第16話 未散/㷀
女物の着物を着たことがない訳ではない。名代としての務めを担うまでは、そちらの方が慣れていた。
しかし久しぶりに身に纏う小袖には違和感があり、未散は言い様もない居心地の悪さを感じずにはいられない。もぞもぞ体を動かしていると、横を歩く祐成がにこりと微笑みかけてきた。敵意は感じられないが、やはりどことなく不気味な笑みである。
「よくお似合いですよ。もっと胸を張って歩けばよろしいのに」
「いや……貴殿の手を煩わせた以上、そのようなことは」
「何をおっしゃいますか。これは俺のわがまま。良いですか、血で汚れたとはいえ、すぐに諦めるのはよろしくない。冷水で直ちに洗えば、意外と汚れは落ちるものなのです。貧乏人故、着物を汚して駄目にするのはどうしても抵抗があって……むしろ、俺のしたいようにやらせてくれたあなたに感謝致します」
こうも清々しい顔をされては、反論する気も削がれるというもの。未散は曖昧な相槌を打ち、口をつぐんだ。
ものを大切にしようという心意気は立派だと思う。しかし多かれ少なかれ手負いの人間を走らせた挙げ句、立ち止まったと思ったら開口一番に脱げと命じられたこちらの心情も多少は慮って欲しい。祐成は手近な呉服屋に未散を押し込んだので、白昼堂々醜態を晒す羽目に陥らなかったことを考えれば不幸中の幸いだろうか。
こうした事情により、未散は藤紫の小袖を身に付け、汚れた着物は祐成に洗ってもらった上で風呂敷に包んでまとめている。突然武器を持った武士が井戸端にやって来た時の民の気持ちを思うと、申し訳なくなってくる。何事もなく終わっていることを祈るばかりだ。
「ところで、小比木殿。感謝しているのは事実なのだが……何故私にここまでしてくださるんだ? 貴殿とは初対面のはずだが」
ばたばたしていて聞きそびれていたので、未散は歩きながら問いかけることにする。軽やかに歩みを進める祐成に流されるだけでは、すぐにあわい屋へ到着してしまいそうだ。
未散の問いを受けて、祐成の顔がぐるんとこちらを向く。こうも勢いが良いと、さすがの未散もたじろぐ。
「そうですね、我々は初対面です。ですが俺はあなたのことを存じ上げています。波分家の未散殿でしょう? この度、上様の命により人食い虫の調査と撲滅を担っていらっしゃるとか──誤りがあったら申し訳ない」
「おっしゃる通りだ。名まで知られているとは思いもしなかったが」
「うちの者がお世話になっているのに、そういう訳には参りません。どうですか、使者の役目はちゃんと果たしていますか?」
なるほど勤務態度を確認する目的もあったのかと、憶測した上で未散は納得する。今のところ直刃に問題はない──とは言い切れないが、概ね調査に協力的で、未散の助けにもなっている。独断での行動もたまに見受けられるが、任務に支障を来すことはない。
──が、昨日の告白は未散にとっても看過できるものではなく、気付けば悶々と頭を悩ませている。あの時は毅然と断ったつもりだが、果たしてあれで良かったのだろうか。いや──そもそも、どういった結果に落ち着けば良いと言えるのだろう。
生まれてこの方、異性から好意を伝えられたことなど皆無に等しい。真木から懐かれることはあったものの、直刃のそれとは系統が異なることくらいわかりきっている。同列に並べてはいけない。
そもそも──直刃の抱く気持ちは、本当にただの好意なのだろうか。血を舐めた彼の顔つきは、もっと獰猛で、単なる慕情とは言い難い熱を孕んではいなかったか。
「もしかして……やらかしてます?」
沈黙する未散から嫌な想像をしたのだろう、祐成が立ち止まり、静かに問う。じっとこちらを見下ろしてくる顔は相変わらず笑っているが、真っ黒な目には一切の光が入らない。
斬られるかもしれない。未散の背中を冷たいものが流れていく。下手したら先程相対した青年よりも恐ろしい。未散は慌てて首を横に振った。
「いや、直刃──使者殿はよくやってくれている。これまでの調査を振り返っていただけだ。むしろ何度も助けられている。このような優秀な者を送ってくださった内相国殿には、感謝してもしきれない」
