第10話 未散/煬
掌から、指先へ。丹田に力を込めて、未散は自らの霊気を炎に変換する。
狙うは足下に迫る人食い虫。直刃が白丁を獲物にすると断じたからには、彼の言う通りこちらは人食い虫の対処にあたるのが妥当というものだろう。
白丁を引き連れて突如干渉し、万由の引き渡しを提示したいちといという術者──それが結んだ印により、人食い虫は出現した。ならばいちといが一連の事件の首謀者なのだろうか。
(いや──今は目の前の敵に集中しなければ)
思案の内に耽りそうになり、未散はそんな自我を叱咤する。あれこれと考えるのは、敵を片付けてからでもできる。
人差し指と中指を立て、円を描くように腕を振る。未散と万由の足下を取り囲むように、炎の円が生じた。
「万由殿、この円の外へ出られないように。これで足下より来たる虫は防げましょう」
ちらと背後を顧みれば、青い顔をした万由が視界に入った。いきなり見ず知らずの人物に連行されそうになった上、血なまぐさい荒事まで見せられる羽目に陥った彼女には同情する。連日に渡って修羅場を目の当たりにして、心が参ってはいないだろうか。
そんな万由にこれ以上苦労をかけないためにも、どうにかこの場を切り抜けなくてはならない。細く息を吐き出し、未散は地を這う虫を見据える。
今のところ、人食い虫に這う以外の移動手段は見受けられない。余程接近されない限り、食われるまでには至らないだろう。ならば接近される前に虫を潰すのが常道だ。
一度瞑目し、未散は複数本の矢を想起する。自らの内に渦巻く霊気が体外へと放出され、未散が目を見開いたと同時に炎が矢を象って人食い虫へと向かう。炎の鏃は真っ直ぐに標的へと突き刺さり、人食い虫は抵抗する間もなく燃え上がった。まずは攻撃が当たったことに安堵しつつ、未散は内心で臍を噛む。
飛行能力がない人食い虫を潰すには足下に攻撃を集中させれば良い訳だが、標的のみに留めなければ直刃やあやめをも巻き込みかねない。二人は気にしないかもしれないが、味方を傷付けたとなれば波分家の名折れだ。何より未散が罪悪感を覚えずにはいられない。
味方に被害を出さず、かつ人食い虫を一掃する方法はないものか。火矢を次々と打ち込みながら、未散は思考する。いくら直刃が手練れといえど、彼一人に白丁全てを任せきりにするのは無理があると思う。早いところ虫を片付けて、彼の援護にも向かいたいところだ──。
「──余所見とは、随分と余裕がお有りのようで」
「……⁉」
その声は、たしかに耳元で聞こえた。
咄嗟に未散は身を翻す。炎──正確には未散自身の霊気によって円の外周部全体に結界を張っていた安全圏に、何故かいちといの姿がある。
万由を連れ去られてはいけない。強引な手付きになるのは承知の上で、未散は彼女の腕を引いた。きゃっ、と万由が短く悲鳴を上げる──申し訳ないが、謝罪は全てし済ませた後だ。
「何故結界の中に立ち入れるのか、とでも言いたげなご様子。この程度のお粗末な結界でわたくしを防げる、などと──とんだ思い上がりでございますね。うふふふふふ……」
こういった手合いの言葉に耳を貸す道理はない。顔をしかめ、未散は素早く守り刀を抜き去る。そのまま勢いに任せて横薙ぎにするが、刃が当たる前にいちといの姿は消え、何事もなかったかのように再度背後を取られる。
「あなたは恐れておられるのですね──人殺しを。故に、このわたくし、そして白丁までもを焼き殺せずにいる」
ひゅっと、未散の喉が音を立てた。
視界がぶれる。一時ではあるが呼吸を忘れ、胸がずきりと痛む。
それがいけなかった。はっと意識を現に戻した時には、白丁の振るう直刀が己に迫っている。
万由がぎゅうと腕を掴むのがわかった。こんな時でさえ、彼女への申し訳なさが募る。自分がもっと上手くやれていれば、今よりも勇気があれば──こんな恐ろしい思いをさせることはなかったかもしれないのに。
