第20話

 その車はとても小さかった。回るランドリーボウイが運転席に乗り込むには背中を大きく曲げ、前かがみになる必要があった。膝は彼の目の前に突き出て、ステアリングが彼の両膝の間に挟まれた。見るからに窮屈そうだったし、それで正常な運転ができるとは思わなかったが、当の本人は全く気にしていない様子だった。


 僕が助手席に乗り込むと「好きなんだよ。窮屈なところが」と彼は言った。


 シートベルトを締め、「どこに行くんですか?」と僕は訊いた。


「ふむ」と彼は言った。


 僕は言葉の続きを待ったが、いくら待ってもその続きが彼の口から話されることはなかった。彼の返答はその「ふむ」で完結したらしかった。


 車はのろのろと走り始めた。葉蔵さんが運転していたフェラーリに比べて、その車は窮屈だったし、シートは固かった。車内はやや生臭くて、口で息をする必要があった。加えて、回るランドリーボウイはお世辞にも運転が上手いとは言えなかった。スピードはほとんど出ていないはずなのに、頻繁に急ブレーキをかけ、その度に僕たちはフロントガラスに額をぶつける羽目になったし、ハンドル操作もかなりいい加減なものだった。曲がる時にはそれがどんな曲がり角であれ、ステアリングを可能な限り切った。そこに調整というものはなかった。曲がりすぎたら今度は逆方向にいっぱい切り、車はジグザグと蛇行した。さらに、ただでさえ窮屈なのにその車はAT車ではなくMT車だったため、右膝のみならず左膝もクラッチを踏み込む度に大儀そうに上下した。運転免許を持っていない僕の方がまだいくらかマシに運転できるだろう。


 圧迫された車内に比べ、ウィンドウの外は神秘的な空間が広がっていた。街の中を多様な魚が泳ぎ回り、美しい光がどこからか差し込んで、水に沈んだ街を照らしていた。魚の銀色や水の透き通るような青や白い光は調和していて、芸術的だった。


「Zebra and Traffic-light Lady」


 ぽつりと回るランドリーボウイは言った。


「え?」


「Zebra and Traffic-light Lady。知らないのか? 1987年にリリースされた曲だ。あまり日の目を浴びることはなかったが、一部のコアなファンから長い間愛されている。これはセドリック・バウアーが歌っている」


 そう言われて初めて車内に音楽がかかっていることに気がつく。歌詞は全て英語で所々しか単語を拾うことが出来なかった。スローテンポのバラードだ。伴奏も歌詞も、一切の無駄はなかった。あるべきところにあるべき音があったし、過剰な音は一音も存在していなかった。洗練されている。この曲もセドリック・バウアーも知らなかったが、聴いていてとても心地の良い曲だった。


 Zebra and Traffic-light Lady。ゼブラと信号機のレディ。


 信号は赤。目の前を車が走り抜けていく。その車の間に向かいの歩道が見える。何人かが立ち止まっていて、しましまの横断歩道の前で信号が青に変わるのをじっと待っている。その中に一人の女性を見つける。惹き付けられる。抗い難い重力が働いているみたいに。


 僕はそのタイトルを聞いてA子さんを思い出さないわけにはいかなかった。A


「ふむ」と回るランドリーボウイは言った。


 車の前をマナティが通り、回るランドリーボウイは急ブレーキをかけた。僕たちはおでこをフロントガラスにぶつける。


「私と葉蔵くん。『図書館』。A子さん。舞城さん。シマウマ。そしてこの水に沈んだ街。君は多くの謎を抱えている。いささか過剰に」


 回るランドリーボウイはマナティが通り過ぎるのを確認したあとで、アクセルペダルを踏み込みながら言った。


「しかし実の所、原因はひとつなんだ。君の抱えている謎の全てがそこから生まれた」


「その原因というのは何なんでしょうか」


 彼は前を見据えて、黙ったままだった。運転に集中しているようにも見えたし、僕の質問について考え込んでいるようにも、あるいは車内に流れている音楽に耳をすませているようにも見えた。


 それからたっぷりと時間を置いて彼はようやく口を開いた。


「君くらいの歳だと仕方のないことかもしれないが、君はもう少し広く世界を見るべきだ」


「どういうことですか」


「世界は変わっているんだよ。とても大きく、ひっそりと息を潜めて。君は、君たちはそれに気づいていない。変容しているんだ」


 僕はその言葉について考えた。変容している。


「シマウマが現れ、世界は変容した」僕は言った。


「いいや」回るランドリーボウイは首を振った。「もっと前からだ」


「もっと前?」


「正確には17年前の8月13日からだ」


「17年前」僕は言った。僕が生まれた年のことだ。僕は12月生まれだから僕が生まれる4か月前。「17813


「ふむ」と回るランドリーボウイは言った。「その日から世界は少しずつ変容している」


 僕は17年前に起こった主要な事件について考えてみた。総理大臣が変わった。30年ぶりの記録的大雨により、広範囲の土砂崩れが起きた。子ども向けの歌が大ヒットをした。メジャーに行った日本人が3試合連続でホームランを放った。どれも後から――つまりは僕がものごころがついたあとに、断片的に両親の話や歴史の教科書、テレビ番組のあの時を振り返る、みたいなコーナーなどから――聞いた話だし、正確な日付はわからない。それにどれも世界が変容するような大事件とは思えなかった。


 キィーッと高い音とともに再び急ブレーキがかけられ、僕たちは再びフロントガラスに頭をぶつけた。


「到着だ」回るランドリーボウイは言った。


 外を見るとそこは見覚えのある光景だった。象のイラストが描かれた滑り台と小さな砂場だけがあるシンプルな公園。家柄木緑地公園だ。そしてその公園の中央にはひとりの女性が立っていた。A子さんがいた。


「A子さん!」


 思わず僕は声を上げた。慌ててシートベルトを外し、車から出ようとするが、回るランドリーボウイが僕の肩を掴んだ。


「焦るなよ。少年」回るランドリーボウイはそう言った。


 どういうことだ? 早くしなければA子さんは行ってしまう。これがA子さんに会える最後のチャンスかもしれないのに。なんで邪魔をするんだ。


「離せよ!」


 つい声を荒らげてしまう。A子さん。早く会いたい。会って謝りたい。また一緒にシマウマを追いかけよう。


 しかし、肩を掴む手の力が緩むことはなかった。


「よく見ろ」


 彼は言った。


 よく見ろ? そう言われてあらためてA子さんを見ると、近くにもう一人立っていることに気づいた。あれは誰だ? 若い男だ。学ランを片手にワイシャツ姿で、時折額に滲む汗を手のひらで乱暴に拭いながら、何かをA子さんと話している。


 そして気がつく。あれは僕だ。顔を赤くし、できるだけ興奮を抑えて、それでいて戸惑いは隠しきれないまま、A子さんと話をしている。僕はその内容を一語一句覚えていた。


 そう、記憶だ。記憶が今、目の前で再現されている。


 これは僕とA子さんがシマウマを追って、初めて出会った記憶だった。




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