第26話 未散/炸
以前はあまり込み入った話ができなかったからだろう、真木は未散、そして何故か万由の三人で話したいと申し出た。細波の小言──彼の場合大言とも言うべきだ──から逃れたいという気持ちも、皆無ではなかったのだろうが。
縁側に腰掛けた真木は、にこにこしながら足をばたつかせた。夏場なのに肌を見せていないのは、その体に刻まれた火傷痕を隠すため──その事実に直面する度、未散は言い様もない罪悪感に襲われる。物心のつかぬ幼子の肌を焼いた、無力な自分が呪わしい。
「ねえ、これで話せるようになった?」
高く澄んだ真木の声が耳朶を打ち、はたと未散は顔を上げた。
真木は自分に話しかけた訳ではなさそうだ。その視線の先には、居心地悪そうに身を縮める万由の姿がある。
万由自身、真木から声をかけられるとは思っていなかったのだろう。何度か瞬きを繰り返し、震えの混じる声で問う。
「ええと……もしかして、わたしに言っているの?」
「うん。さっきまで、静かにしていたでしょう。細波……というより、男の人をこわがってるみたいだったから。これなら、お話できるかなって」
ちがう? と真木は首をかしげる。あどけないが、思慮の感じさせる仕草だった。
たしかに真木の言う通り、万由は出先だと口をつぐむことが多い。今までは切迫した状況もあったためそのせいだろうとも思っていたが──言われてみれば、元服が済んだ異性を前にすると、万由は口数が減る。ルチアーノとサルヴァトーレの前でも、積極的に会話することはなかった。
真木からの指摘は、少なくとも的外れなものではなかったのだろう。万由は僅かに目を泳がせ──うつむいたまま口を動かした。
「……そうね。殿方は恐ろしいわ。前にすると、体が竦んでしまうくらい」
「やっぱり。でも、真木とはお話できるんだね。どうして?」
「あなたは子供でしょう。わたしに暴力を振るったり、低い声で怒鳴ったりしないじゃない。だから、まだ大丈夫なの」
「ふうん。じゃあ、どうして直刃とは普通にできるの? 直刃は大人だよ」
「こら、わ……真木」
真木に悪気はないのだろう。……が、いくら何でも不躾が過ぎる。
未散に柔く腕を掴まれて、真木は納得した様子は見受けられないものの口をつぐんだ。しかし、万由を射抜く視線は変わりない。
未散は万由の背景を知らない。あやめによれば、新たに迎え入れられた片古家当主の妻で、親、下手すれば祖父といっても差し支えない程に年齢の離れた夫に宛がわれたという。所帯を持ったことのない未散には想像することしかできないが、それでも並々ならぬ苦労があったのだろう。その上で討議先があのような惨事に見舞われるとは、不憫が過ぎる。
そんな万由が直刃には心を開いていると、未散も前々から察してはいた。当初は人食い虫から助けてくれた恩義から、何かと接触を図ろうとしているものかと思ったが──それだけではないと、今ならわかる。当然、万由の感情に口出しするのは野暮だということも。
「……直刃様は、特別なの。あの方だけは、大人の殿方であっても、恐ろしいとは思わないわ。直刃様は、わたしが嫌がるようなことや、恐れることをなさらない」
黙秘を貫くこともできただろうに、万由は存外にはっきりとした声音で答えた。そして、何を思ったかまきではなく未散を見据えてくる。
「直刃様のことで、思い出したのだけれど……。わたし、人食い虫の騒動が一段落したら、直刃様のお側に身を置こうと思うんです。せっかくだから、波分様にはお伝えしておかなくてはと思って」
「直刃のところに?」
唐突な告白に、未散は目を丸くさせた。驚く姿が意外だったのか、真木が上目遣いに覗き込んでくる。