未散は唾を飲み込んだ。近付いてくる白刃が、やけに緩慢に見える。だからといって攻撃を避けられる訳ではないが──できることはやっておかねば。
一歩、未散は踏み込む。距離感を誤った直刀が、肩口を裂いた。焼け付くがごとき痛みが飛来する──しかし未散は怯まない。
「──ふんッ!」
躊躇いなく白丁の胸ぐらを掴み──未散はその眉間に、勢いよく頭突きをお見舞いした。
ぐわん、と脳髄が揺さぶられ、目の前が一気に歪んだ。耳鳴りと目眩、一拍遅れて頭部への猛烈な痛みがやって来る。
だが、ここで倒れてはいられない。未散は両足に力を込めた。そのまま守り刀を構えた──ところで、どうと何か倒れる音を拾う。
「油断は禁物、ですよ」
見れば、地に倒れた白丁の背後にあやめが立っている。頸に鎧通しを突き刺して、止めを刺したのだろう。
自由気ままに動いているようで、意外と周りを見ているのだろうか。あやめへの認識を改めつつ、ひとまず未散は感謝を伝えようとした──が。
「……?」
急に視界が赤くなる。目の前が見えなくなり、思わず瞬きした。鉄のにおいがする。
「は、波分様……! あっ、頭、怪我を……!」
万由がおろおろしている声が聞こえる。言われた通りに額へと触れる──生ぬるい液体に触れた。
なるほど、先の頭突きで怪我をしてしまったらしい。最早何の痛みなのかすらわからないが、妙に額が熱いのはそのせいだろう。
しかしこの程度で根を上げてはいられない。ふうぅ、と息を吐き出し、未散は目に入った血液をぐいと拭った。端から見れば、血涙を流しているようにも見えるかもしれない。
「気にするな! 私は元気だ!」
「そ、そのように言われましても……」
「大丈夫だ、この程度の血ならすぐに止まる! あやめ殿、手間をかけさせてすまない」
「お構いなく。して、未散さん。まだ炎は出せますか?」
わかりやすく困惑している万由とは対照的に、やはりあやめは平然としている。一介の使用人にしては肝が据わっているというか、怖いもの知らずというか……場馴れしている、と表現するのはおかしいだろうか。
何にせよ、あやめの戦意は未だ健在のようだ。そのことに安堵しつつ、未散はうなずく。霞む視界では見える範囲にも制限がかかるが、目視しただけでも残る白丁は十人にも満たない。もこもこした人影が見当たらないので、いちといは既に撤退したのだろうか。人をあれだけ挑発しておいて自分はさっさと逃げるなど、むかっ腹が立って仕方ない。
「未散、唇を噛むな。お前に頼みたいことがある」
いつの間にか、あやめの代わりに直刃が側に寄っているらしい。こそりと耳元で囁かれた。その声色は珍しくぶれている──息切れしているのだ。
未散には、口にするのは憚られる思いを抱いた時に唇を噛む癖がある。知らず知らずのうちに染み付いてしまったそれは、言われなければ気付かない程には日常と化していた。そういえば、今朝も直刃に止められた気がする。
それはさておき、彼には何か考えがあるらしい。未散は黙して聞き役に回った。
「時機を見て、お前の名を呼ぶ。それを合図に、地を這う虫を燃やせ」
「しかし、それではお前たちが」
「心配ない。味方を焼く必要はない──直刃を信じろ」
こうまで力強く言われては、断るのが悪いように思えてくる。何より、敵がまだ残っている以上、もたもたしてはいられない。未散は即座にうなずき、首肯を示した。
直刃が駆けていったのを確認して、再び結界を張り直す。いちといには破られてしまったが、あの術者はもういない。白丁たちなら、防ぐことができるだろう。
やっと赤みが抜けてきた視界で見る直刃は、やはり命の取り合いに慣れている。襲いかかる白丁を前に臆した様子もなく、次々と斬り捨てていく様は一連の流れであるかのようだ。攻撃であれば簡単に避けるのに返り血は避けないというのは、些か理解し難かったが──戦いに身を置く者には色々あるのだろう。未散は深く考えないことにした。
