第13話 直刃/献

 水気を含んだ髪の毛を絞り、直刃は息を吐き出す。清流から上がり、体のくぼみに沿って流れ落ちる水滴を手拭いで丁寧に拭き取っていった。

 距離を鑑みれば、直接琵琶湖に行って身を清めた方が早い。──が、この歩の直刃は時間と距離を割こうとも、より清らかな水の流れている小川の方を選んだ。

 日々の鍛練と任務によって鍛えられた体は、しなやかな筋肉によって覆われている。そのいずれにも、目立った傷痕はない──霊気の補給によって治癒できるということもあるが、そもそも残るような傷など負いはしないのだ。

 慣れた手付きで着物を身に纏い、面頬を装着して、直刃は隠れ家目指して歩き出す。その手に、白布で覆われたあるものを抱えて。

 帰路を歩みながら、直刃は夕餉の時を思い出す。日中はずっと伏せっていた未散だが、半日も経てば調子が戻ってきたようで、一同の前に顔を出した。そして、明日は事前に知らせている通り南蛮人の捜索を行うということ、そして自分の体調はもう心配ないとのことを伝えた。

 口では大丈夫と言ってはいるものの、未散の傷はまだ完治してはいないだろう。あやめの時のように霊気を注ぎ込めば一日も経たずに全快させられるが、直刃はそうしなかった。あの後気を失った未散を室内に運び込み、人がするのと同じように手当をしてやっただけだ。

 傍から見れば、効率が悪いと受け取られるかもしれない。だが、この対応には直刃なりの理由がある。


(全容は未だ窺い知れぬが、未散は術者。既に霊気を練り上げている中で上書きしようものなら、体に変調を来しかねない──)


 あやめの場合は緊急事態であったのと、体内の循環のみに留まり術に変換されたことすらない純然たる霊気の持ち主だったため、直刃は己のそれを注ぎ込むという選択ができた。しかし、まがりなりにも術者である未散に同様の処置を施せば、これまでに彼女が構築した霊気を崩壊させかねない。それで未散に弊害があろうものなら、それこそ本末転倒というものだ。

 本音を言えば、直刃はすぐにでも未散を治してやりたかった。彼女が只人であったならと思う自分がいて、意外と性急なところもあるものだと自分自身に驚く。

 もとより、未散の気性は直刃にとって好ましいものであった。真面目で実直、権謀術数とは正反対の位置にいて、冷徹を気取っていながら情深く他者に入れ込みやすい。良くも悪くもお人好しで、人の善性を体現したかの如き、未熟で甘い少女。戦では差し障りとなろうが、こういった者が世にいるというだけで心が穏やかになるような、仄明かりに似た温かさを持つ人間が、直刃は嫌いではない。

 そして何より──直刃は知ってしまった。彼女の本質を、僅かながらではあるが垣間見た。

 舐め取り、飲み干した血の味を思い出す。忘れることなどできるはずもない。喉が焼け付くような熱さと、まろやかな甘み。激情と沈着、双方が混じり合った不可思議な──しかし快い味わいであった。

 これまで、生き血を直接啜ることはなかった。自身に付着したものを霊気として吸い上げる方が手っ取り早かったからだ。興味がなかったと言えば嘘になるが、任務の最中に悠長なことは言っていられない。それに、仲間が傷付いている中で己の趣味嗜好を優先するのは、どことなく不誠実な気がしてならなかった。

 未散のことも、心強い仲間だと思っている。だが彼女に対しては、誠実であろうとする前にその美しい血が乾き、ただの汚れとして拭き取られてしまう方が耐え難かった。

 明確な理由は語れない。──が、直刃は既に理解している。自分は未散のことを、ただの仲間と見なしてはいないらしい。

 そうこうしているうちに、隠れ家へと着いた。表の玄関口ではなく、家屋の裏側へと回る。格子窓の側を軽く叩けば、そろりと覗く顔があった。未散だ。


「今開ける」


 短く告げて、彼女は窓際から離れる。再び表に戻れば、間もなくして戸が開いた。

 既にあやめと万由は眠っているらしい。僅かだが明確に空いた布団の隙間を縫うようにして進む。そのまま未散の部屋の前まで付いていくと、彼女はわかりやすく訝しげな顔をした。


「話がしたい」


 先に寝ている二人を起こさぬよう、耳元で囁く。慣れない小声に驚いたのか、未散は小さく肩を震わせた。しかし異存はないようで、こくりとうなずいてから直刃を自室へと誘う。

 未散が腰を下ろしたのを確認し、直刃は彼女の正面に座した。二人とも髪を下ろし、未散に関しては簡素な夜着であるというのに、妙な緊張感が漂った。

 思えば、二人きりで正式に顔を突きあわせるのはこれが初めてだ。初日は途中まで気を失っていたとはいえあやめがいたし、昨日に関してはばたばたして、向かい合って座ることすら叶わなかった。そう思うと、普段よりも背筋を伸ばし、居住まいを正さなければという思いに駆られるのも道理な気がしてくる。


