第19話 直刃/朋
久しぶり、などと宣いはしたが、岐阜を発ってから十日程しか経っていない。長期的な任務と比較すれば全く久しくはないのだが、祐成にとってはそうでもないようで、半ば強制的に彼の泊まる屋敷へと連行されてしまった。使用人たちからは怪訝な顔をされたが、日帰りなので勘弁願いたい。屋敷の所有者である筑前守の臣が勘付く前に隠れ家に帰るのが理想である。
「どうなることかと思いましたが、協力者とも上手くやれているようで安心しました。波分殿を一人にさせたのはいかがなものかと思いますが……あちらのご意向とのことなので、此度は彼女に免じるとしましょう」
若干小言が入ってはいるものの、未散から伝え聞いた話が好印象だったのか、祐成は上機嫌だった。いつでも笑っている祐成ではあるものの、笑いの中に喜怒哀楽があることを直刃は知っている。本気で怒ったところと、哀しんでいるところは見たことがないが──そのうち目にすることもあるだろう。今すぐに全てを知らなければならないということはない。
昔馴染みの前でなら、気軽に面頬を外せる。湿気を孕んだ空気に素肌を晒しながら、直刃はそうか、と相槌を打った。縁側に足を出してぶらぶらとさせる──少しは疲労を取り払っておきたい。
「直刃はお前が民を斬っていたことに驚いた。平生は軍規がどうこうと口やかましいのに」
意趣返しのつもりで切り出すと、祐成はすとんと隣に腰掛けた。槍の手入れを中断して来たらしい。
「そりゃ、軍規は守らねばならぬものですから。形式化されている規則は守ります。ですが、無礼討ちを禁ずる法はありますか? 軍や朝廷が定めてくださっているのなら従いますが、個人的な倫理観に基づいたものならその限りではありません」
「そういうものか」
「そういうものです」
なるほど、祐成とは規則で縛らなければ何を仕出かすかわからない性質であるらしい。未散辺りが耳にしたら卒倒しそうな発言だと思いつつ、直刃は肯定も否定もしない。無礼者を手討ちにしたい気持ちは大いにわかる。他人のことを言えた義理ではない。
直刃は根に持たない性分である。過ぎたことは過去の出来事として水に流し、今後の利を最優先とする。これまで、そのやり方を貫き、それが自分にとっての普通なのだと思いながら生きてきた。
しかし、未散に出会ってからはそうもいかないようだ。激情こそ収まったものの、未散がサルヴァトーレに傷付けられたという事実は消えない。未散は争いを好まないだろうから、表立っての荒事は控えておくが──機会が訪れれば、あの青年は必ず仕留める。冷えた頭でも、直刃は決心せずにはいられない。
「そうだ、直刃。お前に伝えておきたいことがあるのでした」
すっかり弛緩した空気を纏わせながら、祐成は素足を伸ばす。黒々とした髪の毛に対して、この男の肌は抜けるように白い。あらゆる道楽に理解を示さず、遠乗りばかりしているのに、こうも日に焼けないとは不思議なものだ。
「波分殿、いらっしゃるでしょう。彼女、お前のことを気に入っておられるようですよ」
「──」
ぱちくり、一度瞬きする。その様子がおかしかったのか、祐成は三日月の如く目を細めた。
「ふふ、お前のそんな顔が見られるなんて、思いもしませんでした。お前もまた、彼女のことを好ましく思っているようですね。どうです、この任が終われば妻にするというのは。そろそろ所帯を持っても良い頃でしょう」
「それはお前にも言えることだ」
「俺は良いんですよ。正直、人間にはあまり興味ありませんから。名馬と共に野を駆けることができたのなら、それだけで俺の人生は満たされます。母上は妻を娶れとしつこいですが、自由な時間を奪われるのなら家など絶えても構いません」
「お前の母御には同情する」
「あはは、直刃、随分と心が育ちましたねえ。これで口が悪くなければより良いのですが……染みついた癖とはなかなか直らないものですね。良いですか、妻を迎えるまでにはいつでも丁寧に話せるようにするのですよ。引かれてしまいますからね」