片古家が壊滅した今、万由の身柄は宙づりも同然だ。本来ならば生家に戻るのが常道だが、この様子だと戻れない、あるいは戻りたくない事情があるのだろう。それだけ万由の眼差しは真剣そのもので、決して退かぬとでも言いたげな意思の強さが表れている。
脳裏に、直刃の姿を思い浮かべる。出会ってからとんでもないことばかり仕出かしてくれる、人に似て非なるもの。彼なりに人の理に則って過ごしてはいるのだろうが、日常の中に放り込めばその異質さはすぐに浮き彫りとなるだろう。人食い虫の蔓延る異常事態──否、乱世の今であるからこそ、彼は人の世に溶け込めているのかもしれない。
やめておいた方が良い。そう諫言したい気持ちはあった。
だが、それが余計な口出しであることを未散は知っている。直刃が逸脱するのは相手が未散だからであって、他の者にもそうとは限らない。少なくとも、万由を前にした直刃は多少無口ながらも彼女を気遣い、尊重しているように見える。万由が彼を慕うのも、彼女の目に映る直刃という人物が安全で無害、友好的であるが故だろう。
「……直刃に了承は得たのか?」
湧き上がった様々な制止の言葉を飲み込み、未散は短く問いかける。万由がどのように思っていようと、まずは直刃の意思を重んじなければなるまい。
「ええ、お話は通してあります。でも、今は人食い虫の退治に専念したいとのことで、お返事はいただけませんでした。きっと、任務が終わるまでは余計なことをお考えになりたくないのでしょう。少し急ぎすぎたかとも思っています」
「そうか。では、騒動が落ち着いてから再度問われるのがよろしかろう。今の考えを大まかでも伝えられたのなら、直刃も考慮するかもしれない」
「あの……お止めにならないのですか? わたしてっきり、波分様にはやめておくよう言われるものかと考えておりました……」
改めて相手に向き直れば、万由は困ったように眉尻を下げている。未散の返す言葉が、予想だにしないものだったからか──彼女はわかりやすく戸惑っていた。
万由が自分に抱く印象とは如何程のものなのだろうか。細波と同じくらい口うるさい人間だと思われていたのなら傷付く。未散は苦笑し、止めるものか、と語調を緩めた。
「あなたがよくよく考えて導き出した答えなのだろう。ならば、部外者の私に止めることはできないよ。これはあなたと直刃の問題であって、私が介入する隙間はどこにもないんだ」
「そんな、ことは……。止める理由なら、あるはずです。わたしと同じ女の、あなたなら……わかるのではないですか?」
「そうだな、一介の、しかもいつでも替えのきく、蜥蜴の尻尾のような武人のもとに身を寄せるのは無謀かもしれない。だが、万由殿はそれも承知の上なのだろう? たとえ直刃が長い間留守にしても、己の知らぬところで野垂れ死んでいようと、直刃のもとが良いと思ったのだろう? ならば、それで十分ではないか。それとも、そんな覚悟は決まっていなかったか?」
「まさか! 直刃様のお立場は、わたしとて存じ上げています。でも、それでも……。だって、波分様。あなたは、直刃様のことをお慕いしているのではなかったのですか? 今までに、何度も、何度も……お二人で内緒話をされていたではありませんか。わたしのあずかり知らぬところで!」
万由が意識して語気を強めたのかはわからない。だが、彼女が大いに動揺していることは確かだった。
勘付かれるのも当然だ。いくら声を潜めていたとて、同じ空間で寝泊まりしていたのだから。万由の目には、直刃とのやり取りが密談のように見えていたのかもしれない。
実際、密談以上のことはした。しかし、万由が思うような感情はないと、未散は断言できる。いたずらに人を傷付けることしかできない自分が、他者を慕うなど許されるはずがない。友を作ることも、恋人を、伴侶を得ることも、この罪深き身には決してあってはならないのだ。
