第3話 直刃/歩

 何気なく歩いていたつもりだったが、爪先が小石を蹴飛ばした。あ、と思う間もなく、小石はころころ転がっていく。結構な勢いがついてしまったのか、すぐに茂みの中に突っ込んで見えなくなった。

 絞められた首が少し痒い。未だに皮膚が触れているような感じがする。窒息で死ぬことはないだろうが、後を引くのは何かと困る。来るべき戦闘に支障を来さないと良いが──出血を伴っていないなら大丈夫だろうと、直刃は己に言い聞かせる。

 首を絞められたのは、実はこれが初めてだ。斬られたり刺されたり、それから打撲は慣れたものだったが、物理的に息の根を止められかけることはこれまでなかったので、新鮮な思いである。血が好きな直刃としては、あまり好ましくないやり口だった。

 その首を絞めた張本人はというと、直刃の数歩先を歩いている。人食い虫の被害があった、片古家までの案内を務めているのだ。

 少し力を込めれば、折れてしまいそうな細腕。それでも相応の力があったのだから、人間とは不思議なものだと思う。今後の参考になれば嬉しいものだが──観察する間もなく、横を歩く協力者こと未散に横目で睨まれた。

 未散は仕事以外の争い事に楽しみを見出ださない性質たちらしい。そういうところは祐成に似ている。祐成もまた、身近なところで喧嘩が始まると仲裁に入ることが多い。世話焼きな性分とは大変なものだ。

 一度瞼を閉じ、直刃はつい先程の出来事を思い浮かべる。そう、あれは確か自分が首を絞められている時のことだ──。


「──待て、落ち着け!」


 女性に組み敷かれた直刃の助勢に入ったのは、他でもない未散だった。つんと澄ました顔はどこへやら、あたふたと慌てふためきながら女性を羽交い締めにして退かす。体勢を崩して、二人同時に床へと倒れ込んだ。

 女性が、まなじりをつり上げる。力一杯未散を突き飛ばし、どうにか立ち上がって彼女は相手を見下ろした。


「止めないで。あたしはずっと、起きた時から落ち着いてます。それとも、あなたもあの人の──いえ、式神だったかしら。まあ何でもいいんですけど、あの方の味方だとおっしゃるなら殺します」

「味方……というにはまだ関係が浅いが、我々は協力関係にある者だ。貴殿の身の上はそこの者──直刃から聞いた。一方的に連れてこられたことも知っている」

「そう。では殺すか殺されるかはっきりしてください。あたし、もう生きていられないんです。生きている意味がないんです」

「早まるな。こいつとて、何の理由もなく貴殿を生かした訳じゃない……よな? そうだろう?」

「やはり庇い立てるのですね。死んでください」

「おいやめろ! 直刃! 説明はお前がやれ! 私が代わりに死ぬなど冗談ではないぞ!」


 痛む背中を庇いながら起き上がっていると、いつの間にか未散が背後に回っていた。どうやら自分を盾にしているらしい。

 直刃、と名前で呼ばれたのが嬉しくて、知らず頬が綻びそうになる。この名前は割と気に入っているから、積極的に呼ばれたい。

 ……と、今はそれどころではないのだった。見れば全身に殺気を漲らせた女性が、大股でこちらに近付いてくる。

 彼女に霊気を注いだ以上、責任は自分が取らねばならないのだろう。直刃は納得し、目を逸らすことなく女性に向かい合う。鈍く揺らめく殺意が真正面から刺さった。


「お前の意思を無視したことはすまなかった。だが、直刃は気まぐれでお前を生かした訳ではない」

「理由など何でも構いません。申し訳ないと思っているのなら、今すぐ絶命させてください。あたしが望むのはそれだけです」

「全てし済ませたのなら、お前の望む通りにするのも吝かではない。お前の主人を殺した虫を滅ぼし尽くしたのなら、如何様にもしてやる」


 ぴたりと女性の歩みが止まる。薄暗い隈を湛えた目元が、ひくひくと痙攣した。

 直刃はこの機を見逃さない。畳み掛けるように続ける。


「我らは人食い虫を追っている。民を食らう虫を根絶させるため、ここにいる。お前を生かしたのは、人食い虫の足取りを明らかにするためだ」

「では……あたしに虫殺しをせよと?」

「何もかもを手伝えとは言わない。だが、その気があるのならば協力するのが望ましい。人食い虫に狙われた者はほとんどが死に絶えている──生き証人がいるだけで、調査は大いに進展する」


