第12話 未散/詼
鈍痛と共に、未散の意識は浮上する。まず目に入ったのは見知った天井で、自分が隠れ家の自室に寝かされていることを遅れて理解した。
痛みとだるさはあるが、今のところ体内を流れる霊気に異物感はない。直刃があやめにすしたように、他者の霊気を注ぎ込まれてはいないようだ。
そのことにひとまず安堵し、未散はゆっくりと身を起こす。一瞬視界がぐらりと傾いだが、一時的なものだ。じっとしていると、すぐに収まった。
昨日のような吐き気はない。出血による貧血と、疲労による不調が併発しているものと未散は判断した。額に触れ、当て布をされていると確認する──あの後、誰かが治療してくれたようだ。布に液体が染み込んだ気配はないので、出血は止まっているとみて良いだろう。斬られた肩口も手当をされているようで、襦袢の下にごわごわとした包帯の感触があった。
「──あら、起きられたのですね」
少し経てば立って歩くこともできそうだと思い、手櫛で髪の毛を梳いていた矢先、すっと襖が開いた。見れば、湯気を立てる器を持つあやめがいる。
未散は慌てて居住まいを正した。まさか寝起きを見られるとは思いもしなかった。直刃のみならず、あやめにも情けない姿を見せる訳にはいかない。
「ああ、お気になさらず。眠っておられる間も、度々お邪魔していたので……。それよりも、お加減はいかがですか。ものは食べられそうですか」
「……味の濃いものでなければ、多少は」
「なら良かった。ありあわせのもので恐縮ですが、粥を作りました。冷めないうちにどうぞ」
周囲を観察してみると、布団の側には水を入れた桶と手拭いがある。どうやら眠っている間に体を拭かれていたらしい。どうか世話をしてくれたのが女性でありますようにと、手遅れながら未散は祈った。
過ぎたことをいちいち気にしていてはきりがない。数々の醜態を晒してしまった事実から顔を背け、未散は粥をいただくことにする。山菜の入ったそれは素朴ながら美味そうで、芳しい香りが未散の食欲を刺激した。手を合わせてから匙を口に運ぶ──美味い。
「少し冷めていましたか?」
ゆっくりと咀嚼していると、あやめが僅かに眉尻を下げて問いかける。息を吹きかけず、そのまま食したのが気にかかったようだ。
「いや、温かいよ。私は熱いものに強いから、余程高温でなければそのまま食べられるんだ」
「まあ、そうでしたか。あたしは猫舌なので、羨ましいです」
「逆に冷たすぎるものは苦手だがな。冬の真水は特に堪える」
「では、あたしたちは正反対ということですね」
不思議なものです、と呟くあやめは年相応の娘らしい顔付きをしている。今まで憂いに沈んだ顔か、敵意に満ちた表情ばかり目にしてきたので、未散は少し安堵した。
たしかに、自分とあやめは正反対だ。熱の感じ方に限った話ではない。あやめは勇敢で敵を恐れず、主君の仇を取るために戦うことを辞さない。臣下の鑑とも言うべき在り方を体現している。
それに比べて、己は臆病だ。いちといに指摘された通り、たとえ敵であっても人を殺すのが恐ろしい。その人間にも自分と同様に人生が、大切なものがあるのだと想像して、その命を奪うことに罪悪感を覚えずにはいられない。
きっとこの時代に向いていないのだと何度となく思い、その度に言い訳じみた思考へと至る自分自身が浅ましく感じられて辛くなる。世に適応できず、かといって意思を貫くだけの胆力はない。なんと愚かで、恥にまみれた生き方だろう。
「未散さん?」
手が止まったのを見咎めたあやめが呼び掛けてくる。反射的に未散は顔を上げ、何事もなかった素振りで再び食事へと戻る。
完食するまで、あやめはここにいるつもりなのだろうか。気持ちはありがたいが、居心地が悪い。
ちらと横目で様子を窺うと、瞬く間に目が合った。落ち着いた、淡泊に過ぎる眼差し。直刃のそれと似ているようで、あやめのそれには温度がない。恐らく、自分に対する興味関心が希薄なのだろうと思う。
「直刃さんと万由様ならばお元気でいらっしゃいますよ」
何を思ったか、あやめは開口一番にそう伝えてきた。話の糸口が見えず、未散はぱちくりと瞬きする。
「未散さん、万由様のことを無駄に気にかけておられますでしょう? 今も気にしているのではないかと思って。逆に直刃さんはあなたのことをいたく心配しておられました。おかげで帰り道はあたしと万由様の二人きりだったのですよ」
こちらの意図を汲んでか、あやめが説明を加える。無駄に、の部分に力がこもっているように聞こえたのは気のせいだろうか。
自分のことばかり先行してはいたが、万由のことが心配なのは事実だ。彼女が無事とわかり、未散は僅かながらではあるが脱力する。そうか、と相槌を打った声は震えていないだろうか。平生のように振る舞えていれば良いと思いつつ、あやめへと向き直る。
