第18話

 車内は『図書館』と同じく、一定の秩序が保たれていた。落ち着きのある空間だった。


 葉蔵さんの運転は減速も加速もスムーズで、車内にいる僕はスピードの変化を車窓から流れていく景色だけでしか判断ができなかった。


 しばらくの間、僕らは何も話さず、車内に搭載されたスピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。クリームの『ホワイトルーム』、マイケル・ジャクソンの『ジャム』、ジミ・ヘンドリックスの『パープルヘイズ』、オアシスの『ドントルックバックインアンガー』。いずれも有名な洋楽の曲で、テンポ感や曲調に統一感がなかった。葉蔵さんはその流れている音楽に拘泥していないのかもしれないと僕は考える。


「君とA子さんには何があったんだろう」


 葉蔵さんがようやくそう口を開いたのは町を抜け、高架橋に差し掛かった時だった。橋の上から広大なコバルトブルーの海が見えた。


「君の話を聞いているに君とA子さんの仲は良好だったはずだ。少なくとも剣呑ではなかった。もちろん、僕は君の意見しか聞いていないからA子さんがどう思っていたのかは知らない。話す人によっては大きく偏った話をする場合もある。しかし君はそうじゃない。君はある程度、客観的に自身と他人の関係を評価することができるはずだ。そうじゃない場合もあるかもしれないけれど、少なくとも君は君とA子さんの関係について著しく偏った意見を話さない」


「どうだろう。それが分かっていなかったからA子さんは僕の前から消えたのかもしれない」


 海面は日光を反射して光の鱗を並べている。かもめが飛んでいる。橋を渡っている車は今のところこのフェラーリ一台だけのようだった。


「君はA子さんが消えた理由について、心当たりがある」


 疑問符を付けずに葉蔵さんは訊く。


「僕はA子さんが消えた理由について心当たりがある」


 葉蔵さんに釣られて、復唱をするように僕は答える。


「それは君にとって恥ずべきことだ。そうだろう?」


 僕は頷く。


 A子さんという人物について考えた時、僕の心当たりはA子さんが消えた理由にはなり得ないと思った。彼女はそれを笑って許してくれる。きっと。


 しかし、A子さんが消えた理由についてそれしか思い浮かばないし、それが少なくともA子さんの消失と何らかの関わりがある確信があった。


「嘘をつきました」


 僕は告白する。教会で神父に懺悔をするように。それが許されるとは決して思っていないけれど。


「シマウマを見たと嘘をつきました。『午前と午後のゼブラ』の活動を終わらせたくなくて、A子さんとの関係を続けていたくて僕は嘘をつきました。結果として、シマウマを見つけることができたけれど、嘘をついたことに変わりはない。僕は彼女の信頼を裏切りました。それが僕の心当たりです」


「A子さんは君のそのたった一度の嘘を許容しない人だったのかな」


「いえ。A子さんだったら僕が嘘をついたと知っても怒らなかったと思います」


「じゃあ、もしそれが原因だった場合、A子さんの消失にはA子さんの意思は含まれていないんじゃないだろうか。消失は抗えないルールだったんじゃないか。その話を聞いて僕はそう考える」


「抗えないルール」


 僕は繰り返す。


 車は橋を渡り切った後、右折し、海沿いを走る。今度はテトラポッドがよく見えた。


「そして君はA子さんを探す術を持たない。彼女の連絡先も本名も勤務先もわからないから。君は現状、どれだけA子さんに会いたいと願ったところで指を咥えて奇跡が起きるのを待っているしかないわけだ」


「その通りです」


「君は僕の友人だ。できることならなんとかしてあげたいと思っている」


 僕は葉蔵さんの言葉の続きを待つ。


「僕は君に答えを提供することはできない。しかし。」


 葉蔵さんは言う。


「一度だけだ。それが単なる夢で終わる可能性もあるし、A子さんに関する重大な手がかりが見つかるかもしれない。それは君次第だ」


 僕は葉蔵さんの言葉について考えてみる。しかし葉蔵さんの話し方は僕に理解してほしいと思っている話し方ではなかった。


「……あまり内容がつかめません」


「僕も全てを説明したい所だけど、ここまでだ。そこから先を僕が口にするのは許されていない。本当を言うとこれから君にしてあげることもルールから外れた行為だけれど、なんとか許しをもらったんだ。もちろん、誰から、と言うのも僕は説明できない。言うまでもなく」


 葉蔵さんの言葉は全てが曖昧だった。しかし、A子さんの手がかりを掴めるのであればなんだってよかった。


 僕は頷く。


「わかりました」


 そう言って頷いた途端、唐突に全ての情報が切り替わった。以前、『図書館』から追い出された時と同じく、落丁した本を読んだ時のようにそこにあるべき過程が一切失われていた。


 目の前にはゴウンゴウンと音を立てて回転するドラム式洗濯機があった。


 フェラーリの柔らかいシートに座っていたはずの僕はそのドラム式洗濯機の目の前に設置された固い長椅子に腰を下ろしていた。周りには目の前の洗濯機と同じ形の洗濯機がぐるりと僕を囲むようにして設置されている。


 僕はコインランドリーにいた。


 目の前のぐるぐる回る洗濯機を眺める。数ある洗濯機の中で稼働しているのはその一台だけで、そのドラム式洗濯機の稼働音だけが響く。


 口を開けると白い泡が出て宙に昇っていった。体を動かすと妙な抵抗感があった。僕の目の前を小さな銀色の魚が横切っていった。


 そこで僕は気がつく。コインランドリー内が水で満ちていることに。


 僕は水中にいるはずなのに息苦しくなることはなく、たぶん、ほとんど無制限でその水中内を活動することができた。


 真後ろはガラス張りになっていて、外の様子を見ることができた。立ち上がり、コインランドリーから一歩、外に出てみる。コインランドリーの前には道路を挟んでコンクリート打ちっぱなしのマンションが建っていた。隣には小さなスーパーがあった。そのスーパーの駐車場には黒のアウディと白のハイエースが停まっていた。


 そしてそれらは、コインランドリー内同様に水の中に存在していた。町が丸ごとダムの底に沈んでしまったみたいに。


 小魚の群れがスーパーの上で何かをつついていた。アウディの空いた窓から鮮やかな色のカクレクマノミが顔を出した。カレイがマンションの前を優雅に漂っていた。


 ここではあらゆる海の生物が生息しているようだった。水温や水圧、潮流を無視して。


 上を見上げると遥か上空に光の鱗が見えた。フェラーリに乗って橋の上から海を見た時のように。


 これだけの水で満たされているのなら、あらゆるものが水圧の影響で形が変形しているはずだが、建物や車は地上にある時と同じ形を保っていた。そしてそれは僕も同様だった。水圧で内蔵がつぶれてしまうということもないらしい。僕は至って健康だった。


 なぜ僕はここにいるのか。なぜここは水で満たされているのか。なぜ僕は水中で息ができるのか。当然いろんな疑問が頭に浮かんだけれどそれらを全て振り払う。


 葉蔵さんは言った。


 、と。


 きっとこの世界にA子さんに繋がる手がかりがある。僕はそれを見つけ出さなくてはいけない。


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