「もう、不安にさせないでください。直刃が何か仕出かしたのなら、責任を持って斬らなければなりません。上手くやれているようで安心しました。あなたの手腕が優れているのですね」
「ご冗談を……。それよりも小比木殿、貴殿はもしや使者殿の目付なのか? そうでもなければ、あれが何かやらかしたとして、貴殿が重責を負う必要はないと思うが……」
「あはは、目付などという仰々しいものではありませんよ。ただ、彼を拾ったのは俺ですから──何かと気になってしまって。年齢の近い弟のようなものです」
拾った、と未散は小声で反芻する。どうやら直刃は本当に野良の式神で、織田家に術者はいないらしい。何故ああも健やかに存在を確立できているのか、甚だ疑問である。
「直刃はね、五年程前に、美濃の山中で倒れていたんです。俺の趣味が遠乗りでなければ、また違う方に拾われていたか、あるいは野垂れ死んでいたか……こうして考えると、偶然とは不思議なものですね。直刃がいなければ、いえ、俺が彼を仕官させていなければ、あなたとこのように出会うこともなかったでしょう」
しみじみと祐成は語る。その横顔を眺めながら、未散は疑問を覚えずにはいられない。
「私には、波分家の名代という肩書きがあったが……当時の直刃には、肩書きも何もなかったはずだ。何故、貴殿は彼を助けた? 単なる善心だけで動くには、窮屈な身の上だろう」
術者に使役されているでもなく、流れ着いた先が織田家だったという理由で身を置いている直刃。その在り方も不思議ではあるが、拾い上げたところで利などない者を救い、わざわざ仕官の手続きまでしてやる祐成もまた不可解であった。彼がとんでもないお人好しだったとしても、そこまでのわがままを通すには途方もない苦労と現状を失うかもしれない危うさがついて回ることだろう。
祐成はぱちぱちと何度か瞬きし、うーん、と首をかしげた。どことなくあどけない仕草だった。
「何故、と問われましても、救いたいので救っただけです。その時の俺は、言い様もない寂しさを覚えていたものですから。同輩を手に入れることができれば、少しは心が満たされるかと思いました。そこにちょうど良く倒れていたのが直刃というだけです。小難しい理由はありません」
「さ、寂しかったからって……。だとしても、素性のわからぬ者を連れ込んで介抱するどころか、仕官させるとなれば手間もかかろう。いくら優秀だとて、余所者をほいほいと懐に入れる程、織田の家中も無用心ではあるまい」
「そこはほら、俺が責任を負うと決めましたから。もしも直刃が怪しげな動きをすれば、彼は俺が斬る。そして俺も腹を切る。これで万事解決です。何より、直刃はよく働いてくれている。上様への忠義を翻すこともなかった。それで十分では?」
「…………」
開いた口が塞がらないとは、こういう状況のことを表すのだろう。
何となく直刃の背景が気になって聞いてみたは良いものの、自分には到底理解し得ない思考回路で迎え撃たれてはどうしようもない。武士の考えることはよくわからないと思ってきたが、こればかりは武士全般がどうこうではなく祐成が不可解なだけだ。彼を解するくらいなら直刃の方が余程易しい。
何はともあれ、これも縁というものだろう。無理矢理前向きな方向にでも持っていかねばやっていられない。未散は一度深呼吸をしてから、動揺を表に出さぬよう心がけつつ口を開く。
「……詳しく教えていただき、感謝する。使者殿が真っ当に働いてくれるのにも合点がいった。貴殿のように責任感の強い御仁が指導してくださっているのなら、私としても心強い限りだ」
「そのようにおっしゃっていただけるとは、恐悦至極に存じます。……が、あなたを一人きりにさせたことに関しては、もの申さねばなりませんね。せっかく二人で任務にあたるのですから、その責務を疎かにしてはいけない」
