真火の言挙げ

硯哀爾

第1話 直刃/邂

 ──天正五年、所は近江国。


 長浜──と呼ばれるようになったのはここ数年のことで、旧称である今浜と呼ぶ者も少なくはない──にて、直刃すぐははすうと息を吸い込んだ。

 眼前に広がるは大海とも見紛う鳰の海。しかし鼻を通り抜ける空気に潮の香りはない。淡き水の海とは、まさに的確な名称だ。任務による移動以外では特に関わりのない近江に対して郷愁じみた感慨を抱くのは、果たして気のせいであろうか。

 直刃は織田家に仕える武人である。とはいえ、数代に渡って仕え続けてきた訳ではない。訳あって行き倒れかけていたところを偶然認められ、気が付いたら見知らぬ天井があり──そして一般的には恩人と呼ぶに相応しい、死にかけの直刃を拾った人物の屋敷と発覚したのだった。行き場などほぼないに等しかった直刃が半ば成り行きで織田家の麾下に入ったのは当然の流れと言って良いだろう。

 素性の知れない──というか語るべき素性がないようなものだ──直刃が一戦力として加えられたのは、実力主義なきらいの強い織田家の気風あってのこと。さすがに軍勢を任せられることはなかったが、その代わりに遊撃や諜報を担うこととなった。基本的に単独行動を前提とした任ばかり与えられたが、野放しにされているのではなく、いつ切り捨てても良い──部位にすれば尾にあたる立ち位置ということは直刃自身が最も理解していた。

 故に、此度の任は直刃にとって特別なものに他ならない。何しろ、長浜にて協力者と落ち合ってから任にあたれというのだから。


「良いですか直刃、決して独りよがりな振る舞いをしてはなりませんよ。仲間と手を携えて任を果たすのです、ご迷惑をおかけしないよう努めなさい。お前ならそんなことはないと思いますが、気分を害したからといってお仲間に斬りかかるような真似だけはいけませんよ。殿の沽券にも関わりますからね」


 恩人こと馬廻うままわり小比木おこのぎ祐成すけなりは、出立前に百遍はゆうに越すのではないかと推測させる程度には口酸っぱく忠告してきた。しつこい小言は直刃の記憶にも新しい。

 顔立ちだけなら寵愛をほしいままにする小姓と間違えてもおかしくはない彼だが、可愛がられるどころかうんざりされそうな程に世話焼きで口うるさい。何かと他人を放っておけない性分なのだろう。行きずりの直刃を拾って仕官の手続きを勝手に済ませ、以後も面倒を見るのは勿論、直刃のみならず気が付いたら大抵誰かに世話を焼いている。経緯こそ不明だが、誰に命じられている訳でもないのに汚れた着物を集めてせっせと洗う姿は日常茶飯事だ。その癖弓馬の腕も立つのだからよくわからない。

 閑話休題。とにかく直刃は問題を起こさないようにと散々言い含められた。軍令違反は今のところ一度として犯していないが、今までと勝手の違う任務であるからには、油断は禁物だ。直刃としても、せっかく与えられた任務なのだから何事もなく終わらせたいところだった。

 此度、共に任務にあたる相手は如何様なる人物だろうか。伝え聞いたところによれば、かの人物は伊吹山に居を構えているという。今しがた日が昇ったところなので、今から上がるとすればちょうど良い頃合いになるだろう──そう推測し、直刃はくるりと身を翻す。

 そして、息を飲んだ。


 ──人がいる。


 ただの人ごときでは、直刃も驚きはしない。だが湖畔を歩いているのは尋常でない量の──少なくとも戦帰りでもなければ見かけない程──血にまみれた人物であり、武働きとは無縁に見える若い女性であった。

 彼女もまた、直刃の存在を認めたのだろう。のろのろと顔を上げて、そしてにいと微笑んだ。瞳孔が開いていることもあって、威嚇のような笑みだった。


「……もし、そこのお方」


 息も絶え絶えに、女性が口を開く。ここには自分と彼女しかいない。直刃は被っている菅笠を少し上げて、女性のもとまで歩み寄る。

 見たところ、血液は女性自身のものであるようだった。顔色が悪く、足元もおぼつかない。返り血を浴びたにしてもやり過ぎである。余程の武功を立てねば、こうはならないだろう。したがって、彼女は負傷しているのだと直刃は推測した。

 せるような血のにおいが直刃の鼻先を突く。人の中にはこれを鉄臭いと言って嫌う者も少なくはないが、直刃は血が好きだ。生命を間近に感じられるようで、胸の辺りがじんわりと熱くなる。

 ふらついている女性の肩を支えれば、彼女はもたれ掛かるように体を預けた。何度か浅い呼吸を繰り返してから、彼女は直刃の顔を仰ぎ見る。ぎらぎらとした輝きに満ちた眼差しだ。


「あたしの、お仕えしていた家が、襲われて……。あなたは……お役人の方……?」

「否。直刃は役人ではない。だが役人に事の次第を伝えることはできる」

「そう……。信じていただけるか、自信がないけど……ああ、でも、このまま死んでしまうのは口惜しいから……どうか、どうかお伝えを……」


 がしりと、直刃の胸元が掴まれる。襟元が乱れたが、気にする程のものではない。


「虫が……とても大きな芋虫が、どこからか入ってきて……お屋敷の方々を、食らってしまいました。ええ、潰してもきりがない程、たくさん……。ああ、でも、あたしのところには……様子のおかしな武者らしきものが、現れて……それで、このように……」

「……虫か。たしかに出たのだな」

「そうです、虫が……。悪夢のような、お話でしょう? けれど、本当の……本当に起こったことなのです。信じられなければ、片古ひらこの……長浜の城下町から、少し離れた……大きないちいの木があるお屋敷を、訪ねてください……。中の惨状をお改めになられたら、きっとそうとわかりますから……」


 ですからどうか、と女性は懇願する。握る手に力がこもった。


「あたしを……ここで、殺してください……。頑張って、歩いたけど……どこもかしこも、痛くって……お嬢様からいただいた小袖も、こんなに汚してしまった……。もう、生きている理由がありません……仕えるべき方を失っては、意味がない……。お願い、お願いです、どうか、情けを……。価値がないとはわかっているけれど、この首は如何様に使っても構いませんから……」

「虫は殺そう。その奏者もまた、殺そう。直刃はもとより人食い虫を追って近江に来たが故」


 然れど、と直刃は逆接を繋ぐ。


「お前は生きる。生き証人になる。故に介錯はできない」

「やめて……生きていたって、何も、何もないのに……。殺して……死なせてください……。こんな状態じゃ、生き延びるなんてできない……。どうせ死ぬなら、ひと思いに」

「否。お前は必ず生き延びる」


 顔の下半分を覆っていた面頬めんぽおを外し、直刃は真上から女性を見下ろす。逆光を背負い黒く染められた顔の中で、鋼のごとき白銀のまなこだけが鋭い光をもって閃いた。


「直刃は荒ぶる鬼神──すなわち式神である。今よりその身、我が霊気によってたすけよう」


 女性の言葉を待たず、直刃はぐわりと大きく口を開いた。

 その奥に覗くは、人にしては鋭すぎる──牙と形容しても差し支えない犬歯。

 女性の目が見開かれる。それと同時に、直刃の体が彼女へと覆い被さり、二人の影はひとつとなった。

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