「……それで、話とはなんだ」


 沈黙に耐えかねたのか、眉をひそめながら未散が問う。先を急いでいるというよりは、純粋に何を切り出されるのかわからないといった様子だった。

 直刃はおもむろに面頬を外す。思えば、未散の前で素顔を見せるのはこれが二度目となる。意外にまっさらな状態で向き合っていないものだと、今更ながら実感した。


「明日から調査を再開すると言ったな」


 取り外した面頬を傍らに置いてから、直刃は静かに確認する。何を今更、とでも言いたげに、未散の柳眉が跳ね上がった。


「言った。それがどうした。これ以上、人食い虫を野放しにしてはおけない。お前も異論を差し挟みはしなかっただろう」

「傷はもう良いのか」

「ああ、案ずることはない。傷自体は既に塞がっている。再び同じ箇所を負傷でもしない限り、傷口が開くことはないだろう。この通り、体の不調もない。ならば調査に戻るのが常道というものだ」


 そこまで告げてから、未散は一度間を置いた。眉間に寄っていた皺を指で揉むと、心なしか残念そうな声で続ける。


「何を期待していたという訳ではないが……お前、あやめ殿のようにはしなかったのだな。その方が回復も早まるだろうに……」

「霊気を混交させるは諸刃の剣。お前に弊害があってはならない」

「それもそうだな。だが、傷口を舐めるなどという尋常でない真似をしたものだから、てっきり何かしらの細工を施しているものかと思っていた。本当に何もしていないのか?」

「是。あれは直刃の個人的な欲だ。他意はなし」


 は、と未散が目をみはる。ぽかんと開いた口が愉快だった。

 直刃の唇が、柔らかな笑みを浮かべる。瞼の端をたわませている未散に隙を与えず、畳み掛けるように言葉を接いだ。


「未散。この直刃はお前に魅せられたらしい」

「み……って、お前、何を言って、」

「お前のことを思うといてもたってもいられない。流れる血の一滴であろうと、直刃以外の手に渡したくはない──全て直刃の糧にしたい。不誠実と誹られようとも、直刃はお前の全てをもらい受けたいと思う」


 未散の言葉を遮った上で、まっさらな布に包まれた贈り物を彼女の前に置く。既に夏と言える時分であるが故に、中身は異臭を放っている。これでも適切な措置を施したつもりだが、やはり市井であがなえる分には限界がある。


「お前にいただいてばかりなのは不平等。故にこちらも相応のものを用意……したかったが、大将首は取れなかった。代わりが務まるものではないが、これを受け取って欲しい。昨日、最後まであの場に立っていた白丁の首だ」

「いやお前、何故その……私に惹かれているという話から、いきなり首を差し出す羽目になる……? いつからここは論功行賞の場になった……?」

「交渉には誠意が大事と聞いた。且つ、直刃は武人。なれば武勲により己が器を示すべきだろう。よって敵の首級を献上したく」

「ほっ、惚れた相手に首を送る奴がいて堪るか! そういうのは上司にやれ! 友人間でもなかなかしないだろ!」

「なるほど、直刃はお前に惚れているのか。理解」

「……! …………っ…………‼」


 ちょうどこの感情に何らかの名前が欲しかったところなので、直刃としてはすっきりとした気持ち──なのだが、未散はそうもいかないらしい。顔を真っ赤にさせたかと思うと、魚のように口をぱくぱくさせている。

 はて、と直刃は首をかしげる。今、時分は何か失言をしただろうか。首を傾けたまま黙考し、彼はあることに思い至り口を開いた。


「手柄の見せ合いなら、仲の良い者とよくやるが……」

「やるか馬鹿! 良いか私はやらないから! 覚えておけ!」

「……? 承知」


 何故怒られたのだろう。やはり足らないところがあったかと、内心で直刃は反省する。

 夜間ということもあってか、未散も徒に怒りを長引かせることはなかった。自らを戒めるように長く息を吐き出して、ひとつ小さな咳払いをした。


「……まあ、そうだな。敵が姿を現した以上、首実検は避けられまい。拝見させていただく」


 平静を装っているようだが、未散の顔は強張っている。布を丁寧に剥いでいく手が震えているのを、直刃は目に焼き付けた。

 首級など、日頃から目にしてはいないのだろう。それ以前に、未散は人の死を忌避している。たった数日の付き合いでもそうとわかってしまう程、あからさまに。

 本人は隠したいのだろうが、直刃はその事実を知ったところで未散を責める気にはなれなかった。むしろ笑みさえこぼれてしまう。荒事が苦手なのに、任務だからと無理をしている人の子。微笑ましくて堪らない。

 白布の下から出てきたのは、青黒く変色した男の首だ。一応清めたので、顔の造形はわかるだろう。まだ年若い、所々ににきびの痕がある男だった。二十歳にも満たないかもしれない。