対して、あやめの動きには無駄がない。軽やかな身のこなしで、白丁たちの急所を切り裂いていく。直刃に比べれば撃破数は劣るだろうが、それでも昨日と比較して戦闘に順応している。直刃の霊気が馴染んできたということか。
そんな二人は、ある時点で示し合わせたように視線を交わした。直後、直刃が今までで一等大きな声を上げる。
「──未散!」
頃合いということか。一抹の不安はあったが、今更迷ってはいられない。直刃への信頼を裏切るつもりは毛頭なかった。
掌を広げ、地面を注視する。思い浮かべるは、一面の赤──言うなれば、火の海。
何を口にするまでもなく、未散の夢想は現に投影される。見計らったように跳躍した直刃とあやめを余所に、今まで彼らが立っていた地面が轟と燃える。舐めるように地表を覆う炎は、人食い虫を焼き尽くし、白丁の足下を焼いた。
瞬きひとつせず、未散は息を止める。直刃とあやめが着地する頃には、炎は跡形もなく消え去っている。苦しむ様子はないが火傷によって足下の覚束ない白丁の首が、すぱんと飛んでいく。直刃が瞬く間に制圧したのだ。
「これで全滅だ。協力に感謝する」
長巻の血を払い、直刃は相変わらず抑揚に欠ける声でそう告げた。先程までの揺らぎはどこにもない。
式神だと理解してはいるが、こうも無機質だと本当に心があるのか疑問に思う。最も身近な人ならざるもの──細波の感情表現が豊かなことも影響しているだろう。逆に、息を切らして駆け寄ってきたのが珍しいのかもしれない。
首謀者と思われるいちといを確保することはできなかったが、ひとまず窮地は脱した。安心したからか痛みが明確になる頭部に眉根を寄せながら、未散は直刃に応じようとする。
「失礼する」
「へっ?」
──よりも早く、直刃が動いた。
どうにか立っている未散の腰を掴み、彼はひょいと小脇に抱えた。そして有無を言う間もなく駆け出した。
「ちょ、す、直刃⁉️ おま、お前、何して⁉️」
「救護活動だ。お前の負傷は決して軽いものではない──よって、校倉まで
「と、吶喊ってお前……! というか下ろせ! 自分で歩ける!」
「直刃もよく小脇に収まって移動する。気にすることはない」
「は⁉️ 冗談だろう⁉️」
「是。冗談」
ふざけるなと抗議したかったが、それよりも先に直刃は速度を上げている。下手に文句を言おうとすれば舌を噛みかねない状況なので、未散は否が応にも口を閉ざさなければならなかった。
そして直刃の乗り心地──運ばれ心地と言うべきだろうか?──はお世辞にも良いとは言えず、むしろこれまで経験した移動手段の中では最低の位置に収まる程だ。直接言うのはさすがに憚られるが、一言で表現するなら最悪である。
腰は固定されているがそれ以外がとにかく揺れる。頭など、両手で押さえていなければ首の据わっていない赤ん坊と遜色ない安定感だった。
こうした環境もあり、隠れ家に到着した時点で未散は散々な酔い方をしていた。到着と共に急停止した直刃を、彼女は内心で恨む──速度の落差で意識が飛びかけた。ただでさえ強烈な目眩と吐き気に襲われているのに、これ以上体調不良を悪化させられたら堪ったものではない。
「到着した。直ちに治療へ移行するべきだろう」
「して……降ろして……」
「顔色が悪い。室内まで運ぼう」
「話を……聞け……も、無理……」
直刃に悪意がないのはわかる。むしろこちらを案じているのだろう。戦闘中から、彼の気遣わしげな視線には気付いていた──斬りかかられた時、真っ先に駆け寄ろうとしてくれたことも。
だが、今の未散はそれどころではない。じたばたと手足を動かし、どうにか直刃の拘束を逃れる。四つん這いで草むらまでたどり着くと、未散は胃の中のものを全て草陰に吐き出した。
