第19話
僕は深呼吸をした後で、大きくのびをした。
両手の指を絡ませて、手のひらを天に向け、身体中の筋肉と骨を引き伸ばした。それは些細なことだけれど、僕にとっては必要なことだった。その行為はとても重大でとても小さな意味を持っていた。
それから水で満たされたコインランドリー内に戻り、室内を観察した。正面に5台のドラム式洗濯機が並び、両脇にもそれぞれ2台ずつ設置されている。洗濯機たちは突如コインランドリー内に現れた僕のことを(あるいはずっと昔から僕はここにいたのかもしれない)興味深そうに眺めていた。左から2番目の洗濯機だけがゴウンゴウンと動き続けていた。洗濯機の後ろにある壁には「コインランドリー内飲食禁止」とゴシック体で印刷されたポスターが貼られていた。
さて、どうすればいいだろう?
僕は考える。この世界でどうすればA子さんを見つけられるだろう。外に出て、闇雲に歩き回るべきだろうか。そうすれば『図書館』を見つけた時のように、それが必然であるかのように、僕らはまた出会うことができるのだろうか。それともここで待つべきだろうか。このランドリー内に僕が現れたのは意味があると考えて、次に起きることをじっと待っているべきだろうか。どうすればいいのだろう?
一切勉強をせずに定期試験に臨んだときみたいな酷い気分だった。解法はいくらうんうん唸っても浮かんで来ず、砂漠のように荒廃した解答用紙の白さをなすすべなく眺めていると、行き場のない後悔ばかりがぽこぽこと生まれていく。わかりきっていたことだ。後悔するとわかっていながらいつも間違った道ばかり歩いている。間違った道でいつもありもしない正解を探している。
どうすればいいだろう?
一匹の鯵が僕の前を横切って泳いで行った。その鯵はすぐに壁にぶつかり、不思議そうな顔をして近くを旋回した。小さな白い泡が上に上がっていくのが見えた。やがてピーッと高い音が鳴った。
回っていた洗濯機が止まった。
空間を支配していた洗濯機の稼働音が消え去って、辺りはしんと静まり返る。
僕は唾を飲み込んだ。
開けるべきだ。そう直感した。僕はこの洗濯機を開けなければいけない。
ゆっくり手を伸ばし、肘が伸び切る前に一度辺りを見回した。何も起こっていない。この洗濯機を開けるまでは何も起こらない。そういうルール。僕はこの洗濯機を開けた後で何が起きるかを想像した。しかしそれはまるで意味の無いことだった。僕は早々に予測することを諦めて、息を吐き、腹に力を入れて洗濯機の蓋を勢いよく開けた。
最初に目に入ったのはデニムのジーンズだった。その他にもくしゃくしゃの白い布も見えて(あれはシャツだろうか?)、僕はデニムの色移りを心配しないわけにはいかなかった。これらの衣服をこの洗濯機に入れた人は衣服に興味を持たなかったのだろう。それらを慎重に取り出すと、その奥に何かがいるのが見えた。
人だ。
思わずぎょっとして後ずさる。人がTシャツや靴下、パンツに混ざって洗濯機の中にいた。器用に身体を折り曲げドラムの形にぴったりと収まっている。
「ふむ」とその男は言った。それから「好きなんだ。こういう狭いところが」と続けた。そして黒々とした目を僕の方に向けた。「円くん。君のことは聞いている」
僕は何も答えることが出来なかった。目の前の異様な光景に目が奪われていた。
男はもぞもぞと身体を動かし、洗濯機の中から這い出てきた。ぱらぱらと洗濯物が落ちた。男が立ち上がった時、僕は再び驚いた。彼の身長は190cmはあろうかという長身だったからだ。この大きさの身体を一体どうやってあの洗濯機の中に詰め込んだんだろう?
男は皺の入った黒のスーツを着ていて、そのサイズはやや大きすぎるようだった。顔のパーツひとつひとつは整っていたが、バランスが少しずつずれていて、人を不安にさせるような顔立ちだった。基本的に自身の容姿にこだわりを持っていないような風貌だったが、ぶらんと両脇に垂れ下がった手だけはとてもよく手入れをされていた。つまり、彫刻のように美しい手の形をしていて、ささくれなどもなく、10本の指に備え付けられている爪は全て理想的な形をしていた。
男の頭にはまだ黒のボクサーブリーフが乗っていたが、彼は気にすることなく僕を見下ろし、頭から足の先まで一通り点検をした。そして親指で自身を指し、「回るランドリーボウイと呼んでくれ」と言った。「ボーイじゃないぞ。ボウイ。デヴィッド・ボウイのボウイだ。デヴィッド・ボウイはわかるな?」
僕は頷く。回るランドリーボウイ?
回るランドリーボウイは首を少し傾けて、耳の水抜きをした。このランドリーは、いや、この世界は水で満たされているのに水抜きをするというのも変な話だが、彼は確かに水抜きをしていた。あるいは水抜きのような動作をした。その時に頭に乗っていたボクサーブリーフははらりと落ちた。
「案内人を頼まれている。葉蔵くんから」彼はそう言った。
「葉蔵さんを知っているんですか?」
「もちろん。会ったことはないがね」
回るランドリーボウイは耳の水抜きが終わると、室内を横切って洗濯機を端から一台一台注意深く点検し始めた。毎朝のルーティンをこなしているみたいにとても自然な動作だった。
「さて」と彼は言った。「何か質問はあるかね?」
「回るランドリーボウイ?」僕は言った。
「いい名前だろう? なんていったってインパクトがある」
「なぜ洗濯機の中に?」
「言っただろう。好きなんだよ。狭いところが」
「この世界が水に満たされているのは?」
「重力みたいなものだ。君はそういう世界なんだと頭をふにゃふにゃとスポンジみたいに柔らかくしてただ納得をすればいい」
回るランドリーボウイはコンコンと洗濯機のひとつをノックした。そのノックで洗濯機の機嫌を訊いているらしかった。洗濯機がなんと答えたのかはわからないが、快い返事が聞けたらしく、回るランドリーボウイは満足そうに頷いた。それから彼は「君の望みはA子さんという女性に再び会いたいということだったね」と言った。
「A子さんの居場所がわかるんですか?」
「落ち着け、少年。実際それはとても難しいことなんだ。君たちの世界の役所手続きくらい難しい」
回るランドリーボウイは冗談なのか本気なのかわからない口調でそう言った。
「あくまでも我々が君に与えることができるのはヒントのようなものだけなんだよ。君はA子さんと再び会えるという保証はないし、仮に会えたところで以前とは全く違うものになっているかもしれない。それは誰もわからない」
「以前とは全く違うものになっている?」
「つまりは有り様が」
「それでも僕はA子さんに会わなくちゃいけない」
「ふむ」と回るランドリーボウイは言った。「それはたとえば世界を捨ててでも?」
僕はそのたとえに少し違和感を抱いた。普通は「世界中を敵に回してでも」とかじゃないだろうか。しかしそれがどんなたとえであれ、僕が言うべき答えは決まっていた。
「はい」
回るランドリーボウイは顎に手をやり、考える素振りを見せた。その時間は長すぎることもなければ短すぎることもなかった。つまりは何かを思案するのに適切な時間だった。それから彼は僕が先程やったみたいに大きくのびをした後で「ここは広すぎる」とぼそりと呟いた。彼は僕に顔を向けた。その彼の目には感じたことの無い不思議な感情が乗っていた。
「ドライブをしよう」
コインランドリーの外にはいつの間にか小さなワゴン車が停車されていた。
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