13

「毎朝毎朝うっせーんだよババア!!!」

「んまーっ! なんて罰当たりなことを言うんでしょう?! まったく最近の子はこれだから……」

「ハアー?! 毎朝毎朝毎朝! 妙な呪文聞かされりゃあだれだってキレるっての!!!」


 そこそこの築年数を経ていると思われる、それなりに古ぼけ始めているアパートの前。


 そこでは大声で互いに罵り合う、いささかカタギには見えない若い男と、白髪が目立ち始めている中年の女がいた。


 シバは互いを罵倒し合うふたりを見て、目を平たくする。


 そんなシバの横には、例によってマギサがくっついていた。


「あれがシバの友達?」

「『友達』なわけあるか。毎度毎度そういうこと聞くんじゃねえよバカインコ」


 「インコよりは賢いと思う!」と主張するマギサを見やることもなく、シバはさんさんと輝く太陽に視線を向け、その光が目に染みるのを感じながら現実逃避を決め込もうかとも思った。


「あーっ! シバさん!!!」


 しかし中年女と罵倒合戦を繰り広げていた若い男が、シバを見つけて声を張り上げてその名を呼ぶ。


 シバは仕方なくといった態度を――実際、仕方なくこの場に出向いたのだが――前面に押し出し、緩慢な動作でふたりのそばへと近づく。


「来てくれたんですね?!」

「声デケーよ。近所迷惑考えろ」

「あっ……すんません。このババアの声がでかすぎて、つい」


 若い男はつい最近シバが属する組織に入った新顔で、下っ端の中のさらに下っ端という立ち位置にいる。


 歳はシバよりも下で、いかつい顔立ちの中にもまだあどけなさが混じっているような、そんな年齢だった。


 組織に居座っている年季も違えば、年齢も立場もシバのほうが上なので、この若い男はシバには恐縮した態度を取る。


 しかしそれでいい気分になるほどシバは単純な人間ではなかったし、そもそもこの若衆は目上であるはずのシバを呼び出している。


 そう考えるとシバの胸中に「余計な手間かけさせやがって」といった言葉が浮かぶのも無理はないことであった。


「カタギ相手にそんな熱くなるなよ」


 シバは頭の中で「めんどくせー」という言葉が猛スピードで敷き詰められていくのを感じながら若衆をたしなめる。


 シバは組織のトラブルシューター。


 やや不本意ではあるが、マギサと出会ってからあと、そういうことになっている。


 若衆が中年女となにを揉めているのか聞き出してはいないシバではあったが、先ほどの会話からなんとはなしに推察はしていた。


 こういった壁の薄そうなアパートにはどうしたってついて回る問題――騒音問題。


「でもこのババア、態度がナメくさってるんすよ! ヤクザはナメられたらおしまいでしょ?!」


 若衆の物言いに、シバは頭を抱えたくなった。


 鉄砲玉にでもなって捕まるならまだしも、ヤクザが騒音問題でカタギと揉めて後ろに手が回るだなんてことは、シバの価値観からすると「ダサい」ことであった。


 しかも若衆は勝手に組織の名前をおおっぴらに出している様子。


 ハッキリと頭痛がした。


「バカ、時と場合ってもんを考えろ。オレらは日陰モンなんだぞ」


 シバはため息をついたあと、また若衆をたしなめる。


 若衆はあからさまに不満そうな顔をして、それでも一応黙り込みはした。


 しかしそうなると、今度は白髪の目立つ中年女がやかましく囀り始める。


「アナタ! この子のお友達?!」

「ハ、ハア……?」

「この子ずいぶんと失礼なことばかり言うのよ! ホントもーイヤんなっちゃうわ!」

「あんだとババア!!!」


 シバは「イヤになるのはこっちだよ」と思いながら、また懲りずに罵倒合戦を始めた若衆と中年女とのあいだに渋々割り込む。


「いい加減にしろ」

「このババアが悪いんすよ! 早朝から変な呪文大声で唱えて! うんざりしてるのはおれだけじゃないんで!」

「んまーっ! 失礼な子っ! あれはねえ、解心かいしん様に『毎日ありがとうございます。今日も一日お願いします』と伝えるための大切なお言葉なのよ?! 呪文だなんて邪悪なものと一緒にしないでちょうだい!」