「いや、私が別行動を提案したのだ。個人的にやることがあったし、使者殿には情報を集めていただきたかったから……。だから使者殿を責めないでやってくれ。私が危機に陥ったのは、私自身の責任だ」
「思ったのですが、あなたは直刃に優しいですね。甘い、とまではいきませんが、彼を気に掛けておられるとわかる。気に入りましたか?」
唐突な質問に、は、と未散の口から変な音が漏れた。ぶわっと、顔が熱くなるのを感じる。
気に入りましたか。短い言葉ながら、未散は余計な想像を繰り広げてしまう。
たしかに、直刃の存在はありがたいと思っている。多少血なまぐさいところもあるが、穏やかで話が通じ、協調性のある直刃。無表情ではあるが未散に対して無関心ではなく、幾度となくこんな自分を助けてくれた。行動の端々から、こちらへの配慮を感じているのもまた事実。それが嬉しくないと言えば嘘になるし、本人の前で伝えるつもりは絶対にないが、満更でもないというのが本音だ。
自分に惹かれていると言われた時も、驚きはしたが嫌悪感は覚えなかった。任務の支障になるから、一時の気の迷いだと諭しはしたが──あれから、妙に心乱されている気がする。
直刃の顔を見るのに抵抗感ができ、言葉を交わすにも今まで以上に気を遣わねばという気持ちが先行して、ぶっきらぼうになってしまう。そのことに何故だか罪悪感を覚えてしまって、もっと上手い言い方ができなかったものかと、直刃の少しの悲しみと気遣わしげな色を浮かべた眼差しを思い出さずにはいられない。
直刃のことを知りたい。何も成せず、空回りしてばかりの自分を気にかけ、魅せられたと宣う酔狂な式神を、全てとは言わずとも解したい。
何よりも優先すべきは任務とわかっているのに、そう思ってしまう己がいる。その事実を真っ向から突き付けられた気がして、未散の目はぐるぐると回った。体調不良がぶり返してきたかもしれない。
「わ、わっ、私は……! そんな、任務よりも、個人の意思を優先させるようなことは、決して……!」
「おっ、あの茶屋ではありませんか? あわい屋……と」
必死になって弁解しようとしたのも束の間、祐成は端から未散の葛藤と煩悶を意に介してはいなかった。呑気に指を差す彼を前にして、未散はその場に崩れ落ちそうになる。
「大丈夫ですか? もしかして、ご気分が優れない?」
「いや…………大事ない。まあその、疲労が一気に舞い戻ってきただけだ……」
「おや、過労ですか? そういえば、先程も鼻血を流されておいででしたね。乱暴されたこともあるのでしょうが、それ以外の可能性もあり得ます。あまり根を詰めすぎてはいけませんよ。突然前触れもなく倒れるとか、奇声を上げながら暴れ出すことも吝かではありませんから。多忙でも休息は大事です」
「過労で発狂するくらい酷使されている者がいるのか……?」
けろっとした顔で言ってのける祐成を見ると、己の心の乱れよりも織田家の内部事情への恐怖が勝る。実力主義というのも難儀なものだ。
とにもかくにも、目的地はすぐそこだ。道中何事もなくたどり着けたのは、祐成のおかげでもある。改めて感謝を伝えなければ──と口を開きかけた矢先、彼は既に駆け出している。
「おーい、直刃ー! 俺です、祐成ですよー! まったく、そんなところで何やってるんですか!」
祐成の口振りからして、直刃たちは先に待ち合わせ場所に到着しているのだろう。犬の知り合いもまた犬か、と苦笑し、未散は茶屋の店先を注視する。
祐成が駆け寄る先には、縁台に座す直刃の姿がある。その傍らには相変わらず食い意地全開で餅を頬張っているあやめと困惑した顔つきの万由、そして伴天連の如き出で立ちの青年。
「……は?」
未散は思わず風呂敷を落とす。直刃が不意にこちらを向き、未散、と立ち上がるのが見えた。
たしかに南蛮人の情報を集めろとは言った。だがまさかその張本人らしき人物を同伴させているとは想像もできず、未散は鈍い頭痛の中で瞑目しながら眉間を揉んだ。
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