2-1

 かすかに香るのは、古い木のにおい、埃のにおい、それから古い本のにおい、インクのにおい――。


 珍しく暇を持て余したシバが足を運んだのは、馴染みの古書店だ。


 古書店と聞いて想像するような、日を避けるような薄暗い店内に客はまばらで、代わりに古書は天井に届くほどの本棚にぎっちりと詰め込まれている。


 シバの目的は、翻訳小説だ。


 特に、ひと昔どころか、一世紀は前に翻訳された――良く言えば華やかな時代を反映した仰々しく格調高い、悪く言えば古臭い文体の小説を読むのは、シバの趣味のひとつであった。


 そんな翻訳小説を求めるとなると、自然と古書店へ足を運ぶことになる。


 軽やかでわかりやすい文体の、流行りの小説も読みはするが、ときおりあの妙に大げさで、古臭い文体が恋しくなる。


 その日もそういう気分だった。


 だから、シバは馴染みの古書店へと向かったのだが――


「ふらっと出てばったり会うなんて友達っぽくない?」


 運がいいのか悪いのか、いつものニコニコ笑いを浮かべたマギサと出くわしたのだった。


 シバにとって、マギサは特別な存在だ。


 ひとことで言えばそうなる。


 しかしそこにはなにかもを投げ出し、相手を優先したいというほどまでの熱量はない。


 たとえるならば、いつも買っているインスタントコーヒー。


 コーヒーは愛飲しているけれども、豆から挽くほどコーヒーを愛しているというわけではない。


 インスタントでじゅうぶん事足りる。


 シバの中でのマギサの立ち位置というのは、そういうものだった。


 マギサはそんなシバの複雑な胸中など知る由もない顔で、「友達ポイントが上がった!」と奇矯なことを言うのだった。


「どこに行くの?」

「古本屋。……つか、ついてくるんじゃねえよ」

「えー? 私も行きたい!」

「お前……本とか読むわけ?」

「結構読むよ? 大切なことは大体本から教わった!」


 マギサは、「友達」というワードに固執しているところがある。


 憧れ、と言い換えてもいいかもしれない。


 とにかくマギサは「友達」というものに対して、シバにはよくわからない夢や理想を抱いているところがある。


 前々からそのことについて疑問を感じていたシバは、マギサの言葉で少しだけそれが氷解したような気持ちになった。


 マギサが「友達」に幻想を見ているのは、フィクションの影響が強いのだろう。


 漫画も、映画も、ドラマも、小説も、時に友情を美しく――過剰に、誇張して描く。


 マギサは戯画化されたそれらを真に受けて、「友達」という関係性に憧れを抱いているのだろう。


 シバは馬鹿馬鹿しいと思った。


「あほらし」

「えー? 結構勉強になると思うんだけどなあ」

「フィクションはしょせんフィクションだろ。現実とごっちゃにするな」

「ノンフィクションも読むよ?」

「そういうことを言ってるんじゃねえよ」


 マギサが後ろからついてくる気配を感じながら、シバは歩き続ける。


 背後から続く足音が正真正銘マギサのものであることは、振り返らなくてもシバにはわかった。


 そうこうしているうちに、シバ馴染みの古書店の軒先に到着する。


 一歩、店内へ足を踏み入れれば、古書の香りが鼻腔いっぱいに広がった。


 シバはマギサに「騒がしくするなよ」と釘を刺そうとしたが、いつの間にやら背後からマギサの気配が消えている。


 視線を巡らせれば、マギサが店の奥まった場所にいるのが見えた。


 シバは、マギサがいったいどんな本を求めるのか、いささかの好奇心を刺激され、マギサの背後に立った。


 つい先ほどまでとは逆の立場となる。


 ローティーン程度の身長しかないマギサのつむじが、シバのすぐ眼下にある。


 そんなシバと同じように、マギサも下を向いていた。


 それにならってシバもマギサの足元へ視線をやる。


 そこにはくたびれたダンボール箱があり、中には本やノートが乱雑に詰め込まれていた。


 開かれたダンボール箱のフタ部分の裏側には、「日記」とだけそっけなく書かれている。


 古書店で扱うからには、ひと昔どころか半世紀以上前の個人の日記だろうと推測がつく。


 そういった類いの日記は、当時の風俗などを研究している人間が買っていったりする、という話をシバはいつだったか聞いたことがあった。


「他人の日記を覗く趣味でもあんのか?」


 いつもの憎まれ口を叩けば、代わりとばかりにマギサの腹が返事をした。


 大きく腹を鳴らしたマギサに、さすがのシバも面食らう。


「あーお腹すいた」


 マギサはシバに返事をせず、大きな独り言を口にするや、その場にしゃがみこんでダンボール箱の中身を漁り始める。


 シバは面食らったまま、マギサの行動を成り行きで見守る形となる。


 くう、きゅう、とそうしているあいだにも、マギサの腹は小さく鳴り続けている。


「あったあった」


 やがてマギサは段ボール箱の底からハードカバーの日記帳を引っ張り出した。


 経年劣化か、色味がくすんで角が剥げてはいたものの、もとは落ち着いたボルドーカラーだったことがうかがえる。


「買うのか」

「うん。だって、この場で勝手に食べるわけにはいかないし。これは商品なんだし」


 シバは、マギサが熱心にダンボール箱の中身を漁っていた時点で気がついてはいた。


 そこに「怪異」があるのだろうな、と。


 マギサは浮きたった様子で、重そうなハードカバーの日記帳を抱え込み、老店主がいるカウンターへと向かう。


 シバは少しだけ悩んだが、マギサがこのシバ馴染みの店でなにかしでかさないかのほうが心配だったので、マギサの背中を追った。

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