第18話 未散/烚

 痛みには慣れたはずだった。暴力に対するおそれも、次第に薄まってゆくものだと思っていた。

 それが思い違いだと理解したのは、たった今ではない。ずっと前から気付いていた。だから隠す術を身に付けようと努力してきた。それでも恐怖は、それに付随する震えは一向に退いてくれない。

 顔に傷を負った青年──トトーと呼ばれる彼がサルヴァトーレという洗礼名を持つと、未散は知らない──は、じろりと未散を睨め付けた。獲物に狙いを定める獣を想起させる瞳に、知らず未散の足は竦む。


「なになに、もしかして知り合い?」


 先程名乗り出た南蛮人──ルチアーノが場違いな程呑気な声色で尋ねる。どちらかと言えば長身で体格の良い彼の方が威圧感がありそうな見た目だが、先の出来事もあって未散には異人への畏怖など感じる余裕もなかった。

 サルヴァトーレは鬱陶しそうに主人を見遣る。護衛の身でありながら、どこか不遜で馴れた風のある仕草だった。


「知り合いっつーか……こいつ、お前の言ってたアレかもしれねえ。なんだっけ、ぷ……ぱ……とにかくなんちゃらって奴だよ。だから連れて帰ろうとしたが、思った以上に抵抗されてな。取り逃がしたかと思ったが、手間が省けた」

「なんちゃらって言われても……。まあでも、トトー君が見て『そう』とわかったのなら、間違いないか。んー、どうしようかな。特に少年、入れ込んでるっぽいしな~」


 ルチアーノの言い方は癪だが、直刃が殺気立っているのは確かだ。彼の全身から漂う怒気は、引き寄せられた未散の皮膚をもちりちりと焼きかねない。

 彼はサルヴァトーレが下手人だと、いち早く察知したらしい。不安げに未散が見上げた先で、瞳孔が開いている。一目でわかる──今の彼を、自分ごときでは止められない。


「あー、そちらのお嬢さん? 俺たちはある調査のためにこの辺りを散策しててね。人を食らう虫が最優先ではあるけど、見付けちゃったのなら仕方ない。お嬢さん、常ならざる力を持ってるでしょ? もし良かったら、俺たちに詳しく教えてくれないかな。俺はほら、見ての通りの紳士だから、トトー君みたいに乱暴な真似はしないよ」

「そのようなことを言われても、」

「断る」


 ルチアーノはまだ話がわかりそうだが、やはり警戒心は拭えない。もう少し様子を見よう──とする間もなく、直刃が言を遮る。彼の体が離れたかと思うと、間を置かずして鯉口を切る音が耳に入った。


「語らいには飽いた。手前てめえが下手人だろう? 未散を傷付け、無体を働いた──知らぬとは言わせない。未散からは血のにおいがした──血を吐かせたな? ならば斬るべし。無駄口は不要」

「わかってんじゃねえか。そうだ、そいつはこの長浜におかしな術を仕込んでやがった。大人しく応じてくれたなら、こっちだって穏便に済ませてたはずだが……しぶとく逃げ回るもんだから、なあ? 力ずくで仕留めるしかねえだろ。お前も武人ならわかんじゃねえか?」

「ちょっとトトー君、余計なこと言わないでよ! あのね皆、この子口は悪いけど、筋の通ったことしかしないから、」

「あー、うるせえよ似非神父。おれの擁護なんかいらねえっつの。久々に楽しめそうなんだ、邪魔すんな。お前だって、その女を調べたいだろ? 言質取ってきてやるから、お前は人払いなり何なりやってくれ。大事にしてえんなら、おれも黙っとくけどな」


 言いつつ、サルヴァトーレは抜刀する。未散の前では見せなかった二刀──本気を出すつもりだ。

 どう転ぼうと、直刃とサルヴァトーレが死合う未来は変わらないらしい。二人の殺気に気圧されている万由に仲裁を頼むのはあまりにも酷だし、止められそうなあやめと祐成は観戦の構えに入っている。ルチアーノだけが頭を抱えて苦悩しているが、サルヴァトーレの様子からして彼の手綱を握ることは不可能だろう──これは未散にも言えたことだ。

 しかし、ここで乱闘になろうものなら、無辜の民が巻き添えを食らいかねない。せめて結界だけでも張らなければと、未散はなけなしの霊気を練る。サルヴァトーレとの邂逅と先日の負傷で消耗しているが、何もしないよりはずっと良い。


