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「おや、なにも書いてないけど……こんな本だったかな」


 老店主は眼鏡のつるに手をかけ、もう一度手にした日記帳のページをめくる。


 独特の雰囲気をたたえて、入店を躊躇させるような圧迫感のある店内に反し、その主は気さくな老爺ろうやであることをシバはよく知っていた。


 この老店主がシバの生業を知っているかはわからない。


 しかし、なんとはなしに知られたくないという気持ちがあった。


 シバへの畏怖も委縮も――軽蔑も、このひとの好い老爺には抱いて欲しくないと思うていどには、この古書店は彼にとって手放し難い場所であった。


「いいんです、それで」


 戸惑いを見せ、記憶を手繰り寄せるような仕草を見せる老店主に対し、マギサはきっぱりとそう言い切った。


「まあ、日記として使えるからねえ」

「いえ――」


 マギサが「食べるんです」と、事情を知らない人間からすれば――知っていても、だが――素っ頓狂なことを言い出す前に、シバはその口を手で塞ぐ。


 マギサは意外にも暴れもせずに大人しくそれを受け入れた。


 そんなふたりを見る老店主の目はどこか温かみに満ちており、シバは居心地の悪い思いをする。


 なにか、誤解が生まれている気がする――。


 同時に湧いてきた行き場のないイラ立ちをぶつける場所がなく、シバはぶっきらぼうに白紙の日記帳の値段を聞いた。


 日記帳は重厚なハードカバーではあるが、角は剥げていたし、ページの上部分などは日焼けが甚だしい。


 そのせいか、老店主が口にした値段は駄菓子とそう変わりがないものだった。


「安いな」

「なにも書いていないからねえ……状態も悪いし」


 老店主の言葉を聞いてから、シバはマギサの口から手を放し、「おら、とっとと払え」と促す。


 しかし――


「お金、ないや」


 マギサから――シバにとっては――驚愕の言葉が飛び出してきたので、シバはまた面食らった。


 繰り返しになるが、老店主が提示した金額は駄菓子を買うのとそう変わりがないものだ。


 しかしマギサの手持ちは完全にないのか、あるいはジュース一本すらも買えないような小銭しか持っていないらしい。


 シバは反芻するようにびっくりした。


 シバだってそりゃ金持ちからはほど遠い。


 裏社会の人間と言ったって、シバは下っ端だから、ボスや兄貴分たちと違って羽振りが良いわけではない。


 けれども、しかし、それにしたって――。


「……なんか食いもんひとつ買えるくらいの金は持って出ろよ」


 シバが呆れた声を出しても、マギサは反省している様子は微塵もなく、いつも通りに糸目を極限まで細めて微笑んでいるだけだった。


 さしもの老店主も目を丸くしているのがシバにはわかった。


 それがなんとなく恥ずかしくなり、シバは尻ポケットへ雑に突っ込まれていた紙幣を取り出す。


 決して、マギサに同情したわけではない。


 シバは内心でそんな言い訳をしながらマギサをにらみつけるように見た。


「……貸しだからな」

「返せるアテがないよー」

「働け!」


 ニコニコと笑んだ顔のままでふざけたことを言うマギサを叱りつける。


 シバはマギサの懐事情に思いを馳せずにはいられなかった。


 たしかに、マギサが働いているところはほとんど見たことがない。


 フリーターを自称しているにもかかわらず、アルバイトをしている様子はない。


 どうやって暮らしているのかは前々から謎に思っていたが、突っ込んで聞いたことはなかった。


 詮索屋はどこでだって嫌われるものだ。


 マギサが特に生活に困っている様子は感じられなかったから、貯金くらいはあるのだろうとシバは勝手に思っていた。


 それどころか、汗水垂らして働かなくてもいいくらいの資産はあるのかと妄想すらしていた。


 しかし妄想は妄想に過ぎなかったらしい。


「マジ働けよ」


 老店主が釣銭を数えているあいだに、シバはマギサに呆れ声で釘を刺す。


 しかしマギサはシバから厳しい視線を頂戴しても、平然と笑っているだけなのであった。


「……で、それ、『怪異』なのか?」


 妙に恥ずかしい気持ちで古書店をあとにしたシバは、日記帳を抱えて隣を歩くマギサに問うた。


「まあ、ちょっとね。ちょっと実験したくって」

「実験?」

「ちょっと前に変なしおりを手に入れたんだ。挟んだページの文章を書き換えちゃうしおり」

「クソ迷惑なしおりだな」


 シバは、ふとその入手経路について考えたが、マギサのことだ。


 「どこかで拾った」とか、ふざけた回答が返ってくるに違いないと考えて、それは口には出さなかった。


 マギサは、シバの言葉を受けて話を続ける。


「うん。それで、じゃあ白紙のノートなんかに挟んだらどうなるかなって」

「あらかじめ書かれた文字を書き換えるしおりなら、白紙のノートに挟んでも意味ねえだろ」

「うん。実際意味なかった。だから、『怪異』の気配がする本に挟んだらどうなるのかなーって思って」


 シバが横を向けば、マギサは珍しくいたずらっ子のように笑っていた。


「それにあのしおり、なんだか言いたいことがあるみたいなんだよね」

「お前、『怪異』と話せたりするんじゃないのか?」

「ケースバイケースだね。ひとくちに『怪異』って言っても、色んな種類があるし。『サラダボウル・シティの住民』って言っても、異世界人から異星人まで含んでいるのと同じだよ。だから、意思疎通ができない場合もあるって感じ」


 マギサはそこで言葉を一度切り、今度は真剣な顔をしてシバに問う。


「ねえ、しおりが言いたいことあるとしたらさ、なんだと思う?」


 シバの答えはひとつだった。


「知るか」

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