 女性が瞑目する。しかしそれも須臾のことで、次の瞬間には淀んだ目が直刃を捉えていた。


「なるほど──たしかに道理ですね。あなた方がお嬢様を殺めた訳ではない、憎むべきはあの虫ども……。わかりました、このあやめは虫を殺します。奴らの根を絶やし、お嬢様の仇を討ちましょう」

「……ありがたい。是非よろしく頼む」


 ──こうした経緯により、女性──あやめはその敵意を人食い虫へと向けた。あまりにも華麗な掌返しだった。

 未散はまだ納得がいっていないのか、事あるごとに何か言いたげな眼差しを向けてくる。意見があるなら口にすれば良いのに、と思うが、言霊を扱う者としてみだりに言葉を連ねるべきではないということだろうか。無言の訴えだけが頬に刺さる。

 本来ならば、直刃としても一般人の同行はあまり推奨しないが──あやめに関しては一概にはね除けられない。自分がこうしたという責任もあるし、彼女には式神の霊気を注いでいる。余程の相手と戦わせるのはご法度だろうが、先程の動きを見る限り多少の荒事は任せても問題ないだろう。直刃の霊気は、多かれ少なかれあやめの身体能力を強化している。


「お前が理解のある女性で助かった」


 とりあえず、今は未散の白眼視を逃れるのが最優先事項だ。面倒事に巻き込んでしまった詫びと場を取りなしてくれたことへの感謝を込めてそう告げれば、未散の眉間の皺はますます深まった。


「私の性別は関係ないだろう。思想に男も女もない」

「すまない、不快にさせたのなら謝罪しよう。武家の娘でもないのに手際よく介抱していたのが意外だった」

「これでも、古代より近江に身を置く術者に連なっているのだ。民の救護も役目のひとつ……今更驚くことでもない。見くびらないで欲しいものだ」


 見くびってはいないが、未散を刺激して協力関係を瓦解させるのも厄介だ。左様か、とだけ返し、直刃は視線を前へ戻す。未散も睨むのはやめたようなので、まずは一件落着といったところか。

 直刃には未散を侮る気などない。女だからと差別化するつもりも、一切ない。式神である直刃にとって、性差とは些末なもの。体のつくりがほんの少し異なるだけに過ぎない。

 未散の言う通り、波分家は古代より近江にある術者のうからだ。民に寄り添い生きてきたというのも、間違いではないのかもしれない。

 彼らは争いを好まない性質であるらしい。織田家が近江に勢力を伸ばしてから、ずっと恭順の姿勢を見せているという。伊吹山に菜園を設える折、波分家の者も案内に従事したそうだ。とはいえこれは直刃が織田の傘下に入る前の出来事なので、祐成からの伝聞に過ぎないが──何にせよ、波分は貴重な協力者。些細なことで仲違いしては、主家の面子に泥を塗ってしまう。

 校倉にいたのは未散だけだったが、他の血族はどうしているのだろうか。他にも拠点があるのか、未散一人で何もかも切り盛りしているのか──後で時間があれば聞いてみよう。可能であれば、他の血族にも挨拶をしておきたい。


「──ところで」


 それらしい文言を考えていると、未散が口を開いた。直刃ではなく、前を行くあやめに話しかけたらしい。


「貴殿は片古家なるところに仕えているそうだな。恥ずかしながら、初めて聞くかばねだ。良ければわかっていることを教えてはくれないか」


 先程殺されかけたためか、未散の声は硬い。意識して纏わせている険しさとはまた別の色だと、直刃にもわかる。

 命のやり取りに近しい直刃としては、一度殺意を向けられたくらいで態度を変える気にはならないが──未散にとっては、十分警戒するに値するらしい。良し悪しがあるとは思わないが、苦労しそうだと思う。何度か酒の席で勢い余って斬られ刺されたことがあるという話だけはしないでおこう。祐成にしたら目の前で吐かれた。

 対するあやめはというと、先刻の殺意など微塵もなく、はあ、と気の抜けた相槌で応じた。


「ただの土豪と聞いています。何かに特別秀でているという話はなく、代々近江に根を下ろしているのだとか……。あたしは近江の出ではありませんから、詳しいことはわかりません。教えていただくことも、ありませんでしたし」

「そうか。しかし妙だな……古くから近江に居ついているなら、姓くらい耳にしたことがあってもおかしくはなさそうだが……」

「単に機会がなかっただけでは? 最近は何かと騒がしかったでしょう」

「それはそうだが……波分家は、近江の民との交わりがあってこそ存在し得る家だ。これまでも、我々は民、そして領主との相互援助によって家を繋いできた……新参者ならともかく、数代に渡る土豪と顔を合わせないばかりか、過去の台帳にも記載がなく、姓すら聞いたことがないとはあり得ない……」