「──『円に巡れ、夢想の鏡面。現の境に楔を穿ち、我が身を狭間に誘い給え』」


 瞬間、未散が霊気を置換する間もなく周囲の景色が悉く停止する。騒ぎが起こりそうな気配に物珍しげな顔をしていた民たちも、緩やかに流れる雲も、そよ風に揺れる新緑も、何もかもが切り取ったように止まる。

 何かしらの術を行使したのだと、未散は瞬時に理解する。咳き込みそうなのをどうにか堪えながら異人を顧みると、彼はいかにも疲れたといった様子で額を拭っていた。


「いい、暴れるなら俺の結界が持ってる間だけにしてよ? 今は一時的に空間を切り取って時間の流れを遅めてるけど、いつまでも効くって訳じゃないから。俺だって日本のお偉いさんに目を付けられるような真似はしたくな、」

「おう、ご苦労さん。んじゃ好きにやらせてもらうわ!」


 ルチアーノの説教を最後まで聞くことなく、サルヴァトーレは動き出した。重心を低く構えたまま、迷いのない足取りで直刃へと直進する。浮かべるのは満面の笑み──凶刃が振り下ろされると同時に、白い歯が輝いた。

 直刃も黙って立ち尽くすだけには止まらない。沸々と闘志を漲らせながら長巻を抜き去り、銀の瞳を爛と煌めかせて攻撃を受け止める。甲高い金属音が響き、未散は思わず目を瞑った。


「っはは、重いなあ、お前! こりゃなかなかの当たりくじだ!」


 恐々瞼を持ち上げた先では、直刃とサルヴァトーレが鍔迫り合いを演じている。二人の踏ん張る足は土を削り、互いに全身全霊を打ち込んで押し合っているとわかる。

 自分やルチアーノはなるべく穏便に終わらせて欲しいと思っているが、実際にぶつかっている二人はそんな生温い結果など望んではいないのだろう。初撃から、命を奪うつもりで繰り出していながら笑っているサルヴァトーレの心境など未散は一生かかっても理解できる気がしない。面頬を装着しているために口元が見えない直刃も、いつになく昂揚しているように見える。

 二刀と長巻、双方の刃が互いへと迫る。力は互角──ならばより技量に長けた方が勝利を手にするということか。


「なあお前、それって長巻だろ?」


 ぎち、と鍔が擦れる音と共に、サルヴァトーレが口を開く。唐突な、何の脈絡もない問いかけだ。

 直刃は答えない。隙ができれば即座に入り込もうとしているのだろうか、ぐっと身を倒して力を込めるのがわかった。


「どこで聞いたかは忘れちまったが、長巻ってのは、槍の下手くそな奴が使うんだってな。お前も槍術に自信ないのか?」

「アァ?」


 見え透いた挑発である。何に対しても平坦な反応しか寄越さない直刃なら相手にはしない──と思ったが、未散の予想は外れていたらしい。直刃の目元が大きく歪む。

 直刃が長巻をさらに押し込んだ。そのまま刃が到達する──と思われた頃合いを見計らって、サルヴァトーレがひょいと身を引く。重心を傾けていた直刃は、僅かではあるが体勢を崩した。

 それを見逃すサルヴァトーレではない。にい、と口角をつり上げ、直刃の首目掛けて刀を振るう。──まずい。


「直刃様!」


 万由が悲痛な声を上げる。いてもたってもいられず、未散は援護に加わろうとした──が、こちらの動きを察知していたのか、すっと長居腕が行く手を阻む。


「いけません、一騎討ちの邪魔をしては。あなたが加われば、この戦いから秩序が失われてしまう」


 相変わらずにこやかに、しかし底を感じさせない黒々とした目で祐成がやんわりと制止する。柔らかな物言いだったが、そこには有無を言わさぬ強制力があった。

 剛剣のもとに首を切り落とされるかに思えた直刃だったが、すんでのところで横に転がり、相手の攻撃を回避する。すぐさま受け身を取って立ち上がると、彼はいつになく荒々しい声色で叫んだ。


「祐成! 寄越せ!」

「はいはい、そう来ると思っていましたよ。壊れたら買い換えてくださいね!」


 短いながらも、直刃の発言の意図を祐成は直ちに噛み砕いたらしい。躊躇いなく自らが手にしていた素槍を直刃に向かって投げ渡した。うわっ、とルチアーノがわかりやすく引く。

 ぱしりと素槍を受け取った直刃は、迫るサルヴァトーレをしかと見つめた。風は遮断されているはずだが、意思を持ったように銀の髪の毛がぶわっと靡く。


「槍で突かれて死にたいか? 望み通りにしてやろう」


 今まで振るっていた長巻をいとも容易く投げ捨て、直刃は両手で槍を構えた。サルヴァトーレが間合いに入る前に、彼の足を横薙ぎに払う。

 初手で足払いが来ると予想し得なかったのだろうか、サルヴァトーレは負傷を避けるように足下を庇いながら後方に転倒した。これを好機と捉えたのか、ヒャッ、と直刃は高く声を上げる。笑い声のようにも聞こえる音だった。

