」

「うん」


 シバとマギサのやり取りに、嬢は「……『食べた』って?」といぶかしげな目を向ける。


「こいつは……あー『怪異』とか、そう、怪しげな現象を食べられるんですよ」


 シバは自分で言っておいて、「こいつなに言ってんだ」と思った。


 嬢もそのお綺麗な顔にありありと「こいつなに言ってんだ」と書かれてある。


「あー……でも、においが軽くなった気がしません?」

「え? ああ、本当だ!」


 シバがやや苦し紛れにそう言えば、嬢は顔を明るくする。


 シバは嬢のそんな様子を見て改めて臭気に意識を向けるが、たしかに己が言ったとおりに、あきらかに悪臭が軽くなっていた。


「じゃあ、これで元通り?」


 安堵した様子の嬢に話を振られたマギサは、なぜかぼんやりとした様子でなにも答えない。


「それじゃあ一件落着ということで……」とシバはマギサの腕を持ってソファから立ち上がる。


 案件が無事解決したのであれば、これ以上エキセントリックなマギサに場を引っかき回して欲しくないという気持ちが先立った。


「本当にありがとうね」


 嬢は打って変わって人が好さそうな笑みを浮かべてシバとマギサを見送る。


 いつもは騒がしいマギサだったが、マンションを出ても、マギサの暮らすアパートまでシバが送って行ってやっても、ずっと無言のままだった。


 さしものシバもマギサがそんな様子では心配になる。


 シバはマギサのことが――多分に複雑な感情が入り組んでいるが――嫌いではないのだ。


「おいお前、どうした?」

「……お腹いっぱいで」

「ハア?」


 喉から絞り出したような、マギサの小さな声。


 その声を、わざわざ耳を寄せてまで聞き取ったシバは、呆気に取られたあと、急にマギサを心配していた事実が気恥ずかしくなってくる。


 マギサがぼんやりとした様子だったのも、ずっと無言だったのも、単に「怪異」を腹いっぱい食って苦しかっただけらしい。


「帰って寝ろ!」


 シバはマギサをアパートの部屋に押し込んで、行き場のない感情を抱えながら、さっさと帰路に就いた。


 しばらくはマギサとは――なんだか恥ずかしいから――顔を合わせたくないと思いながら。


 しかし一週間と経たずにシバはマギサの部屋の扉を叩いていた。


「おいこら、あの嬢の『怪異』、食ったんじゃねーのかよ」

「アノジョー?」

「この前会っただろ。お前が魚に取り憑かれてるとか言ってた」

「……ああ」

「あの女、失踪したぞ」


 マギサはまったくおどろいた様子もなく、それどころかけろりとした様子で「そうなの?」と言った。


 シバはそんなマギサの態度に、珍しく頭を抱えたくなった。


 嬢が失踪したのはつい二日前の出来事である。


 店に出勤してこないので様子を見に行けば部屋はもぬけの殻。


 サラダボウル・シティを出る船に乗ったらしいというところまでは追跡できたものの、そこからどこへ行ったのかまではまだわかっていない状況だ。


「失踪前に、店で鼻がもげそうな悪臭がして何人もゲロったらしい」

「私、生魚のにおいって苦手かもしれない」

「お前のことは聞いちゃいねーんだよ! で、お前ちゃんとあの『怪異』食ったんだろーな? おい」

「全部は食べてないけど」

「おい!」


 シバは目を剥きそうになったが、マギサはあまり反省した様子もなく言ってのける。


「だって、お腹いっぱいになっちゃったから……残すのはよくないって思ったけど。またあとで食べればいっかって」

「……そんなにいたのか? 魚」

「うん。いっぱい」

「……ちょっと待て。嬢が飼ってた熱帯魚は数匹って言ってたような……」

「あ、そのことなんだけど」

「あ?」

「私が見たの金魚だった! ド忘れして名前出てこなくて」

「金魚は熱帯魚じゃねー!」


 シバは今度こそマギサの頭をはたいた。



 ……このあと、くだんの嬢が同僚の嬢を、太客をとったとらないのトラブルを動機として殺していた疑いが強くなったとか、その殺された同僚が多数の金魚を飼っていたとかといった事実が明らかになるのだが――このときのシバはまだ知る由もないのだった。

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