 シバは頭痛が増すのを感じた。


 目の前にいる若衆も、中年女も、一律ハッ倒して黙らせたい気持ちに駆られる。


 しかし若衆だけならともかくも、中年女はカタギである。


 下手にカタギに手を出せば、面倒なことになるということなどわかりきっている。


「おれが気に入らねえならそのカイシンサマ? とやらの力でなんとかして見せろよ! ええ? できねえだろ!!!」

「んまーっ! 解心様を愚弄する気?! ええ、ええ、解心様のお力があればねえ! アナタみたいな失礼な子の心だって解きほぐせるのよ! ええ!」

「頭腐ってんのかババア?! やれるもんならやってみろ!!!」


 シバを挟んでもなおヒートアップする若衆と中年女の言い合いに、シバはいい加減嫌気が差してきた。


 時刻は正午過ぎ。


 例によってばったりと出会ったマギサに誘われて、マギサの家で昼食を取る予定だった。


 しかしそこへ若衆からの助けを求めるメッセージが飛んできたので、シバは律義さを発揮して彼の元へと訪れたのだが、この有様である。


「テメエら、いい加減に――」


 いよいよシバの堪忍袋の緒も切れかけたときに、きゅう、と間の抜けた音が鳴った。


 マギサの腹の音だ。


 しかしそれに気づいたのはシバだけだったようで、若衆と中年女は言い合いを続けている。


「いいでしょう! いいでしょう! わたしの解心様はねえ! これまでにも不信心な無礼の輩に鉄槌を加えてきましたからね! その恐ろしさを今目に焼きつけなさい!」

「ハアー?! 中二病か?! そういうのは中学生で卒業しとけよ!」


 シバはマギサを見た。


 マギサはいつの間にか中年女の後ろに、音もたてずに立っていた。


 そして――


「あ、あら……?」

「おい、どーしたよババア! カイシンサマとかいうバカみてーなの、本当はいねえんだろ?!」

「え? え? え? おかしい、おかしいわ……」

「ああ?!」

「解心様! 解心様がいらっしゃらない! どこにもいらっしゃらない!!!」


 マギサがそっと中年女の背後から離れると、まるでそれが合図かのように中年女が騒ぎ出した。


 シバと若衆と中年女。その中で今なにが起こったのかを正しく理解しているのは、シバだけだった。


 マギサの主食は「怪異」である。


 そしてマギサはつい今しがた、食べたのだ。「解心様」とやらを。


 ……どうやら、正体はともかくも「神」として信仰されている存在でも、マギサからすると食べられる「怪異」としてカテゴライズされるらしかった。


「そんな、え? そんな、うそでしょう?!」


 先ほどの勢いはどこへやら、声を、体を、わなわなと震わせて、中年女はうわごとのように同じ言葉を繰り返し始める。


 そんな尋常ならざる中年女の様子を見て、さすがの若衆も溜飲を下げるどころか、当惑を隠しきれない顔をする。


 やがて中年女は血走ったうつろな目を若衆へと向けた。


 シバのイヤな予感は当たるもので、中年女は


「お前かあああああああ!!! 解心様をどこへやったあああああああ???!!!」


 と、ツバを飛ばしながら叫んで若衆に突進したかと思うと、恐るべき力でその首を絞め始めたのだ。


 若衆は「ぐええっ」とつぶれたカエルのような声を出し、口の端から泡だった唾液を吹き出し始める。


 無論、このまま――カタギに殺されるヤクザなんて「ダサ」すぎるので――殺人を見過ごすこともできず、シバは中年女を若衆から引き剥がしにかかる。


 「解心様」とやらを食べた当のマギサは満足したのか、腹いっぱいになったからなのか、いつも以上に糸目を細くしてぼんやりとしている様子。


 シバは中年女を羽交い絞めにしながら、心の中であらん限りの悪態をつきまくった。



 後日、そのときの出来事が原因かは知れないが、若衆はいつの間にかサラダボウル・シティから自発的に失踪した。

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