「それなら良かった。皆には、私の不手際のせいで迷惑をかけた……本当に申し訳ない」
「謝罪を求めている訳ではありませんよ。大体、怪我をされたのは未散さんだけです。どちらかと言えば、感謝を伝えるべきかと存じますけれど」
「感謝?」
「ええ。万由様が、未散さんに」
何故、と口にはしなかったが、疑問は読み取られていたらしい。これ見よがしに溜め息を吐かれた。
「前々から思ってはいたのですけれど、未散さんは他人にはよく気を配られるのに、ご自分に対してはなおざりですね」
「……すまない。不愉快にさせたのなら──」
「ですから、謝罪は結構。ですが、見ていて不思議に思います。戦闘要員でもない、調査に役立つような知識もない、第一側に置いておく理由がない──そんな万由様のことを、あなたはお側に置くどころか、甲斐甲斐しく世話を焼いて、自らが怪我をされてまでお守りしようとする。相手から感謝の言葉ひとつ伝えられず、むしろ屋敷を焼いたというただそれだけで忌避されているのに、どうして? 恩を売ったところで、あなたに利益はないでしょうに」
あやめの口調は淡々としていた。しかし、そこには確かな芯がある──ように、聞こえる。
万由から避けられている──否、うっすらとした嫌悪感を抱かれていることは未散本人もいたい程感じ取っていた。彼女にとって、自分は住むところを奪ったならず者なのだろう。明確に拒絶されることこそないものの、己に向けられる万由の視線はいつだって厳しく、言動には薄く張った壁がある。
そんな相手に、何故わざわざ尽くすのか。あやめの指摘も尤もだ。本来ならば親元へ送り返すか、あるいはあのまま捨て置いていても構わなかった。波分家と片古家に交流はなく、人食い虫に関する証言を得られたのなら万由を側に置いておく必要などなかったのだから。
「……民だからだ」
だが、未散はそのいずれもしなかった。もとより、利益など考えてはいない。
あやめがじっと見つめてくる。その視線を真っ向から受け止め、未散は言葉を紡ぐ。
「波分家は民の存在なくば成り立たない。これまで家名を存続できたのは、近江の民たちが波分家の存在を受け入れてくれたからこそだ。織田家の庇護と援助を得られたのも……我々が民の信頼を得ているが故。ただの術者では、今のようには立ちゆかなかっただろう。故に我々は民の安寧を守る。彼らの暮らしが、少しでも良い方向へ向かうように尽力する。全ての民を救うことは、不可能かもしれないが……それでも、目の前に路頭に迷った民がいるならば、それが誰であろうと力になる。特別な理由なんて、何も要らない」
そこまで言い切り、未散は息を吐き出した。こうもはっきりと胸の内を
あやめの顔色は変わらない。ただ、いつもなら冷め切っているその顔に苦笑が浮かぶのは見て取れた。呆れられているらしい。
「酔狂ですね。損ばかりしそう」
「そうだな。まあ、それもこれも全て波分家の先達からの受け売りだ。もとより波分家は酔狂の集まりということになるな」
「まあ、おかしいこと。でも、世の中って大抵おかしいですから。あたしは気にしませんよ」
くつくつと、声を上げずにあやめは笑う。袖で口元を隠す姿には、そこはかとない品がある。
そういえば、彼女は人商いによって売り飛ばされたのだったか。世の理不尽を憂うどころか、過去の出来事として割り切っている──風に見える──あやめはやはり強い。
「あたしね、酔狂な方って、存外に嫌いじゃありませんの。それに、未散さんはお可愛らしい方ですから、どうかそのままでいてくださいな」
笑いの余韻を引きずりながら、あやめが麗らかに言う。多かれ少なかれ好意的に受け取られたのは良いが、子供扱いされているようで未散としては納得がいかない。じっと白眼視してみると、あやめはおかしげに目を細めた。
「ふふ、侮っているのではありませんよ? むしろ褒めております。あたしが見た酔狂の中では随分と愛らしくて、心和む方でいらっしゃるものだから……。今時、こうも平和な方がいるものかと、驚いてしまったのです」
「褒められているようには聞こえないが……」
「あら、ではあたしのことを手討ちになさいますか?」
「するか! 私のことをなんだと思っているんだ⁉」
「ほら、そういうところですよ。未散さんはお心ひとつで容易く人を傷付けるだけの力をお持ちなのに、なるべく平和的な選択肢を選ぼうとなさるでしょう? 和を重んじるその心持ち、あたしは尊ぶべきものだと思います。いつでも躊躇ってばかりというのはいかがなものかと存じますけれど」
