第16話

 僕は舞城さんについて考える必要があった。それからシマウマのことも。


 葉蔵さんならヒントをくれるだろうか。この不可解な命題について。


 


 いや、葉蔵さんの言葉も、舞城さんの言葉も謎めいている。誰も僕に

 答えを教えてくれるわけではないようだった。


 僕は混乱していた。わけがわからない。何もかもが。


 僕の周りを取り巻く全ての物事が不定形でつかみどころのなく、それでいて僕をからかっているようだった。そして僕はそのことに対して苛立っていた。


 家に着いて玄関の扉を開けると、暴力的な残り香を感じた。家の至る所が乱暴に荒らされていた。それは強盗や空き巣というよりは純粋な感情の爆発の結果として。


 リビングのソファの上で母親が蹲っていた。


「ただいま」


 母は答えない。


 僕は床に散らばった雑誌やペットボトル、テレビのリモコンを拾い上げる。


 母の姿を横目で慎重に観察した後で、「別れたの?」とできるだけ部屋の荒れようや母の状態について何とも思ってない風に装って訊いた。その一言を訊くだけでいつも嫌な緊張が全身を支配した。


「あのクソ男」


 絞り出すように母は言う。テーブルの上には酒の空き缶が並んでいる。


「夕飯作るよ。何がいい?」


「……オムライス」


 僕は頷いて冷蔵庫を開ける。卵やケチャップがあることを確認してから、手前に置かれていた酒を取り出すとシンクの下の棚に隠した。冷凍してあったご飯を電子レンジで温める。


 重苦しい空気が部屋にこもっていて、息が詰まりそうだった。


 月の満ち欠けのように定期的に訪れるその破局は大抵、我が家を致命的に破壊していく。最初の頃は母を振った顔も名前も知らない男のことを恨んだが、今では母の元彼についてどのような感情も抱かなくなった。それは恋愛というものは大抵、お互いの欠点を許容し合うものであって、破局というものはいずれも互いに互いの欠点を認められなくなったからこそ起こり得るものだと理解したからかもしれないし、あるいは一種の諦めの結果なのかもしれない。


 オムライスが完成し、食卓に並べると母はのそのそと起き出して座る。


 髪はぼさぼさで化粧は崩れていた。白いシャツの肩に乾いた血が付着している。


 それが母の血なのか、彼氏の血なのかは判然としなかったが、いずれにしてもその血の量では致命傷にはならず、ただの落ちにくい汚れとしての事実だけが残る。


 僕はそういう嫌な現実から目を背けるために、オムライスを口に運びながら、シマウマについて考えた。舞城さんについて考えた。『図書館』について考えて、それからA子さんのことを考えた。


 それはどれも明確で価値のある結果はもたらさなかったが、その思考は今の僕には必要なものだった。


 母は一言も発さずにオムライスを食べ終えると、食器をそのままに自室にこもった。


 僕はケチャップの付いた皿をシンクに運ぶ。時折、母の部屋から物を投げる音や叫び声が聞こえてきた。


 明日はA子さんに会える。


 話すことがたくさんある。舞城さんのことや葉蔵さんの話。シマウマについて立てたいくつかの(それは有力というよりはレポートの文字稼ぎをするように稚拙なものもあったけれど)仮説。


 僕は耳を塞いでそれについて考えることに努める。


 ○


 次の日、学校に向かう途中の横断歩道で、僕はA子さんに会わなかった。たまたま時間がずれてしまったのかもしれない。僕はそのことを残念に思う。しかし、放課後になれば会うことが出来る。話すことが出来る。僕はそのことに期待をする。


 しかし学校に行った後でも、胸のざわつきは収まらなかった。昨日の母の破局が尾を引いているのかもしれない。僕はそのざわつきを見ないふりをする。


 教室に入ると丸井は渕と将棋を指していた。周平は横でその盤面を真剣な表情で眺めている。


「どんな感じ?」


 そう声をかけると周平が答える。


「渕が優勢。途中まで丸井が押してたように見えたけど、攻めを上手くかわされてちょっと厳しいかも」


 盤面を見ると周平の見立ては正しいように思った。丸井の方から攻める手がかりがほとんど無い。


「……円、なんかあった?」


 ふと盤面を眺めながら丸井は言う。


 僕は慌てて笑顔をつくる。暗い顔をしていただろうか。


「え? なんで? 別になんもないけど」


 実際に何も無かったように解決するはずだ。放課後、A子さんに会うことが出来れば。少なくとも僕の心のもやもやは解消され、僕にとっての日常が戻ってくる。


「そう?」


 そう言って、丸井は駒を動かす。受けに徹した手。悪手ではないが、好手とも言い難い。


 時計を見る。時間が過ぎるのが遅く感じる。A子さんに早く会いたい。


 その日は一切の授業が頭に入っていかなかった。僕のノートは白紙のまま、ただ開かれた状態で机の上に広げられていた。時間が早く過ぎることを願った。


 その日最後の授業の終了を知らせるチャイムが鳴って、僕は鞄を持って教室を飛び出した。その後はホームルームが予定されていたが、僕はもう待ちきれなかった。自分が早く行ったところでA子さんが来る時間は決まっているのだからその早引きに意味がないとは分かっていたけれど、自身を律することができなくなっていた。


 走って校門を抜け、学校前の短い横断歩道を渡って、集合場所の家柄木緑地公園を目指す。


 家柄木緑地公園に着いた時、まだ16時05分で、A子さんがいつも来る18時まで二時間近く待つ必要があった。


 僕は公園のベンチに座った。


 小学校低学年くらいの男の子が三人が鬼ごっこをして遊んでいた。小学校高学年くらいの女子が二人、鉄棒の近くで何かを話していた。まだ幼稚園児くらいの男の子と女の子が小さな砂場で小さな山を作っていた。男の子が木の棒を使って山にトンネルを掘ろうとしていた。その子どもたちの母親と思われる二人の中年の女たちが離れたところから(恐らくその子たちが通う幼稚園や彼女らの夫の愚痴に華を咲かせながら)彼らの様子を見守っていた。犬を連れた妙齢の女性が公園を通った。


 僕はそれらの光景を眺めながらA子さんを待った。


 やがて、辺りは暗くなり、子ども達は解散した。公園に残ったのは僕一人だった。夕日に照らされ、遊具が長い影をつくっていた。近くの住宅から夕飯の美味しそうな匂いが漂ってきた。


 A子さんはまだ来ない。


 日が完全に沈み、闇が公園を覆い尽くしてもA子さんは来なかった。


 僕とA子さんは連絡先を交換していなかった。二人がこの公園に集まるというのは徹底されたルールで、どうしても来られないときは事前に知らせておく必要があった。もちろん、どちらかが急に体調が悪くなり、来られなくなった時は連絡手段がないので、僕は彼女と連絡先を交換したかったが(もちろん、そのような実務的な理由だけではなく、彼女との繋がりを強固なものにしたいという下心も少なからず含まれていた)、彼女に連絡先を訊くのは神聖なものを汚してしまうような、今の繋がりが切れてしまうような危うさを感じて、僕はA子さんに連絡先を訊くことはなかった。


 その日、僕は大きく落胆をし、家に帰った。


 次の日も僕は彼女を待った。さらにその次の日も。毎日僕は彼女を待ち続けた。


 しかし、彼女がそれから姿を見せることはなかった。

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