 余程納得がいかないのか、未散はぶつぶつと独り言を垂れ流している。最早会話の域は越えたとばかりに、あやめは前を向いてしまう。

 伝聞による情報ではあるものの、波分家が近江の民との交流を盛んに行っていることは直刃も聞き及んでいる。飢饉や疫病、戦による荒廃があれば援助を惜しまず、また民たちも平時は彼らの働きに対価を払う。民草との関係は極めて良好であるから、波分家の者はぞんざいに扱わぬようにと直刃は言い含められていた。

 そんな波分家ですら知り得ないという、あやめの主家。確実なことは言えないが、直刃もまた、その存在に違和感を覚えた。


「……あちらです。あれが、片古のお屋敷です」


 つい、とあやめが指を差す。その先には、たしかに大きな櫟の木を有する屋敷があった。

 入母屋の、一見すれば寺院めいた建物だ。民間にここまでの規模を持つ屋敷があるとは、知らぬ者のいる方が不思議ですらある。

 屋敷の前には数人が集まり、困惑した様子で立ちすくんでいた。見た限り、野次馬ではなくこの家で生活していた者たちのようだ。


「──失礼する。片古家の方々で間違いないな?」


 彼らにまず突っ込んでいったのは未散だった。毅然とした面持ちと声色で、人々の前に立つ。

 真っ先に顔を上げたのは、中心にいる少女だった。周りを取り囲んでいる者と比べて、上等な着物を身に付けている。恐らく土豪の近親者だろうと直刃は推測した。

 彼女は不安げに視線をさ迷わせ、未散に向き合った。真っ直ぐ伸ばされた黒髪がさらりと揺れる。


「あの……どちら様ですか? たしかにうちは片古家ですが、今は取り込んでいて……」

「存じ上げている。人食い虫が出たのだろう? 私は伊吹山の波分家よりきたる名代だ。こちらの使用人から事の次第を伝え聞き、状況把握のため馳せ参じた──信用できぬと仰せなら、この者に尋ねよ。内相国からの許しも下りている」


 未散から目配せされると同時に、まあ、と娘が目を見開く。彼女を囲んでいる使用人と思わしき人々も、俄にざわめいた。

 はったりで口にしたのかもしれないが、実際に直刃は信長の花押を記した書状を有している。どれだけ疑われていようと、これがあれば大抵の状況を打破できる──とまではいかないが、信用は得られるだろう。懐から書状を取り出し、直刃は一同の前で広げて見せた。ざわめきが大きくなる。

 彼らの反応はそれぞれ異なったが、その中に共通するものがあるとすれば、それは敵意に他ならなかった。中心の娘を除いた人々は、皆目を三角にしてこちらを睨み付けている。


「あやめめ……余計なことを」


 髪の毛に白いものが混じる女が、憎々しげに呟く。あやめは黙ってうつむき、反応を寄越そうとしない。

 平生より鈍感と言われることの多い直刃にもわかる──自分たちは、歓迎されていない。


「……申し訳ありません。波分様に非があるという訳ではないのですが……その、少し込み入った事情がありますもので……」


 娘が気まずそうに謝罪する。彼女だけは、直刃の提示した書状を見ても態度を変えなかった。

 大方、織田家との間で何か揉め事があったのだろう。滅んでからしばらく経つとはいえ、もともとこの地は浅井家によって治められていた。旧主に対する慕情が、未だ消えていないとでもいうのか。

 未散は溜め息を吐き、娘に向き直った。厳しい視線が彼女にも突き刺さる──中には、未散を見てひそひそと小声で会話を交わす者もあった。悪意に満ちた視線は、直刃の心をざわめかせる。単純に不快だった。


「……事情はどうあれ、人死にが出たことに変わりはない。すまないが立ち入らせてもらうぞ」

「えっ、ちょっと!」


 片古の使用人たちが立ちふさがる前に、未散は動いている。すたすたと淀みない足取りで進むと、遠慮なく屋敷の敷居を潜った。

 呆気にとられ、あるいは追いかけようとする使用人たちだったが、娘に制されて動きを止める。出遅れた直刃とあやめの方を向き、彼女は困ったように眉尻を下げた。


「使用人たちには、わたしから言い含めておきます。問題を解決したいのは、わたしも同じですから」

「では、立ち入りを許されると?」

「はい。わたしは万由まゆと申します。当主に代わり、皆様に協力を仰ぎたく思います──どうか、わたしをお助けくださいませ」


 緊張からか、強張った仕草で娘──万由は一礼する。直刃とあやめは一度顔を見合わせ、揃ってうなずくことで首肯を示した。

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