ふと、あやめは遠い目をする。過ぎ去った過去を思い起こしているようだった。
「ねえ未散さん。もし、もしもね、たまたま通りかかった先で、複数人が一人を取り囲んで折檻していたら、いかがなさいますか?」
「は……?」
唐突な質問に、未散は目を丸くする。しかしあやめに問いを撤回する素振りは見受けられず、こちらが解を出すまで待つ姿勢に入っていた。
一度瞑目し、言われた通りの光景を想起する。……が、たとえ想像であっても見ていて気持ちの良いものではない。すぐに瞼を開き、顔をしかめながら未散は答えた。
「たとえその一人が何を仕出かしたのだとしても、私刑は褒められたものではないな。暴力を振るうに値すると判断させるだけのことをやらかしたのだとしたら、まずは然るべき機関に届け出るべきだろう。何のために法があると思っているのだ」
「……まあ、未散さんならそのように答えられるだろうとは薄々思っておりました」
「どういう意味だ」
またしても呆れ顔を向けられたことに納得のいかない未散ではあるが、それよりも先にあやめは口を開いていた。
「あたしはね、片古家ではずっと、囲まれる一人側でした。今まで下働きなんてしたことがなかったし、余所者だし、何より態度が悪いと言われてばかりで。あたしなりに礼儀正しく、お利口にやってきたつもりではいたのですが、敬意の有無とは伝わってしまうものですね。お嬢様以外の方を敬う気など一切ありませんでしたから、自業自得ではありますけど」
「それでも、暴力は良くない。さぞや辛い思いをしただろう」
「ああ、同情は要りません。そういうのは万由様に差し上げてください、あの方は憐れまれるのがお好きでいらっしゃいますから。──何にせよ、あたしは便利な憂さ晴らしの道具でした。今のように戦う力もほとんどありませんでしたし、何より複数人が相手では太刀打ちできるはずもありません。抵抗すればもっと面倒なことになりますから、如何程の反感を持っていても黙って耐えるのが最良だと、ずっとずっとそう思っておりました」
あやめの目線が上へと向かう。薄い唇が、ぎこちなく弧を描いた。
「でもね、昨年、目の前であたしを折檻していた方々が呆気なく斬り捨てられるのを前にしてから、我慢してばかりというのもよろしくないと考え直しましたの。己を押し殺し続けていたら、いつか心が壊れてしまう。だから、あたしはあたしの好きなようにやると決めました。あたしなぞに差図されるのはお嫌かもしれませんが……未散さん、時々ご自分の心に、馬鹿正直に従ってみてはいかがかしら。今の未散さんは、息苦しそうに見受けられます。あたしにとっては割とどうでも良いことですけれど、一応恩人でございますから。年長者の助言、という訳です」
「……私の方が年嵩かもしれないぞ?」
「まさか。顔を見ればわかります。そうですね……万由様と同じか少し上、といったところかしら。永禄三年か四年の生まれではなくて?」
む、と未散は唸る。たしかに自分は永禄三年の生まれだ。
生まれ年を当てられたと悟ったのだろう。あやめの表情が綻んだ。その表情につられて相好を崩す──ところといきたかったが、先の発言に引っかかるものを覚え、未散は一旦匙を置く。
「それにしても、貴殿はよく斬られなかったな。大事なかったのか」
「えっ? ああ、別に賊が押しかけた訳ではありませんから、何とも。先程申し上げた通り、たまたまのことでした。たまたま織田家に仕える武士の方が片古家の近くを通りかかって、その時たまたま庭先であたしが折檻を受けていたというだけで……。怒鳴り声が煩わしかったそうで、あたしは見逃していただけました。屋敷は大騒ぎでしたが、お嬢様がお喜びになられていたのであたしも嬉しかったです」
「そ……そうか……」
一気に食欲が減退したが、あやめがにこにこ嬉しそうなので余計なことは言うまいと未散は口をつぐんだ。良かったな、とは言えなかった。
どうかと思うところがない訳ではないが、やはり直刃は常識的な部類に入るようだ。気性が穏やかである程度の協調性を持つ彼が送り込まれたのは幸運であった。誰の人選だろうか。今回の人事を決めた御仁には、事件が収束し次第感謝を伝えに伺いたい。
「今日は一日お休みなのです。ゆっくり召し上がっていただいて構いませんよ。ご用命とあらば温め直しますから、遠慮なくお申し付けくださいね」
すっかり手の止まってしまった未散に、あやめは平然と言ってのける。これはもう遠慮以前の問題だろう──そんな意を込めて、せめてもの抵抗とばかりに未散は相手をゆるく睨み付けた。
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