何ならお前も引かれる側だろう、と言い返したいのは山々であったが、祐成の説教は長い。下手に口答えすればその分帰りが遅くなるとわかっているので、直刃はおとなしく沈黙を選んだ。
それにしても、未散が自分を気に入っているとは。大方あわい屋へ向かう道中に言葉を交わしたのだろうが、人の心の機微に疎い祐成にそう言わしめるとは、期待しても良いのだろうか。
妻に迎える──というのは早急な気もするが、この任務が解決したとしても、未散とは良好な関係を築いていたい。じきに安土の居城もできあがるだろうし、近江へ赴く任は減らないはずだ。直刃は基本的に岐阜にいることが多いので、その道中に校倉へ立ち寄るのは難しくないだろう。そこで未散と触れ合えたら、直刃の心は満ち足りる。
「いつ死ぬるかわからぬ身だ。変わらず良好な関係を維持できるのならば、伴侶を迎えずとも直刃は構わない。お前のように、家名を背負っている訳でもなし。直刃は直刃の好きなようにやる」
体を伸ばしながら告げると、祐成はわざとらしく、おや、と意味深な笑みを浮かべる。すっと体を寄せた彼は、あらわになった直刃の頬をつついた。
「良いのですか、波分殿がどこの馬の骨とも知らない相手と番っても。お前の体面もありますから、人前では気付かないふりをしてやりましたが……さすがにあからさますぎます。お前、波分殿に執着しているでしょう。恐らく、これまで出会った者の中でも抜きん出て」
「それがどうした。直刃は、未散の意思を重んじたい。あれが心安らかに生きてゆけるなら、それ以上は望まない」
そう口にしたが、それが本心でないことを直刃は知っている。本音を言うなら、未散の全てを手に入れたい。いつだって彼女が目に入るところにいて、傷付くことがないように、この手で掬い上げてやりたい。
だが、未散がそれを望まないことなどわかりきっている。彼女は自立した人間だ。その意思を無視して縛り付けたとて、満足できるのは己だけ。未散は決して喜ばない。
荒ぶる本質は、未散を手中に収めたいと喚いている。あの小さな命を囲い込み、ありとあらゆる外敵から遮断してやりたいと。しかし直刃は我慢のできる式神だ。鬼神としての本性が人の営みを破壊してしまうと理解しているからこそ、直刃は欲を押し止める。人にはなれないけれど、人である未散が好きだから、人の真似事に徹している。
直刃の回答が面白くなかったのだろうか。祐成は盛大な溜め息を吐いて見せた。
「妙に奥ゆかしいですね、今の直刃は。なんだか気味が悪いです。我慢のしすぎは体に良くありませんよ」
「気味が悪いのはお互い様だろう。直刃の心配をするよりも、自分の身を案じたらどうだ。いつまでも馬と戯れてばかりでは、母御どころか、殿をも困らせることになる。次代を育てるのも武士に生まれたる者の役目だ」
「ううん、母上よりも口うるさいなあ。一体誰に似てしまったのでしょうか」
「鏡を見れば良い」
「あはは、減らず口ですね。まあ、元気があるのは良いことです。お前にしては口数も多いし、やはり波分殿は善き協力者のようだ」
何が面白いのか、祐成はからからと笑う。人前ではうっそりと笑うことの多い彼だが、親しい人物の前では大きな声を上げて磊落に笑う。……とはいえ、やたら口うるさい上に感情表現が少ない男なので、親しい友人はほとんどいない。よって祐成のこういった表情を拝めるのは直刃くらいのものである。
もとより長居をするつもりはなかった。面頬を装着し、直刃は腰を上げる。明日もルチアーノらと面会しなければならない──早めに隠れ家へと戻っておいた方が良いだろう。
「お前なら心配ないでしょうが、任務は必ず遂行することです。波分殿とも仲良くやるのですよ」
去り際、祐成がお節介としか言い様のない助言を投げ掛けてくる。それにひらりと片手を挙げて応じ、直刃は屋敷を後にした。
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