 首を前にした未散は、ひゅっと息を飲んだ。やはり恐ろしいかと思ったが、直刃の予想は外れていたらしい。恐怖を滲ませながらも、未散は首に顔を近付けたのだ。


「お前、まさか……久米郎くめろうか……? 比夜叉池の近くに住んでいた……」


 直刃は目を瞬かせる。知人なのか、と視線のみで問いかけた。未散は声を震わせながら、首を凝視する。


「ああ……お前、どうして……。長浜で働くのだと、そう言っていたのに……。何故、何故あの術者などに」

「……斬り捨てた者のほとんどは、口から人食い虫を吐き出して死んだ。この者も、意思に関係なく寄生されていたのやもしれぬ」


 今にも嗚咽しそうな未散を見ていられず、思わず直刃は口を挟む。触れてやりたかったが、どのように接したら良いのかわからず、一度出した手はすぐに引っ込められた。

 未散の目尻から涙がこぼれることはない。彼女はぎり、と歯を食い縛り、皮膚の表面が白く変色する程の力を込めて拳を握り締める。


「いちとい……人食い虫を流布させるばかりか、近江の民を傀儡に仕立て上げるか。許してはおけない……あの外道は、私が必ず始末する……。それまでは、死んでなるものか……」


 ゆらり。未散の姿が、陽炎の如くぶれる。どこからともなく漂った熱気が、直刃の頬を掠めていった。

 僅かではあるが、肉の焦げるにおいがする。嫌な予感がして、直刃は衝動的に身を乗り出した。肩を怒らせ、荒い呼吸を繰り返す未散の体を抱きすくめる──熱病かと思わせる程に、熱い。

 未散の術を思い起こす。彼女は、炎を扱う術に長けているようだった。ならば、今燃えているのは。


「未散。燃やすならば己ではなく、この直刃にしろ」


 抱き締める腕に力を込めながら、直刃は囁く。ふうふうと何かを我慢するように呼吸する未散は、嫌々と言わんばかりに首を横に振った。


「直刃は武器の如きもの。鋼は炎よりいずる──お前の身が焼けるよりは、ずっと良い」


 未散は是非を答えない。直刃の胸に縋り付き、激しく肩を上下させる。

 しばらく彼女は直刃の腕の中に収まっていたが、やがて全身から力を抜いて大きく深呼吸した。今のところ、直刃の体にこれといった影響はない──鼻をつく焦げ臭さは、あくまでも未散が受けたもののようだった。


「……もう大丈夫だ。手間をかけさせた」


 とん、と軽く胸元を押し、未散の体が離れる。燃えるような熱を持っていた体に対して、彼女の顔は色を失い、青ざめていた。


「こういったことはよくあるのか」

「……いや……頻繁にはない。時々霊気の調節が難しくなるだけだ。他者に被害を及ぼさないよう十分に注意してはいるから……今のは見なかったことにしてくれ。調査を滞らせたくはない……」


 だから気にしないでくれ、と未散は懇願したが、直刃としてはそう容易く流せる話ではない。いくら周囲への影響を押し止めるとはいえ、それで未散が自傷するようでは意味がない。

 正直なことを言えば、未散の言葉に納得などできなかったが、直刃は異論を唱えなかった。離れようとする未散を引き留めることなく、自らの腕の中から彼女を解放する。己の拙い言葉の羅列で未散の意思を変えられるなど、思い上がりも甚だしい。

 今後も未散の霊気の暴走には留意しておくべきだろう。できることなら彼女が自らの身を削る様は見たくない。


「と……とにかく、明日からは気を引き締めて任務に臨む所存だ。お前も余計なことを考えていないで、人食い虫を根絶することに専念すると良い」


 未散はこれ以上の対話を望んでいないようだ。直刃の存在そのものを拒絶するように、ふいと背中を向けてしまう。


「……直刃。お前の感情は一時的なものだろう。私のような女は多いとは言えない……共に任務にあたる機会も少なかったのではないか? それ故に、気分が舞い上がっているだけだ。もっと良い相手など、世にごまんといる。軽率な行動は慎め」


 背を向けたまま、諭すように未散が語りかける。先の発言は撤回しろと言外に滲んでいる。

 直刃はゆっくりと瞬きした。小さく、頑是ない未散の背中を、穴が開きそうな程に凝視する。

 結論から言えば、先の発言を取り下げるつもりはない。むしろ、より未散から目を離せなくなった──当然のように自らを傷付ける自己犠牲と、平静を取り繕った裏に秘めた憤怒を知ってしまったからには、もう後戻りなどできない。

 敢えて返答は寄越さず、無言のまま直刃は首と広げられた白布を掴んで退室する。後ろ手に襖を閉め、誰にでもなくぽつりとこぼす。


「お前の如き女が二人といて堪るものかよ」


 いずれ再戦の機会は訪れよう。その時は決して逃がす隙など与えない。

 心中で決意し、直刃は顔を上げる。もとの凪いだ無表情のまま、彼は再び首を包んだ。

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