第17話

 雨が降っていた。


 静かに降るその細い雨は冷たく、僕の身体を貫く。


 足取りは重い。音がこもっていて、明確な形を持たない。景色は歪んでくすんでいる。


 信号は赤。


 僕は立ち止まる。


 その横断歩道はもう特別なものじゃない。向かいの信号待ちをしている人たちの中にA子さんはいない。


 信号の待ち時間にも、降り続ける雨にも、僕の前を横切る車にも、信号待ちをしている男がつけているイヤホンから音漏れがしていることも、あらゆるものごとに苛立ちを覚えた。


 信号が青に変わった。


 人々は横断し始める。その縞模様を踏みつけて。


 もうゼブラはなんの意味も持たない。


 ○


 その日、丸井は女子用の制服を着ていた。普段ジャージしか着ない丸井が制服を着ている姿は珍しかった。


「正しいだろ。生物学的には」


 自嘲気味に丸井は言う。僕は頷く。


「そうかもしれない」


 僕は丸井の性自認に対して関心を持っていなかった。少なくとも丸井が女の子然とした格好や言動を好まないことは知っていたけれど、それでは性自認が男なのかと言われればそれも違う気がした。あえて、突っ込んでそれを訊きたいとも思わなかったし、性自認がどうであれ、丸井は僕にとってただの丸井だった。


 しかし、他のクラスメイトたちは必ずしもそういう認識ではなかった。丸井のことを遠巻きに眺め、彼女、または彼にどう接するべきかを悩んでいる。そうやって悩んでいる間に丸井は教室から孤立していく。僕と周平、渕を除いて。


「授業参観か何かあったっけ」


 丸井は首を振る。


「ただ優等生ぶろうと思っただけ」


 その声は諦念を含んでいるように聞こえた。


 何かがあった。たぶん、両親と丸井との間で。それは分かるけれど、今の僕にそれをいたわる余裕は無かった。丸井にどれだけ大きな問題がのしかかっていようが、その他の人間がどんなに辛い苦境に立たされていようが、世界でいちばん不幸なのはA子さんとの繋がりが途絶えた僕だと信じていた。それが他人から見れば単に人生において定期的に訪れる平凡な決別だったとしても、その絶望は僕にとっては紛れもない真実だった。


 鞄から出した筆箱が、手が滑って床に落ちた。チャックが閉まっていなかったのかいくつかのペンや消しゴムが散らばった。


 それを拾おうとかがみこんだ時、前から白い腕が伸びてペンを拾った。


「はい」


 拾ってくれたのは玲だった。僕は簡素に礼を言ってペンを受け取る。


「ねえ、円。最近元気ない?」


 図星だったけれど、取り繕う余裕も必要も感じなかった。


「まーね」


「なんかあった? そうだ。今度またカラオケ行くんだけど、円も来ない? 前誘った時も来てなかったし、久しぶりに。パーッと騒げば気分もいくらか晴れるでしょ?」


「いや、いいよ。俺は」


「いいよ、じゃなくて。そうやって塞ぎ込んでると余計嫌なこと考えちゃわない? 別に歌わなくてもいいし、無理だと思ったら帰っていいからさ。しょうがないからカラオケ代はお姉さんが奢ってあげよう」


「いいってば」


 つい険のある言い方になる。まずいと思って顔を上げると、驚き、傷ついた表情の玲がいた。


 フォローをしようとしたが、すぐに思い直す。そんな資格は今の僕にはない。現に僕は玲のことを鬱陶しいと思ったし、傷つけばいいと思ってその言葉を放った。


「いいって。構わなくていいから」


 僕はそう言って残りのペンをかき集めると彼女から背を向ける。


「……そっか。ごめん。うざかったよね。ごめん」


 彼女の声は少し震えていた。溢れそうになる感情を制御するために深呼吸をするのがわかった。


 スマホが振動し、画面を見ると一部始終を見ていた丸井からメッセージが来ていた。


〈あの言い方はねーだろ。玲ちゃんにちゃんと謝っとけよ〉


 丸井の顔を見る。丸井が口だけを動かし、「あ、や、ま、れ」と言ったのがわかった。


〈いいんだ。別に〉


〈よくないって。お前のことを心配して言ってくれたんだぞ。後からでもしっかり謝れって〉


 僕はそれには返信をしない。


 予鈴が鳴って僕は席に着く。


 全てが空っぽで無意味だった。


 時間が過ぎるのを無感情に待った。このまま百年、千年が経って体が朽ちて仕舞えばいいと思った。あるいは手っ取り早く、世界が崩壊するような隕石が落ちてきて、全てをめちゃくちゃにしてくれてもよかった。


 英語の授業中、クラちゃんが何度か僕を指名した。ぼーっとしていたのが分かったのだろう。僕はクラちゃんが指定したいずれの問題も答えることができなかった。


 クラちゃんはため息をついて答えられなかった僕を座らせると、その問題を解説し始める。


 僕はその解説を聞かずに窓の外を眺める。


 学校の前に赤のフェラーリが停まっているのが見えた。この周辺でフェラーリのような高級車を見ることは滅多になかった。フェラーリの前には若い男性が立っている。彼は僕が見ていることに気がつくと(数ある教室の中から僕一人の視線を見つけ出すのは困難なはずで、彼はもともと僕の姿を見つけていて、僕が気がつくのを待っていたのかもしれない)にこやかに手を振った。それは葉蔵さんだった。


 僕は驚く。葉蔵さんの姿を『図書館』の外で見ることも初めてだったし、僕はそもそも葉蔵さんに学校の場所を教えたことはなかった。


 僕は教室を飛び出す。背後からクラちゃんが僕を制止する声が聞こえた。

 校庭を横切って葉蔵さんの元へ行くと、彼はそれが当然とでも言うように「やあ」と軽く手を上げた。


「なんでここにいるんですか」


 走ったせいで息が上がっていた。そのために少し責めるような言い方になってしまったが、葉蔵さんは全く気にしていない様子で「最近、来てくれてないだろ。『図書館』に」と言った。


 どうして学校の場所が分かったのかだとか、どうしてこんな真っ昼間にわざわざ来たのか、などという僕が持つ疑問はおそらく葉蔵さんの中では答える、答えない以前に存在していないのだろう。僕が聞きたい答えではない答えを彼は意識せずに提示する。


「何かあったんだろう。それはわかる。問題は何があったのか、だ。君はシマウマの変について熱心に調べていた。それを唐突にやめた。それは何故だろう。その問題が既に解決してしまったのか、それとも諦めたのか、あるいは問題の解決がなんの意味もなさなくなったか。いや、そうじゃないね。君は初めこそ、問題の正体を探そうとしていた。しかし、手段が目的に変わった。確かA子さんと言ったね。彼女との繋がりを保ち続けるために君はシマウマを探していた。もう探さなくなったということは彼女との繋がりがシマウマを介さなくとも頑強なものになったか、あるいはその繋がりが断たれたか。――その顔を見るに後者だね」


 シマウマ探しを辞めたことは葉蔵さんには話していない。しかしなぜその事実を知っているのか訊いたところで納得がいく答えは返ってこないと思った。


 彼はフェラーリのドアを開ける。高貴な姫をエスコートするみたいに。


「まあここで立ち話をするのもいいけれど、せっかくのいい天気だ。こういう晴れた日はドライブでもしようか」

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