我ながら情けない光景だと思う。波分家の名代として威厳ある姿を保たなければならないのに、負傷して米俵のように担がれた挙げ句、天下の織田家からの使者の前で吐きまくると来た。生理的なものとは別の涙までこぼれそうだ。
吐いている間はそちらに意識が寄っていたので、いつ頃からいたのか定かではないが──いつの間にか、直刃が傍らに寄り添ってくれていたらしい。出すものを出しきって荒い息を繰り返していると、そっと背中に手を添えられる感触があった。そのままゆっくりと擦られて、未散は羞恥のあまり本当に泣きたくなってしまう。
舐められないように、侮られないように精一杯やってきたつもりだった。だが、どれだけ表面は取り繕えても、もともとの脆弱さや不出来は隠しきれない。出会ったばかりのいちといにさえ、己の弱さを看破された。
消えたい。顔を上げられない。どうにか涙がこぼれ落ちないよう、未散は目尻に力を込める。こんな醜態を晒して、迷惑をかけて、自分は名代失格だ。任務、そして波分家を背負う立場がなければ、今すぐにでも琵琶湖に飛び込んでその生涯を終えてしまいたかった。
「未散」
背後からかかる声は、変わらず平坦で凪いでいる。晴れた日の湖面を想起してしまう自分が恨めしい。
無視するのも往生際が悪い気がして、未散は半ばやけくそに振り返った。きっと──いや、確実に酷い顔をしているだろう。額からは血を流しているし、口元は吐瀉物まみれ。顔色だって悪いはずだ。おまけに無表情を取り繕うこともできずにいるから、どこからどう見ても無様なことこの上ない。とても任務を共にする相手に見せられた姿ではなかった。
これでいつもの無表情ならば、少しは救われたかもしれない。しかし、あろうことか彼は瞠目した。焦点の定まらぬ視界でもわかる程、はっきりと。
「……なんだよお、笑いたければ笑えよ」
存外に傷付いたのだと、口にしてから気付く。平生なら弱音を吐くまいと唇を噛んで我慢するのに、今この時は本音がこぼれ出てしまった。自覚していた以上に心が弱っているということだろうか。
これを受けて、なんと直刃は本当に笑った。わざわざ面頬まで外し、綺麗に上がった口角を見せつけてくる。普段の無表情からは想像もできない、完璧な微笑みだった。
こいつ、と顔を歪めた未散だが、彼女が何かしらの行動を起こす前に直刃の手が伸びていた。片手で柔く顎を捉えられ、互いの眼差しがかち合う。
「ああ、見えた。それがお前の真価なのだな」
直刃の発言の意図はわからない。上手く回らぬ頭では、その意味合いを憶測しようとするだけで意識が飛んでしまいそうだった。
真正面から見る直刃の素顔は美しかった。口を開き、言葉を紡ぐ度に覗く鋭い牙が、彼を人に似て非なるものなのだと実感させる。滑らかな頬は返り血だけではなく、内側からも仄かに紅潮している。
「よく秘してきたものだ。たしかに余人の目に許すのは惜しい」
するりと、頤に添えられた人差し指が頬を撫でる。真意こそ読み取れないが、直刃が己を嘲っている訳ではないと理解することはできた。
鋼の色をした双眸が、溶けるような熱をもって射抜いてくる。本能的に、気安く触れてはいけないものだと直感した。体の内側が
あっと思った時には遅かった。腰を抱かれ、一気に引き寄せられる。鉄のにおいが鼻先に広がり、額に柔らかなものが触れた。直後、熱く湿った何かがぬるりと皮膚を這う。
傷口を舐められた。そう気付いた時には、直刃の顔が離れている。目を細め、微笑みながら舌舐めずりする彼の面差しが、不気味な程鮮明に映し出される。
未散は短く息を吸い込み、そして薄れ行く意識の中で悟る。これは化生だ。人を模した、荒ぶる鬼神であると。
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