「あれらは、任務にあたる上で必要な対話だった。ありがたいことに、直刃も私を頼りにしてくれている。それ故に、こまめな情報共有に応じてくれたのだ」
自分とそう年齢の変わらぬ少女に、諭すような口調で告げる。理由はどうあれ、万由が傷付いた顔をしているのは見ていられなかった。
「万由殿。私は万由殿の敵ではない。あなたの居場所を奪ってしまったことは、申し訳ないと思っている。だからこそ、私は他ならぬあなた自身を尊重したい。あなたの思いを頭ごなしに否定することは決してないと、神仏に誓っても良い。あなたがそうしたいと思ったのなら、どうか望むままにして欲しい。あなたが私に遠慮することなど、何もないよ」
「……そんなことを、言われても……」
説得とは難しいものだ。どれだけ思いを込めたつもりでも、万由は困り顔のまま。彼女を余計に戸惑わせていると思うと、申し訳なさが込み上げてくる。
万由を否定したいのではない。彼女のやりたいようにやらせてやるのが一番だ。どうすれば、万事丸く収めることができるのか──。
思案の淵に立っていた最中、ぎゅっと腰に温かいものがくっついた。真木が抱き付いてきたのだ。甘えているのではないと、気配から察する──これは何かを警戒している時の仕草だ。
「──相変わらずの間抜け面だこと」
ちり、と頬を敵意が掠める。咄嗟に真木を庇い、未散は神経を尖らせた。
目線の先にあるのは、先程までなかった人影──面紗にて顔を隠した、狩衣の者。かつていちといと名乗った、人食い虫の奏者であった。
万由が顔を強張らせる。以前いちといと遭遇した折、身柄を求められたのを忘れてはいないのだろう。此度も諦めずに来たのかと、未散は目をすがめる。
「うふふふふふ……愚か、愚か。そこな娘の身柄を引き取るだけなら、あなたの前に現れる必要などございませぬ」
未散の思惑を読み取ったのか、いちといはくすくすと密やかに嗤う。面紗の向こうで、笑みを深める気配がした。
「ええ、ええ……せっかく、長浜のお城まで来られたのですもの。足りないものを、補って行かなければ。ここには掃いて捨てる程の人がいる……ならば、補給しかありますまい」
「貴様……この城の者は餌にも苗床にもしてやらぬ」
返事の代わりに、いちといはすうと片腕を持ち上げた。その動きに呼応して、大小様々な暗がりから人食い虫が姿を現す。──長浜に張った未散の結界が、無意味だとでも言うように。
咄嗟に未散は真木の手を引き、日なたへと躍り出た。これで人食い虫を完全に退けられる訳ではないが、少なくとも日陰にいるよりはましだろう。
「皆、日の当たる場所に出よ! 人食い虫が出たぞ!」
声を張り上げ、未散は丹田に力を込めた。己の内に渦巻く霊気が表出し、火矢となっていちといに向かう。人の目がないとは言い切れないが、今は人食い虫と、その奏者たるいちといを制圧するのが先決だ。騒然とする人々には視線を遣らず、ひたと敵のみを見据える。──ぐずぐずしてはいられない。
迷いなく、未散は火矢を放つ。狙いはよく定めた。追撃も怠らない。回避を許さぬつもりで攻撃した。
果たして火矢はいちといに命中した。以前の如き虚像かとも考えたが、今回はたしかに人としての気配があった──未散の予想は当たっていたようで、矢はすり抜けることなく突き刺さる。
──同時にいちといの姿はかき消え、全く異なる風貌の男が火矢を受けて斃れた。
「──え、」
自らの身を掻きむしりながら、火矢を受けた男は地面に転がる。未散の霊気によって形成された炎は城に延焼することこそないが、確実に男を火だるまと変える。
嘘だ。あんな男を射たつもりはない。誰だ。あの男は誰だ? どこから出た?
何より──いちといはどこへ行った?
