3
シバが「金返せよな」と言ったところ、出てきたのが酒瓶だった。
マギサに貸した金というのは、先日、マギサが「怪異」の宿っていたらしい日記帳を買った際に、シバが立て替えてやった金のことだ。
自動販売機で売っているジュース一本どころか、駄菓子一個くらいの値段であったにもかかわらず、マギサはその額を支払えなかったのだ。
それをシバが払ってやった。
平素のシバは無心されたって金は貸さない。
もし金を出すのであれば、それが返ってくるなどとは考えない。
その金は捨てたものと思って、ハナから返ってくることなんてことは、期待しない。
しないので、マギサに貸した金も別に返ってこなくていいと思っていた。
そもそもが駄菓子一個ぶんくらいの金だ。
そんな、子供の小遣いにしたって貧相すぎる額を催促するのは、それはそれでめんどうくさいというものだ。
しかし一方で、マギサが能天気に貸した金を踏み倒すところを想像するのは、なんだか複雑な気持ちになる。
だから次にマギサと出くわしたときに、軽い調子で「金返せよな」と言ったところ出てきたのが酒瓶だったのだ。
「友達と酒盛り! あこがれだったんだー」
マギサは「友達」というものに過度なあこがれを抱いている。
裏社会に身を置くシバからすると、マギサの「友達」に対する幻想はひどく馬鹿馬鹿しく映る。
「友達ポイントが上がるね!」
「だからその『友達ポイント』ってなんなんだよ、バカインコ」
「インコの知能指数っていくらくらいなのかなあ?」
「知るかよ」
シバがそっけない態度を取っても、マギサはそれを友情からくる気安い態度と捉え、解釈している様子だ。
シバはそんなマギサを馬鹿だと思うので、「バカインコ」と言った。
「インコ」の部分は、馬鹿みたいに「友達」という語を繰り返すところからきている。
勝手知ったるマギサの部屋にあがったシバは、マギサが出してきた酒瓶を見る。
『宇宙神殺し』。
聞いたこともないし、見たこともないラベルが貼られた焦げ茶色の酒瓶は、マギサ曰く「普通に買ったらお高い」らしい。
真偽のほどは定かではないものの、このあいだシバがマギサに貸した金は十二分に回収できそうではあった。
今日はツイている気がするなとシバは考える。
マギサとの酒盛りを受けたのは、ひとえに今日のシバの機嫌が良かったこともある。
たしかに、シバはマギサに特別で、複雑な感情を抱いている。
けれどもだからと言って、マギサに酒盛りに誘われて尻尾を振ってついていくなんてことを、シバはしないし、できない。
シバのちっぽけなプライドが邪魔をするのだ。
しかし今日のシバは機嫌が良かった。
憂鬱な雨の予報は外れたし、兄貴分から押しつけられた借金の回収も上手く行った。
マギサは駄菓子くらいの値段の借金を、マギサ曰く「お高い」酒で返してくれると言う。
なかなか、上々な一日と言えるだろう。
マギサが戸棚からグラスを二脚出すあいだに、シバはコンビニエンスストアで買ってきたつまみの袋を開ける。
マギサが酒瓶の栓を抜くと、少しだけ甘ったるい香りがした。
「それじゃ、かんぱ~い!」
……と、マギサがシバに負けず劣らず機嫌良く言ったところまでは、シバも覚えている。
しかし、ゆるゆると暗闇の中で目を覚ましたところまでの記憶が、一切なかった。
一瞬、ドラッグの類いでも盛られたのかと考えてしまうほど、狭間の記憶が綺麗さっぱりない。
ソファにだらりと背中を預けている自分自身をゆるゆると認識し、次いで隣でマギサがぐうぐうと寝入っている姿を確認する。
日暮れ前から酒盛りを始めて、今時計を見れば深夜と言っていい時間帯になっていた。
頭はまったく痛くなかったものの、喉が渇いたので、勝手知ったるマギサの冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをコップに注いで飲んだ。
――帰るか。
シバは寝起きのぼんやりとした頭でそう考える。
このままマギサの部屋に泊まって夜を明かすのは……なんだか気が引けるというか、複雑な気分にさせられる。
マギサが借りている部屋を出て、施錠したあと鍵をドアポストに突っ込む。
