5

「ねえねえ、今日はいつもとどこか違うと思わない?」


 シバがこの世で嫌いなセリフのひとつである。


 こんなセリフを――特に女から――かけられようものなら、シバは「知るかよ」と吐き捨てる。


 シバは他人に興味がないわけではない。


 むしろ、仕事柄、他者のことはよく見ており、その変化にも敏感なほうである。


 けれどもそれはそれ、これはこれ。


 毛先をほんの少し変えただとか、ヘアカラーをちょっと明るくしてみたとか、いつもと違うリップをつけただとか――。


 そういう他人に気づいて欲しい変化を自己申告せず、わざわざこちらを試すような物言いをする女なんて、シバからするとしちめんどくさいことこの上ない。


 なんのためにお前の口はついているんだ――というのがシバの言い分であった。


 その日、出くわしたマギサから似たようなセリフをぶつけられたシバは、当然、「知るかよ」と吐き捨て――たかったが、できなかった。


 それはシバがマギサに対し、特別で複雑な感情を抱いているから……というわけではない。


 どこが「いつもと違う」かを見てたしかめるまでもなく、マギサが纏う雰囲気がおかしかったからだ。


「……んだよそれ」


 かろうじてシバが絞り出せたのは、そんな言葉だった。


 マギサはいつものニコニコ笑顔のままシバに近づくが、シバは反射的に二三歩うしろへと下がって、距離を取った。


 マギサが近づくだけで刃物の切っ先を突きつけられるような、イヤな感覚があった。


 マギサを視界に収めればその感覚はより鋭敏に増して、シバは総毛立つ。


 顔をしかめるシバに対して、マギサは糸目をさらに細くして微笑んでいるばかりで、その余裕そうに見える態度がなんだか気に食わない。


 目の前にいるのはたしかにいつものマギサなのだが、気配はまるで別人のようだった。


 その違和が、シバには気持ち悪く、そしてなんだか腹立たしい気持ちにさせられる。


 ますます眉間にシワを寄せるシバを見て、マギサは結婚会見をする芸能人のごとく左手を上げ、甲を見せてくる。


 その小指には金色の指輪があり、指輪のプロングには緑色の小ぶりなカラーストーンが嵌っていた。


「んだよそれ」


 シバはもう一度、マギサに問い直す。


 マギサはニコニコ笑顔のまま、言う。


「取れなくなっちゃったんだ、この指輪」

「――ハア?」

「うん。だから買うしかなくなって」

「……バカだろ」


 マギサの懐事情をシバは知らない。


 しかしいつかのときには駄菓子ひとつを買えるていどの額をも持ち合わせていなかったことは、強烈に覚えている。


 シバは目利きではないのでマギサが買い取った指輪の値段など、正確なところはわからない。


 しかし子供がつけるオモチャのようなチャチな作りではないことは、遠目にもなんとなくわかった。


「なんでつけたんだよ」

「うーん……なんとなく?」


 シバは今度は「バカだろ」とすら言わず、呆れ果てた。


 しかし今問題なのは指輪の値段ではない。


 マギサが今纏う異様な空気の原因が、取れなくなって買い取ったピンキーリングにあることをシバは半ば見抜いていた。


 指輪にあしらわれた緑色のカラーストーンを見ているだけで、シバはなんとも言えない嫌悪感を覚えるのだ。


 嫌悪感と表現したものの、それは忌避感や恐怖心がないまぜになった、複雑なものだった。


 ひとつたしかなのは、このピンキーリングを身につけているマギサには近づきたくない、ということだ。


「シバはなにか感じる?」

「……ってことはいわくつきかよ、その指輪。全身総毛立ってきもちわりぃ」

「うーん、効果てきめんって感じだね!」


 マギサが明るく朗らかに言ったので、シバは指輪が原因らしい嫌悪感も手伝い、そのセリフにイラ立ちを覚えた。


「――で、なんなんだよ、それ」


 シバはマギサとのあいだの距離を保ったまま、再度問いかける。


「これは独身女性が身につける『虫よけの指輪』なんだって」

「……ああ」


 シバは嘆息するように息を吐き、納得した。


 マギサのその短く簡潔な説明だけで、シバは己の内に生じている嫌悪感の原因を理解した。


「また『怪異』か」


 マギサは「怪異」を主食とする。


 ゆえに「虫よけの指輪」などという怪しげなアイテムに引き寄せられて、まんまとその餌食になったようだった。


 しかし解せないのはなぜその、明らかに怪しげな指輪を己の指にはめようと思ったのか、だ。


「なんとなく」


 シバの問いかけに対して返ってきたマギサの言葉には、常から歯に衣着せぬ物言いをするシバも思わず閉口してしまう。


「――で、なんで外せねえんだ? それ」

「男性にしか外せないみたい」

「ハア? 『虫よけの指輪』なのに?」

「別名『試練の指輪』とも言うんだって。つまり、指輪が与える恐怖心とかの嫌悪感に打ち勝てる男じゃないと指輪をつけている女のひとにはふさわしくなーい! ってことじゃないのかな?」

「――ハアア? ……めんっっっどくせえ……」


 シバはマギサがつけている――というか、外れない指輪に目をやる。


 「虫よけの指輪」と聞いたときは、ドレスのスカート部を膨らませるクリノリンやバッスルをつけたような、お高くとまった太古の貴族女性を思い浮かべた。


 しかし「試練の指輪」の話を聞くと、途端にその高飛車な態度の女どもの幻影は霧散し、代わりに一生かかわりあいになりたくない、頑固親父の姿が目に浮かぶようだった。


 シバはそんな想像を勝手にして、勝手に腹を立てる。


「あっ」


 だからシバはずかずかと大股でマギサに近づくや、その左手を取って素早く諸悪の根源たるピンキーリングを抜き取った。


 マギサは指輪が外れないと言っていたが、シバが手をかけると、引っかかることもなく容易く抜き取れた。


 マギサの指から指輪が外れると、マギサが纏っていた異様な空気も雲散霧消する。


 シバはマギサに指輪を放り投げた。


 マギサは両手を盆のような形にして、それをキャッチする。


「――バカバカしい。『虫よけの指輪』だの『試練の指輪』だの、指輪ごときが何様だよ」

「わーい! 外れた! ありがとうね、シバ!」

「お前は反省しろ」

「うん。するする~!」

「反省するノリじゃねえ!」


 シバはそこまで言ったところで、マギサが「怪異」を食べられることを思い出す。


 もし、指輪の「怪異」だって普通に食べられるんだったとしたら、シバの行動は――。


 そこまで考えを及ばせて、次いで羞恥に襲われたシバは、マギサから視線を外した。


 マギサはそんなシバに気づいているのかいないのか、「また友達ポイントが上がったね!」といつもの調子で「友達」を連呼するのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る