 だん、と直刃の足が地面を蹴る。柄を支柱として高く飛び上がったかと思うと、空中で穂先をサルヴァトーレに定めた。上から刺突するつもりだと、落下する直刃を眺めながら未散は唾を飲む。

 受け身の後に、相手の姿がないことに気付いたのだろう。サルヴァトーレが目を見開き、初めて焦りを含んだ目で頭上を見上げた。彼の頭に影を落とすのは、まさに今刺し殺そうとする獰猛な式神。

 どずん、と重みのある音が轟く。着地した直刃の真下にサルヴァトーレの姿はない──間一髪で攻撃を回避したのだ。


「よく動く」


 呟き、直刃は柄を短く持ち替える。顔面目掛けて穂先を突き出すが、致命傷とはいかない。サルヴァトーレが顔だけを反射的に動かした──死の淵に立っているとは思えない程の冷静な判断力である。

 突き出された槍頭は相手の包帯を切り裂いた。あっと思った時にはサルヴァトーレの素顔が晒されている。万由がさっと顔を背け、事の成り行きを静観していたあやめや祐成でさえも目を丸くしている。

 顔の半分を覆う瘢痕と無数の傷──痛ましいそれが目立つのは事実だ。だが、何よりも目を引くのは、この場で初めてあらわとなった左目だ。


(なんだ、あれは……?)


 左の眼窩に嵌まっているのは、右側のそれとは全く異なる──おおよそ目にすることはない、遊色効果を思わせるとりどりの色彩。例えるなら、玉虫色。

 異様な眼球を前にしても、直刃は怯まない。変わらず顔を狙い続ける彼に、何を思ったかサルヴァトーレは破顔した。心の底から嬉しげな顔だった。


「お前、これを見てもびびらねえんだな。面白え、流石荒ぶる鬼神ってところか?」

「その言葉、手前にそのまま返してやる」

「ああそうかよ、そりゃいいな! 退屈しない闘いってのはいつだって快い!」

「然り」


 殺し合っていると言っても過言ではないのに、二人には妙な連帯感というか、絆のようなものが芽生えつつあるらしい。互いに喜色あふれる眼差しを向け合いながらも、戦闘が収束するどころか、中断する様子もない。

 目元に迫り来る槍頭を、サルヴァトーレは柄を掴むことで止めた。同時に、拘束されていない脚で直刃の腹部を蹴り上げる。


「わあ、俺への意趣返しでしょうか。八つ当たりは良くありませんよ」


 祐成が何やら野次を入れている。サルヴァトーレを撒く際に、膝蹴りを入れたことを思い出したのだろうか。どうしてそんなにも気楽な調子で観戦できるのか、未散にはさっぱりわからない。

 僅かに空いた距離を、サルヴァトーレは逃さない。勢いを殺さずに起き上がり、どういう訳か二刀の片割れを鞘に収めた。ぎらつく視線が交錯し、再び開いた間合いで二人は相手を睨めつける。

 何か合図があった訳ではない。しかし、直刃とサルヴァトーレは示し合わせたかの如く、同時に飛び出した。得物を振りかざし、相手の命を止めるために動く二人は、相対していながらも息ぴったりだ。


「──はい、おしまいエ フィニータ!」


 ──が、二人がぶつかる前に、彼らを強制的に止める者があった。

 いつの間にか、ルチアーノが間に入り、右手で直刃、左手でサルヴァトーレの手首をがっちりと掴んでいる。素人目にも手練れとわかる二人を片手で押さえ付けるとは、この異人は如何なる膂力の持ち主なのだろう。


「んだよ、邪魔すんなよ」


 あからさまに不機嫌な顔をしたサルヴァトーレが悪態をつく。直刃も言葉にはしなかったが、刺さるような殺意をルチアーノに向けていた。闘争を中断させられたことが余程気に食わないらしい。

 下手すれば今にもルチアーノに襲いかかりかねない二人だったが、二対一とはならなかった。その前にルチアーノが腕を振るい、二人同時に投げ飛ばしたのである。


「あのさ、俺言ったよね? この結界が持ってる間で終わらせろって。そろそろお開きにしてもらわないと困るんですけど?」


 地面に伸びる二人を、ルチアーノはじっとりとした目で見下ろす。直前の戦闘で消耗しているからか、はたまた投げ技が効いたのか──直刃もサルヴァトーレも憮然としてはいるが抵抗はしない。起き上がる気力もないのだろうか。