カラン、と鍵が底に落ちた音を聞き届けて、シバはマギサのアパートをあとにした。
マギサが住んでいる地区はサラダボウル・シティの中でもそこそこ治安がいい、という認識をシバは持っている。
実際に電球が切れてもいなければ、カバーが割れてもいない、きちんと機能している外灯が等間隔に並んで、道を照らしていた。
――まあ、あいつは一応女みたいなもんだから、そりゃ変なところには住めないか……。
シバが住んでいる地域と比べれば、泥沼と清流くらいの差はある。
しかし先日、「金を返すアテがない」などとのたまったマギサが、そんな治安のいい地域の、アパートに部屋を借りられ続けている状況は、ハッキリ言って謎めいている。
たしかにマギサが借りている部屋があるアパートは、お世辞にも綺麗とは言い難い。
デザイナーズマンションとは天と地ほどの差がある。
しかし部屋を借りられているということは、保証人はともかくも、どこかから金は出ているはずで。
「――ん?」
なんとなく顔に左手をやろうとして、シバは異変に気づいた。
「あ?!」
シバの爪が黒くなっていたのだ。
鬱血とは違う、完全な漆黒の色――五本の指先すべての爪に、黒いマニキュア……より正確にはネイルポリッシュが塗られている。
シバはしばらく呆気に取られて足を止めた。
ちょうど外灯の明かりが降り注ぐ下で止まったので、手元が良く見える。
はみ出しもなく、ぴっちりと綺麗にネイルポリッシュが塗られた爪は、外灯の明かりを受けてつやつやと表面を輝かせている。
思わず顔に近づけて見れば、ネイルポリッシュ特有の有機溶剤臭が鼻腔を刺激する。
「……はああ?」
思わずため息にも似た声を漏らす。
十中八九――というか、確実に犯人はマギサだ。
ソファで寝入っていた様子からして、マギサもシバ同様に酔っぱらったのだろう。
そしてなにかがあって……マギサがシバの爪を黒く塗った。
――これ、どうやって取るんだ?
ネイルポリッシュという単語は知っていても、塗ったあとのそれを落とす方法を知らないシバは、頭を抱えたくなった。
実際に頭に手をやろうとしたところで――シバはさらなる異変に気づいた。
女がいる。
しかし、頭部が縦に楕円形を描くかのように伸びている。
十中八九――というか、確実に「怪異」だ。
もしかしたらサラダボウル・シティ在住の異星人という可能性もありはしたが、謎の染みが散ったボロ切れをまとった風体を見ると、その可能性は低そうだった。
しかも威嚇するかのように、ガチガチと口を上下に開閉することを繰り返しては、歯を鳴らしている。
「怪異」ではなかったとしても、一〇〇パーセント正気の人間ではない。
――マジかよ。
シバは吐息のように軽いため息を吐いた。
これからどうしようか、とシバが慎重に思案すれば、推定「怪異」が不意に動いた。
その動きは
珍しく、シバは本気でおどろいた。
マギサと出会ってから数々の「怪異」を見て多少慣れてはいたものの、やはり不意を突かれればおどろくのが動物だ。
一瞬、呼吸を止める。
しかしながら「怪異」はシバとの間合いを詰めたというのに、なにかをする様子はない。
それどころか、黒ずんでいて見えない顔の皮膚をくしゃりと歪めたかと思うと、またものすごいスピードで道の奥へと消えたのだった。
――後日、シバの耳にもたらされたのは、「ネイルポリッシュのにおいが嫌いな女」の怪談だった。
その女は出くわした人間をものすごいスピードで追いかけ、捕まえると頭からバリバリと食べてしまうという。
しかしネイルポリッシュのにおい――有機溶剤臭が嫌いだという弱点があるという……言ってしまえば、対抗法などが伝わっているなど、都市伝説としてはありがちな存在ではあった。
シバは自身の爪に塗られたネイルポリッシュをドラッグストアで買った除光液で落としたあと、文句を言うついでにその情報をマギサの耳に入れた。
以来、その「ネイルポリッシュのにおいが嫌いな女」は姿を見せなくなったと言う。
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