「もうお忘れになられたのですか?」
耳のすぐ側で、囁きが肌を擽る。真木に覆い被さったのは、考えあってのことではない──反射的に、そうしていた。
左の二の腕、そして手首に痛みが走る。いちといの放った人食い虫が噛み付いたのだ。
「ぎいっ……!」
叫び出しそうになるのを堪え、躊躇いなく炎を形作る。肌ごと人食い虫を焼き、周囲を見渡した。
悠然と佇むいちといが見える。それも五人──先程よりも、増えている。
「わたくしは残像。実体は持ちませぬ」
「ですので、ええ、此度は
「あなたが焼き殺したのは、ただの人」
「嗚呼、近江に暮らしていた、ただの人間にございます」
音もなく歩を進めるいちといたち。そう遠くない場所で、万由が息を飲む音が聞こえた。
「あ……あの方、片古家で働いていた……」
既に黒く焦げ付いた死体の面立ちは判別できない。──が、万由のこの様子からして、片古家で虫を植え付けられた人間が駆り出されたのは明らかだった。
喉の奥が熱を持つ。火傷の疼痛を麻痺させる程の激情が、未散の奥底からどろりとあふれる。
「貴様……貴様は……虫に人を食わせるだけでは飽き足らず、人のあるべき尊厳まで踏みにじるのか……!」
「未散、だめだよ」
真木が縋り付いて止めようとするのがわかった。一歩、大きく踏み込むことで彼をかわし、未散はいちといの姿をした陽炎を睥睨する。
自分を貶められるならまだ良い。だが、いちといはあろうことか敵対関係にないはずの民の命を辱め、まるで使い捨ての消耗品のように盾とした。死に追いやったばかりか、死後の安寧まで侵したのだ。
まなうらに、人食い虫に食われて死にゆく波分家の人々が浮かび上がる。人としての死を奪われ、苦しみながら死んでいった彼ら──その無念が蘇り、未散の心を焼き尽くす。
いちといこそ、焼かなければならない。近江の民の平穏を脅かす異形──たとえこの身をくべようとも、この者だけは必ず消す。でなければ、波分家の人々に申し訳が立たない。
「どうせ救えませぬよ」
「あなたごときには」
「波分家も救えなかった分際で、近江を守ろうなどと!」
「思い上がりも甚だしいことで」
「あなたは害悪でしかないのですから」
「存在するだけで全てを燃やし尽くす」
「今更秩序ぶった顔をして、何になりましょう?」
「嗚呼、なんと哀れなこと」
「斯様な命が、わたくしを止めようだなんて」
「笑止千万でございます」
「うふ」
「うふふ」
「ふふふふふふ!」
いちといの声が反響し、ぐわんと耳鳴りがする。笑い声が、鼓膜に張り付いて離れない。
「あああああ……‼ いちといぃぃぃィィィ‼」
言い様のない不快感が押し寄せ、未散は怒りのままに吠えた。己の中の、越えてはならないと定めた枠組みが軋む。
我が身が焼けることなど、然したる問題ではなかった。体内で渦巻く霊気が、憤怒が、敵を燃やし尽くせと言っている。たとえ灰になろうとも構わぬ、と。
轟、と足下を炎が取り巻いた。最早抑えは効かず、未散の思考も灼熱の内に取り込まれている。万由は怯えて後退り、そして立ち上る炎に臆する様子を見せない真木は、未散、と声色に切々たる色を湛えながら手を伸ばした。
「──あら、少し見ない間に賑やかですこと」
万由の悲鳴よりも、真木の手が触れるよりも、未散の炎が燃え移るよりも先に。
すぱん、と中央にいたいちとい──正確にはその尸童──の首が飛んだ。既にいちといとしての姿を失った体は、声を上げることもなくどうと地面に倒れ伏す。
目を丸くする未散の目の前で、その人影は得物を一振り。刀身を濡らした血潮が跳ね、縁側に飛沫となって染み込む。
「名乗りもせずに強襲とは、なんと野蛮な……。これだから、現世の人はいけ好かない」
勢いを挫かれたいちといの群れが、忌々しげに舌打ちする。報復とばかりに人食い虫が這い出るものの、新たな
「随分と古くさい感性をお持ちのようですね。無駄話をしている間に、幾つ功を立てられるとお思い? あたし、あなたと再び相まみえたかったけれど、首から下にはご用がありませんの。あなた自身が出向いておられないのなら尚更ね。あと幾つ、あなたの影法師を討ち取ったのなら、本当のあなたにたどり着けるのかしら?」
人食い虫を踏み潰し、彼女は笑う。この場に凝る怒りも、恐れも、不安も、悪意も──あらゆる感情を、純然たる殺意をもって笑い飛ばす。
「あたしはあやめ──ただの死に花」
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