 未散を巡って繰り広げられた戦いだが、この場合はどのように落ち着かせれば良いのだろう。恐る恐るルチアーノを見遣ると、彼はやや大仰に肩を竦めて見せた。


ごめんねスクーザ、トト―君ってばこの通りの暴れん坊だからさ。君のことも、強引に連れ去ろうとしたでしょ。見たところ大きい怪我はないっぽいけど……大丈夫? 俺、女の子を痛め付けるとかできるだけしたくないんだよね。もしどこか怪我してたら言ってね、医療費はちゃんと出すから」

「いや……その必要はない。それよりも、ええと……るちあの殿」

「ルーカって呼んで。少年にもそう呼ばせてるから。そっちは未散ちゃんって呼んでもいい?」

「構わない。ではルーカ殿、貴殿は人食い虫について調べて回っているそうだな。目的を同じくする者として、是非とも一度腰を据えて話がしたい。そちらも私に用があるのだろう? 手足はくれてやれないが、可能な範囲であれば応じよう」

「話が早くて助かるよー。未散ちゃんや少年には、色々聞きたいことがあるしね。それよりもトトー君、もしかして未散ちゃんの手足切り落とそうとした? あり得ないんだけど」

「るっせえ、そんだけ抵抗されたってことだよ。責任持って世話する覚悟はできてる」

「手前ごときに未散を下げ渡せられるものか。次はないと思え」


 大の字になったまま、直刃とサルヴァトーレがお互いを小突き合っている。何だかんだ気が合うのかもしれない。


「うーん、時間的には今からでもいけそうだけど、誰かさんのせいで俺疲れちゃってるしなー。話し合いは明日にしてもいい? 今お世話になってる宿……だと手狭かな。そっちの希望があれば合わせるよ」

「それならお言葉に甘えさせてもらおう。明日、この茶屋で待ち合わせをしてから案内する。ちょうど別件の用事もあるのでな」

「スィ、りょーかい。あ、そっちのお嬢さん方もいっしょに来てもらっていいかな? 無理強いはしないけど」

「奢っていただけるのならあたしは喜んで」


 戦闘中、やけに静かだと思っていたあやめだが、食べかけの茶菓子を全て胃袋に収めていたらしい。未散は知るよしもないが、茶屋のお代は全てルチアーノ持ちである。女性相手には軽薄なルチアーノだが、これには少なからず落胆したようで、俺の餅、と顔を青くさせながら呟いた。

 気がかりなのは万由だが──一人だけ残る気はなかったのだろう。彼女はすっかり気勢を削がれた様子ながらも、こくりとうなずいて見せる。万由には気苦労ばかりかけて申し訳ない。

 何はともあれ、南蛮人の捜索という当初の目標は達成した。目下の問題は、地面に伸びたまま片手で小突き合いをしている二人である。サルヴァトーレはともかく、直刃はこちらが持ち帰らなければならない。


「もう、直刃。いつまでそうしているのですか。そろそろ起き上がらなければ」


 さすがに一人では持ち運べないのであやめ辺りの助力を願おうかと眉間を揉んでいた矢先、祐成が前に進み出て直刃を肩に担いだ。

 長身の彼、しかも肩に乗せられたらなかなかの高さだろうが、直刃に驚いた様子はなかった。よく抱えられるという話も、あながち間違っていないのかもしれない。


「久々に会ったのです、直刃を少しお借りしますね。後で返しますのでご容赦ください」

「あ、ああ、構わないが……暗くなる前には帰ってくるのだぞ」

「祐成。この約定、破るなよ」

「わかってますって。俺は軍の中じゃあ常識人なのですよ? 約定を破るような不義は致しません」


 一度常識人という言葉の意味を考え直して欲しい。にこにこと笑顔で直刃を連れ去っていく祐成を見送りながら、未散は内心でぼやく。織田軍に所属する本当の常識人の方々とは、共感できる部分が多そうだ。

 今日もどっと疲れた。あやめと万由を促し、未散も帰路につくこととする。


「おい、こっちも動けねえ。せっかく馬鹿力があるんだから宿まで運べよ」

「はあ⁉ 嫌で~す! 女の子ならともかく、野郎を運ぶ趣味はないっての!」


 背後で南蛮の主従が何やら言い合う声が聞こえたが──これ以上の面倒には関わりたくない。未散は気付かないふりをして、一度も後ろを振り返らずに帰宅したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る